黄金の山羊 白銀の鹿

睦月

第1話 『プラチナロード』

 昼下がりのギルドは冒険者と依頼人で賑わっていた。

 この街にあるギルドはここだけなのだが、そこまで大きくもない街だ、普段は人も少ない。だが今日はせいの月初日だ、渡って来た旅人や月の切り替えに伴う求人でギルドもそれなりに混み合っていた。

 その人ごみの中に、隠れるように片隅を移動する影がある。きょろきょろと辺りを見回しては溜息をつき、再びフードを目深に被り直してこそこそと移動する。その影の後ろに付き従っていた青年が、流石にと口を開いた。

「……お嬢様。それはいかにも不審すぎます」

「不審で結構です! これは極秘のミッションなのですから!」

「極秘ならば尚更ここでそれを言ってしまうのはどうかと……」

「もう、サドロス! あなた、私の護衛に来てるのか文句を言いに来てるのか、どちらなのですか!?」

 サドロスと呼ばれた青年は軽く頭を掻きながら、目の前の小柄な影……少女を見遣る。

「そりゃ、まあ、護衛ですけど」

 ですけどと言いつつまだ言い分もありそうな青年をフードの下から見上げ、少女はびっと指を突きつけた。

「宜しい。ならば、しばらく黙って見ていなさい。私、物色中ですから」

「物色……もっと他に言い方は……」

「これが一番正確な表現なのです!」

 言い切って、少女はまたもフードの両端を握り締めながらギルドに集う人々を睨め付けるようにじっくりと見分している。……見分。まさに、物色や見分と表すのが正しいほど、少女は冒険者たちに不躾な視線を送っていた。冒険者たちの中にはその視線に気付く者もいたが、彼らは慣れているのかすぐに興味を無くし他所に目を向ける。そうはせず、あからさまに不機嫌さを顔に出した者には後ろのサドロスが必死の謝罪ジェスチャーを送っていたので呆れたようにそっぽを向くだけで、今の所は何も起こってはいなかった。

 何も、という事は、つまり少女の見分も済んでいないという事だ。

「腕利きが欲しいのでしたら、ギルドで正式に依頼を出せばよいでしょうに」

 じっくりじっくり、冒険者たちを見詰める少女にサドロスがごちる。そう、少女は人手を探しているのだ。腕利きの、強い冒険者を。だが。

「駄目です、己の眼でしっかと確かめないと、良い者か悪い者なのかも区別がつかないでしょう?」

「はあ。……そうは言いますけどね……」

 ごちて、再度溜息をつく。

 少女の名は、ミリーナ・フィルゼン。この街の領主の娘であり、つまりは貴族だ。そしてサドロス・バクスは彼女お付きの護衛である。幼い頃より共に育てられ、彼女の一挙一動や行動の癖を自然と教わり、主が次にどういった行動を取るか、どういった言葉をその口から吐くかを予測出来るように教え込まれた。なので、ミリーナがお眼鏡に適う人材を見つけるまで粘るだろう事も解っていたし、それがどういう人物になるのかも――薄っすらと予想がついていた。

 目を眇めじろじろと冒険者たちを見ていたミリーナの目がある一点で止まった。その視線の先を追い、サドロスは納得する。

「――サドロス! あの方、あの方です! 素晴らしい才覚に満ちています、まるで差し伸べられた神の御手のよう!」

「はあ……」

 興奮気味にぶんぶんと握り拳を上下に動かしながら目を輝かせるミリーナの視線の先には、一人の男性がいた。

 彼も冒険者だろう、鎧とマントを身に着けた旅の服装をしており、壁に貼られた依頼書を眺めている。堂々たる美丈夫で、白銀の髪を持ち白皙の貌は涼し気で、確かに多くの冒険者の中でもひときわ目立つ外見をしていた。

