2.9
次の日、ぼくは高坂の家の台所に立っていた。
きっと自分で考えていたより疲れていたのだろう、目が覚めた時にはもう13時で、スマートフォンには早速高坂から連絡が届いていた。
「夏らしいものが食べたいです」という、いつになく曖昧な注文。
何か食べながら今後のことについて話し合おうと約束したのを、それでようやく思い出した。
一時間遅れで了解し、日が暮れるまでの間パソコンで修論の準備をしながら、晩に食べるものをぼんやりと考えていた。
夏らしい食べ物と聞いても何も思い浮かばなかったが、それでも飲食店情報サイトを巡っていくつか候補を絞った。
けれど一つは定休日、もう一つは早めの夏季休業に入ってやってないことがSNSで告知されていた。最後の一つは前の寿司屋ほどじゃないけど学生にはいささか高過ぎる価格設定が二の足を踏ませた。
もういっそラーメン屋の冷やし中華でいいかとも考えたが、麺類をテイクアウトするのもなんだか気が引けた。
──そっちって調理器具とかってある?
──一応あるよ……って、もしかして作ってくれるの?
──大したものは作れないかもだけど、それでもよければ。
──やった!
台所に案内されて驚いた。調理器具はどれも新品みたいに新しくて、ほとんど使った痕跡がなかった。
どうやらそこを使うのは、高坂の母以外にはいないらしい。料理の苦手な高坂の代わりに母親がたまにやってきてご馳走を作ってくれるらしいのだ。
だから水回りやコンロ周辺はきちんとリフォームしてあって、ちゃんとガスも通っていたし、炊飯ジャーや電子レンジももちろんあった。
調味料も、ほとんど減らないまま一通り完備してある。
けれど、魚焼き用のグリルだけはなかった。
「へー、鮎かぁ。子どもの頃旅行で食べた以来かな」
スーパーで買ってきた鮎をいかにも物珍しそうに高坂は眺めていた。
フライパンで焼くと言い張るぼくをよそに、高坂は物置を漁って七輪を引っ張り出してくれた。見るからに年代物ではあるが、確かに七輪で焼いたらうまそうだった。
高坂が練炭を買いに出掛けてくれている間に、ぼくは副菜のなすとししとうの煮浸しと卵焼きを作ってしまった。なかったときのために自分でも用意していたけれど、顆粒の出汁まで常備されていたのには少し驚いた。
縁側に七輪を出して、スマートフォンでやり方を調べながら練炭に火をつけ、鮎を塩焼きにする。
首を振って回る扇風機の生ぬるい風が、時々火照る肌を少しだけ冷やした。
「まさか斎藤くんがこんなに料理できるなんて。なんかちょっと悔しいかも」
「この程度なら普通だよ。ただの家庭料理。出汁も顆粒だし。本当は汁物も何か作りたかったんだけど……」
「十分だよ。わたしじゃ絶対できないもん。料理するの好きなの?」団扇で火に空気を送りながら高坂が尋ねた。
「うん、料理自体は好きだよ。うまいかどうかは別として。高校の頃から母親がパートの日は妹と交代で作ってきたから」
「嫌になったりしないの?」
「そりゃたまにはね。でも、料理をしてるといろんな考えから一旦自由になれるんだよ。頭を占めてる嫌なこととか煩わしいことも一旦宙吊りになって、自分だけの時間を送ることができるんだ」
「斎藤くんにとって料理は、わたしにとっての書くことと同じなんだね」
「え、そんな風に小説を書いてたの?」
「うん。何も考えないために書いてる。それこそ斎藤くんの料理みたいに。ある種の逃避というか、リフレッシュに近いのかな?」
「それでよく書けるね。むしろそういう方がよかったりするのかな?」
「どうなんだろう。多分わたしみたいに書く人はそんなに多くないと思う。ただ、自分の思い描いた世界を自分の言葉遣いで記していくのが楽しくって、そうしてる間だけ嫌なことが忘れられるの。中学の頃にはもうそんな感じで書いてたかな。誰かに読ませるつもりなんてなかったから本当にただの自分の趣味の域を出なかったんだけどね」
「なんでまた文芸誌の新人賞なんて応募しようと思ったの?」
「それが、お母さんが勝手に応募しちゃって」
「え、そんなアイドルみたいな理由で?」
「ごめん、嘘。冗談だよ。言ってみただけ」
「まじか、びっくりしたー」
「あははは」ちょっと恥ずかしそうに高坂は顔を手で覆って笑った。こんな冗談を言うなんて思ってもみなかった。
「本当はね、ただの好奇心というか、自分が書いたものを人がどんな風に読むんだろうって気になったから。それだけだった」
「それで賞取っちゃうなんてやっぱすごいなぁ」
「うーん、でもそれが幸福かどうかなんてわかんないけどね」
きっと商業の世界では、それまでの高坂のような書き方はとても許容してくれないだろう。ただ楽しくて書いていただけの人には、その変化についていくのは容易なことじゃないに違いない。
「すごいのは斎藤くんだよ。わたしなんて目玉焼きすらろくに焼けないんだよ」
「いやいや、全然すごいの次元が違うって。それに高坂が料理までできていたら、こうしておれたちが会うことだってなかったんだし」
「そっか。なら料理できなくてよかったのかも。実はわたし、料理が苦手なのちょっとだけコンプレックスだったんだ」
皮がいい具合に焼き色をつけ始め、尾鰭や尻尾が黒く焦げ始めた頃合いで食べ始めることにした。
