無上の幸福
aoiaoi
第1話
「『K』は、親友である『先生』に苦しい心の内を打ち明けた。なのに、Kの想い人と知りながら、『先生』は『御嬢さん』をKから奪い取った。
『K』は、この後自ら命を断つよね。
死を選んだ『K』の本心は、どうだったと思う?」
「澤村
そのプレートに曖昧な視線を注いだまま、シャープペンを指先でくるりと回した男子生徒は無関心な声音でぼそりと返した。
「——幸せだったんじゃないのかな」
澤村の目が険しくなる。
「は?
ふざけてるの? 親友に、こんな形で好きな人を奪われて、幸せな人がいると思う?……矢口くん、いい加減な回答はやめなさい」
その声の不穏さに、彼はようやく無感情な視線を講師に向ける。
「ふざけていませんけど。
不快な気持ちにさせたのなら、済みません。澤村先生」
矢口は素直に頭を垂れ、すいと顔を上げると浅く微笑んだ。
柔らかそうな前髪が、涼しげな瞳にさらりとかかる。
そこで、授業終了のチャイムが鳴った。
「夏目漱石の『こころ』は次の定期テストで範囲になるんだから、しっかり向き合わないと。矢口くんは超難関大学の推薦狙ってるんだし、高三夏休み前の定期テストで評定落とす訳にはいかないんだよ。わかるよね?」
「わかってます」
淡々とノートやテキストを閉じながら、矢口は口元を浅く引き上げた。
*
「お疲れ様でした」
6月下旬、夜9時半。夏帆は大きめのショルダーバッグを肩にかけると塾のドアを出た。
個人指導塾で文系科目を担当する夏帆は、主に中学・高校の国語と英語を指導している。
今の若い子たちは、いわゆる「熱い指導」を鬱陶しがる傾向にあるようだ。夏帆も自分の体温は常に低めだと感じており、ハングリー精神を燃やしての指導は得意でない。アラフォーの年廻りではあるが、自分の脱力系な思考はむしろ生徒たちの波長とそこそこ合っているとも感じる。
駐車場に向かい、無個性な黒の軽自動車に乗り込む。どさりと助手席にバッグを放り、カバンの内ポケットに手を突っ込むが、目当てのものはない。
「あー、切れたんだった煙草」
ふうっと小さく溜息をついて、夏帆は車のエンジンをかけた。
自宅であるアパートへ帰る途中のコンビニで車を停めた。道沿いにあって駐車スペースも広く、塾の行き帰りの買い物はいつもここだ。
店内に入り、レトルトのパスタソースとサラダ、ビール、煙草を手早く買う。
店を出て車のドアに手をかけたところで、背後から呼び止められた。
「先生」
華奢な長身と整った鼻筋が、コンビニの照明に仄かに照らし出された。
「……あれ、矢口くん……家この辺?」
「この辺と言えば、この辺ですかね」
矢口はさらりとそう答え、薄く口元を引き上げる。
「先生に相談あって、待ってたんです。先生ここでよく煙草とか買い物するって言ってたから、もしかしたら来るかなって」
有名進学校に通学し、非常に優秀な頭脳を持つこの生徒は、品の良い容姿と相まって一般的な高校生とはどこか異質のオーラを放つ。だが、その抑揚の少ない口調と無機質な微笑は、いつも本当だか冗談なのかよくわからない。
「あー、さっきの『こころ』の続きかな? ちゃんと向き合う気になってくれたのは嬉しいな」
夏帆も、当たり障りのない笑みでそう答える。
「悪いんだけど、質問は塾以外では受けないことになってるんだ、塾の規定でね。質問あれば明日自習室においでよ。17時から空きコマだから。今日は時間遅いんだし、まっすぐ帰りなよ?」
車に乗り込もうとする夏帆にすいと歩み寄り、矢口は小さく呟いた。
「質問じゃなくて、相談です。進路のことで。
先生に話聞いてもらえなければ、俺今夜死にます」
「——……」
夏帆の思考が、一瞬ひやりと硬直した。
ドアにかけた手を下ろし、夏帆は矢口の感情の読めない目を見つめた。
「——とりあえず、ここじゃ話もできないし、君を車にも乗せられない。人目があるし。
ここからすぐのところに大きな公園あるよね。そこの駐車場に車停めて待ってるから、そこまで来て」
知り合いと軽くお喋りするようなさりげなさを装いつつ、夏帆は早口にそう囁いた。
「わかりました」
矢口はさらりとそう答え、夏帆にくるりと背を向けると何事もなかったかのように歩き出す。
重い不安に思考を揺さぶられながら、夏帆は車に乗り込んだ。
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