「よし、行きます!」

「え、ちょ、お嬢様――……」

 すっと姿勢を伸ばしたミリーナは決意をその顔に湛え、サドロスに小さく宣言すると返事も聞かずに足を踏み出した。

「そこの御方!」

 そして、やたら威風堂々といったように胸を張り、少女は白銀の男にはきはきとした声を投げる。慌てたサドロスが追い付くよりも前に男はミリーナに気付き、振り向いた。ひどく背の高い男の顔を、ぐっと背を反らし気味にしながらも真っ直ぐに見上げ、ミリーナは自信たっぷりの目で笑いかける。

「そう、貴方です。このミリーナ・フィルゼンが貴方に依頼を致します!」

「…………」

 突然の宣言に、むしろ男の周囲が動揺にざわつく。主の後ろに控えたサドロスは、ざわめきの中でも地元の人間の慣れたような苦笑と嘲笑に溜息をつきたくなった。

 だが、白銀の男はミリーナの宣言を突きつけられた後も変わらない無表情でじっと少女を見下ろしたまま口を閉ざしている。首肯もせず断りもせず、男は年若い少女に目を落としていた。自信満々の少女と無表情の男、二人の間に沈黙が落ちる。代わりのように周囲の潜めた声がサドロスの耳に大きく届いた。

「ミリーナ様か、また……」

「懲りないもんだな、若さ故か……」

「……失恋姫の話がまた増えるのか」

「おい、子爵様の娘だぞ……」

(……あからさまに嘲笑った奴だけ覚えておくか)

 サドロスは素早く周囲に目を走らせ、揶揄の中でも悪質な笑いを含んだ者の顔と家を脳に入れる。噂話だろうが、本人がいる前で領民が領主をあからさまに嘲るのは問題がある。例えそれが、事実だとしても。

 ミリーナ・フィルゼン、彼女は街の民から別の通り名でも呼ばれていた。『恋多き失恋姫』として。

 彼女は前々から〝人を見る目は随一〟と自ら誇っており、実際にも「ピンと来た」という理由で様々な者に声をかけて来た。他人にはよく解らない自己基準により彼女は己の周りに着く者を選別し、それが貧しい者ならば援助の手を惜しまない。そんなミリーナに助けられた者も多いために評判は悪くないのだが、ただ自身の〝見る目〟を過信する余りに選ばれた当人に押し付けてしまう一面もあるのだ。そのためにミリーナ本人が「ピンと来た」と言っても相手に断られる事も多く、またその断る人物が大抵若く見目の良い男性ばかりであったので、いつしか彼女には『失恋姫』などという不名誉なあだ名がついてしまったのだ。

 しかし、ミリーナが「ピンと来た」人間は別に若い美形ばかりではない、それこそ年老いた者や自身より年下から熟年の女性など多岐に渡っていたために本当に惚れっぽい訳ではない。そうではないのだが。

「貴方に決めました、素敵な御方。どうか私の事情をお聞きくださいな」

 きらきらと目を輝かせて白銀の男の片手を取りそれを両手でぎゅっと握り締め、口説き文句のように熱の篭った口調で語りかけるミリーナは、実際そう取られても仕方がない。中には彼女ののせいで驚き逃げて行く者もいるのだが……

「…………」

 白銀の男はやはり表情を変えずに、握られた己の手とミリーナの顔とを交互に見つめている。困っているのか迷っているのか、それすらも判断し難い白銀の男に、サドロスが横から説明をしようとした。すると。

「あの、」

 不意に第三者の声が白銀の男の傍らからかけられて、ミリーナもサドロスもそちらを見る。そこには男の影になるようにひっそりと、小柄な少年が立っていたのだ。目深に被ったマントの内側には褐色の肌とまろやかな線を描く頬が見える。