そのまま縁側に並んで二人で手を合わせた。いつの間にか日本酒も買ってきていたようで、切り子のグラスで乾杯した。
口に合うか内心ドキドキだったけど、頬張った瞬間に目尻を下げくれたのを見て、ぼくはほっと胸を撫で下ろした。
「美味しい」
それから、ぼくは消失してしまった週刊誌のコピーの内容を詳しく話して聞かせた。
やはり、元担当編集が尾道で高坂の声によく似た人物を見かけたという証言には、彼女も興味を引かれたみたいだった。
「うーん……尾道か……宮島には一度学部生の頃に行ったことはあるけど、そっか尾道かぁ……」
「なんか心当たりある?」
「ない、と思う……。というか、そもそもその担当が誰なのか、わからない。これまで三人も担当が変わってるし」
「そんなに入れ替わり早いの?」
「うーん、出版業界って業務委託のフリーランスの人とか契約社員の人が結構多いんだよ。わたしはたまたまだと思うけど、最初の人がすぐ契約切れで辞めちゃって、引き継いだ社員の人がすぐまた産休に入っちゃったから」
デビュー作以降高坂が伸び悩んでいるのは、ひょっとしたら編集者と良好な関係を築けてないからなのかもしれなかった。
もちろん、それだけじゃないだろうけど、一因くらいは担っていてもおかしくなさそうだった。
「尾道には?」
「うーん、そもそも知り合いも親類も西日本にいないからなぁ。まぁ、だからこそ行こうと考えるのかもしれないけれど……でもわたしなら人目のつく接客業は避けると思うんだけどなぁ」
「ただ最近はコンビニバイトでも身分証明書で確認取られたりするからねぇ。個人経営の喫茶店くらいしか働けないのかもよ?」
「それも一理あるなぁ……」
「あ、そういえば、これ話したっけ? お盆過ぎたぐらいに合宿で広島に行くんだけど」
「え、何それ、聞いてない。わたしも行く!」
「え、大丈夫なの? てかどうやって?」
「合宿の前後で尾道に行けばいいんだよ。それともスケジュール詰まってる?」
「いや、それは大丈夫だけど、そっちは? 広島ってなるとお金だって結構かかるよ」
「大丈夫、わたし、新人賞貰った時の賞金の百万円、使わずにそのまま取ってあるんだ……あ」
「どうしたの?」
「そのお金があれば確かに失踪できるって思っちゃうかもなって……」高坂の声が急に弱々しくなった。
「でもそれって、どこかで高坂が暮らしてる可能性が高いってことだよ。むしろ、お金に困って路頭に迷うより断然いいことだよ。もしかしたら、本当に尾道にいるのかもしれないよ」とぼくは明るく振る舞う。
「うん、そうだね。それはそうだ」
「そうだよ。きっと高坂は尾道にいるんだよ。よし、景気づけに飲み直そ?」
ぼくたちは置きっぱなしになっていた日本酒の入ったグラスを掲げて、軽く重ね合わせた。
「あ、そうだ、いいもの買ってきたんだった。ちょっと待っててね」
飲み干したグラスを置くと、高坂は立ち上がってどこかへ消えてしまった。
15分ほど経っても戻ってこなかったので不安になって連絡を入れようか迷っているところにようやく人の気配がした。
「じゃーん」
高坂は、さっきまでのブラウスとロングスカートという格好から着替えて、落ち着いた紺色の浴衣に身を包んでいた。
「せっかくだから着替えてきちゃった。おばあちゃんのお下がりなんだけど……ど、どう?」と少し照れくさそうな表情でこちらを伺う。
「に、似合ってるよ。なんだか大人っぽくて、その……すごくかわいい」小声でボソボソ言うのが精一杯だったけれど、それでもちゃんと言いたいことを言えたのは、きっとお酒のお陰だ。
「そ、そっか。かわいい、か。なんだか自己肯定感あがっちゃうな」と高坂もニヤつきを抑えるのを必死で頬の辺りがぴくぴく動いていた。
「あれ、それは?」と、ぼくは高坂が手に持っていた絵筆用のバケツとビニールのパッケージを指差した。
「あ、そうだった。ほらこれ、線香花火」と花火の包みを掲げてみせた。「これなら縁側でできるよね」
「いいね。飲みながらもできそう」
「うん、せっかくだからって思って。着付けに時間かかっちゃってごめんね」
「ううん、早速やろっか。花火なんていつぶりだろ」
「ねー」
高坂は庭に降りてしゃがんで、ぼくは縁側に座ったまま、蜘蛛の巣みたいな火花がばちばち散るのをしばらく無言で眺めていた。
「わたしね、人混みが苦手でね、大きな花火大会とかって今まで一度も行ったことがなかったの。こういう手持ちの花火も、誰かと一緒にやるのなんて本当久しぶりで──」
と、言いながら高坂は二つ目に火を点けようとしていた。途端にバチバチ音が鳴り始めて、小さな火の玉が高坂の顔をうっすらオレンジに照らした。
「こういう花火って大人になっちゃうとほとんどやる機会がないじゃない? ちょっと憧れだったんだよね」
「確かにねー。おれももしかしたら中学生ぶりとかかも」
「ね。なんか今だけ十代に戻ったみたい」とぼくではなく、火の玉を一心に見つめながら高坂は喋った。
「もう一人のわたしもどこかでこんな風に花火ができてたらいいな……」
「……うん」
重さに耐えかねたように高坂が吊るしていた火の玉は地面に落ち、ジュッと小さな音を立てた。
「あ、落ちちゃった」
それでようやくぼくの方を向いて、小さく笑った。
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