「とりあえず、何も解らないままでは判断も出来ませんし、詳しく話を聞かせてください。シダルガも、それでいいですか?」

 シダルガ、と白銀の男を呼び少年は問いかけた。少年に目を落としていた男は黙ったままひとつ頷く。

「まあ! 私とした事が、お連れの方に気付きもせず……申し訳ありません。私の話を聞いて頂けるならこれ以上はない喜びです、ありがとうございます」

 男の手をそっと離し、ミリーナは少年に向かいスカートの裾をつまみ挨拶をした。少年は軽く首を傾げて微笑む。

「いえ、僕らも仕事を探していましたから。……ここは話をするには向きませんね、場所を変えましょうか」

「それでしたら!」

 ぽん、と手を叩き、ミリーナが明るく笑った。

「とてもよい所があるんです、そちらにいたしましょう!」




 ミリーナが二人を案内したのは、街の表通りに面したレストランだった。

「これはこれは、お嬢様!」

 昼過ぎだというのに賑わっている店内に入ると、恰幅の良い中年の女性が福福とした笑顔で出迎えて来る。

「こんにちは、アンネ夫人。奥のお部屋を借りても宜しいでしょうか?」

「ええどうぞ! お食事をお持ちしましょうか? それともデザートで? うちの亭主が新しいメニューを考案しましてね、ぜひお嬢様にもと思っていたんですよ」

 スカートの裾をつまみ貴族風の挨拶をするミリーナに可笑しそうにころころと笑い、アンネは奥へと案内しながら訊ねた。ミリーナはそれに首を振り、

「お茶だけお願いします。そのデザートはとっても惹かれますが……っ、日を改めて、食べに参ります!」

 ぐっと拳を握りそう言った。

 夫人は楽し気に笑い、広いレストランのずっと奥、厨房に続く道の反対側にある木の扉を押し開ける。扉の中は小部屋になっており、磨かれたテーブルの周りに椅子が並んでいた。

「どうぞ、お掛けになってください」

 ミリーナが手を広げて言い、最初にシダルガが臆せず小部屋内に足を踏み入れると手近な椅子に腰掛ける。続いて彼の連れの少年が隣に腰掛け、ミリーナは彼らと対面する位置に掛けた。サドロスはミリーナの斜め後ろに数歩下がって控え立つ。

「アンネ夫人、内緒のお話なので、誰も通さないようにお願いしたいのですけど……」

 扉前にいる夫人にミリーナが言い、夫人も軽く頷いた。

「了解了解! お茶だけでいいんですかい、そちらの旦那方はお酒の方が良いのでは?」

 気のいい夫人の言葉にミリーナははっと青年と少年の顔を見るが、すぐに首を横に振る。

「いえ、大事なお話ですもの。アルコールは後にしましょう」

「解りました、それでは少々お待ちを! とびきりのハーブティーが入ってますからねぇ」

 とびきりと聞いて少女が目を輝かせたが、扉が閉じると再度気を取り直してこほんとひとつ咳をして話を切り出した。

「ええと、ではお茶が来るまでは依頼の内容は置いておくとして。改めて、自己紹介をさせて頂きますね。私はミリーナ・フィルゼン。フィルゼン家の第三子です。こちらは私の護衛のサドロス・バクス」

「……サドロスと申します」

 サドロスが軽く頭を下げると、シダルガはただ黙って頷いた。

「…………」

「…………」

 何故かそのまま、沈黙が落ちる。

(何でそこで黙るんだ……?)

 サドロスが怪訝に思うと同時に、少年が慌ててシダルガの腕を軽く揺する。

「シダルガ、自己紹介です。お二人に名前を」

「……ん、そうか」

 言われて初めて気付いたとばかりにシダルガはまた頷き、ミリーナとサドロスに向き直った。

「シダルガ・クラルス。冒険者だ」

 変わらぬ無表情でそれだけを伝え、伝えるべき事は伝えたとばかりに再度黙る。後を引き継ぐように隣の少年が苦笑して口を開いた。

「すみません、彼はこういう人でして。――僕の事はラウルとお呼びください」

 シダルガの妙な応対ぶりに戸惑っていたミリーナも、やっとでほっとした顔になり頬を緩める。

「え、ええ。ええと、シダルガさまとラウルさまですね?」

「いえ、どうか名前はそのままでお呼びください」

「そうは行きません、礼儀ですから。……では、シダルガさんとラウルさんでは如何でしょう?」

「はい、それなら……」

 微笑むラウル少年に対し、シダルガは応とも否とも言わずに黙っている。だが、不機嫌という訳でもないらしい、彼の纏う空気は静かで落ち着いている。ラウルの言うように、ただ単にそういう性格のようだ。

(……変わった二人組だ)

 サドロスはじっと冒険者二人を観察する。

 シダルガはいかにも美丈夫と言った体格の良い青年で、白銀の髪と彫刻のような白皙の肌に整った顔をしていた。切れ長の目元は涼しく、よく見てみれば右の目は薄青で左の目は薄緑の異なる色をしている。鼻梁は真っ直ぐに通っており、唇は薄く形が良い。背は高く身体には逞しい筋肉も付いているが、全体的に薄いカラーをしているせいか暑苦しさは感じられなかった。だが清涼かつ冷然とした空気を纏っており、無表情さも相まってどこか作り物めいた印象も感じられる。まるで、そう、至上の優美さを誇る彫刻がそのまま動き出したかのようだ。

 対して、ラウルは全てがシダルガとは相反している。異国めいた褐色の肌に豊かな黒髪を持ち、幼さを残す頬はまろやかな稜線を描いている。大きな目は輝くような琥珀色をしており、頭から羽織るマントと髪に隠れがちだが時折覗く赤や金の耳飾りと合わせて大粒の黄金をその目に戴いているようだった。やはりマントに隠されてはいるが体格もシダルガの一回りか二回り程に小さく、外見の差異がなければ歳の離れた兄弟くらいに違って見える。ラウルの応対や口調からすると、性格や性質はシダルガに比べてごく普通の少年のようだ。エキゾチックな雰囲気こそ纏っているが、それはここらでは滅多に見ない外見からかもしれない。

 そうこうしている内にアンネ夫人がハーブティーを運んで来て、それを並べた後は自分達が出て行くまで誰も入れず、また夫人達も入らないようにとミリーナが念押しをした。頷いた夫人が部屋を出て扉が閉じられると、ミリーナはハーブティーのカップを持ち上げて軽く香りを嗅ぎ、ひとつ息をついて口を開く。

「私が貴方達に依頼したい事は、奪還です。……盗賊に奪われた我がフィルゼン家の家宝を、取り戻して頂きたいのです」

 真っ直ぐにシダルガとラウルを見据え、ミリーナは依頼の内容を切り出した。




「この街は、その昔は採掘で賑わっていた街でした」

 紅茶のカップを見下ろしながら、ミリーナが呟くように言う。

「特に、メレンスキーリーフ……白金が豊富に採れる事で有名でしたの。街の造りはご覧になったでしょう? この街は大きなひとつの通りを囲むように軒が連なっています。あれは、当時の名残なのです。大通りはかつてトロッコが敷かれ、坑道からスムーズに運べるようになっておりました。今は鉱石細工のお店ばかりですが、当時は全て加工所だったのです」

 彼女の言葉の通り、この街は大通りに沿うように細長い形になっており、細やかな枝道はあるが横には広くない。

「当時はリーフガリアと言えば、ちょっとした有名所だったのですよ。二つ名を、〝プラチナ・ロード〟……白金の道と、そう呼ばれる程には。最も私が生まれる頃には、白金の道としてはすっかり寂れてしまっていたのですけどね」

 苦笑しつつ、ミリーナはリーフガリアの歴史を手短に説明した。

 リーフガリアはかつて白金を豊富に産出した街で、同時に職人の街でもあった。だがしかし、年々白金の採れる量が減少して行き、ついには深く掘り進んでも白金の原料の欠片すらも出なくなった。街は、資源を採り尽くしてしまったのだ。

 坑道は次々と廃坑になり、トロッコは錆び付き、街は職を失った人間が溢れ返った。それでも優れた技術を持つ者は代々街を取り仕切っていたフィルゼン家が伝手を探し就職口を見つけてやっていたが、やがてはその余裕すらなくなる程にフィルゼン家の経済状況も逼迫して来た。そこでフィルゼン家と街の者の代表者とで協議をして、採掘ではない新たな道を模索する事にしたのだ。

 他所にやっていた職人を呼び戻し、トロッコの道を潰して煉瓦の大通りにして、リーフガリアは鉱石宝石の装飾加工の街として出直した。元々白金の加工自体は街の職人が手掛けていたので、それを拡大し扱う石を増やし、他国から職人を招いて技術を身に着けた。初めの数年は赤字続きだったが、フィルゼン家がそれまで白金の取引をしていた街や国と渡りをつけ、ついでにギルドの商会に借金をして何とか首の皮一枚で生活を繋いだのだ。

 それから数年。元々が鉱石の産出と加工で大きくなった街だ、徐々に軌道に乗って行き、やがては以前のプラチナ・ロード程ではないが安定した街になった。ミリーナが産まれたのはそのずっと後だ。

「それで、この街の外れには使われなくなった廃坑が数多あるのです。放置しておくのも、と幾つかは埋め立てられましたが、大きな廃坑はそのままなのです。――問題はここからです」

 ミリーナが眉間に皺を寄せ、苦々しく続けた。

「この街に盗賊の一団が侵入致しました。その盗賊が、我がフィルゼン家の家宝を盗み、廃坑に潜んでいるのです」

「……じゃあ、僕らへの依頼というのは」

 問いかけるラウルにミリーナは重く頷く。

「その家宝を取り戻して頂きたいのです。家宝とは『真実の眼』と呼ばれる宝玉でして、その宝玉は未来を予見する力を持つものなのです」

「真実の眼?」

 大仰な名前と力にラウルは目を瞬かせ、シダルガは軽く眇めた。ミリーナは再度頷く。

「見えるものは限られておりますが、予見の力があるのは確かです。そして、それが……その……」

 ふと、それまでつらつらと語っていたミリーナの事が鈍くなった。胡乱げな顔になる冒険者二人に、サドロスがそっと主を促す。

「……お嬢様」

「わ、解っています。おほん、おほん」

 あからさまに取り繕った咳をすると、ミリーナは意を決して続きを口にした。

「実は、私が懇意にしている宝石商に、数日前からその『真実の眼』を貸していたのです。興味があるので詳しく見たいと仰って……。その返却の約束の当日に、彼が盗賊に襲われたと……それで、宝玉も奪われてしまって……」

 ミリーナの言葉が進むにつれて、ラウル少年の顔に何とも言えない表情が浮かび上がって来るのをサドロスは察した。シダルガは相変わらずの無表情ゆえ、この件をどう感じているかは解らないが。だが少なくともラウルが考えた事は解る。それはサドロスも疑っている事だからだ。

 ――即ち、盗賊に盗まれたという事件自体が、宝石商の仕組んだ自作自演ではないかと。

「略取の場面に君は居合わせたのか?」

 シダルガが口を開き問うた。ミリーナはそれに首を横に振る。

「いいえ。彼は、盗賊に襲われた後に我が家にまで身一つで逃げて来たのです」

「では、盗賊が廃坑に潜んでいると示す根拠は?」

「それも宝石商の方から。……それより前に、盗賊達の後をこっそりと尾けて行ったそうでして。廃坑の中に入って行くのを確認した上で、私共の元に来たそうで」

「そうか。話を聞く限りそれは、その男と盗賊が共謀したのではないだろうか」

 何の遠慮も躊躇いもなく、ずばりとシダルガが言い放った。うぐ、とミリーナは言葉に詰まるが、サドロスは正直その意見に同感だ。

(だが、そこまであけすけに言わなくても……)

 せめて少しはぼかすなりの気遣いがあってもいいだろうと、サドロスは軽い反発を覚える。そんな従者の思いを知ってか知らずか、ミリーナはぐっと握り拳を作るとシダルガを真っ直ぐに見据えた。

「そんな事はありません! ええ、その方が自然だと仰るのも解ります。ラダナンの弁明が疑わしい事だって。けれども、私は信じているのです。彼の良心を、何より自分自身の、私の〝目〟を信じているのです!」

 腰を浮かせるほどに熱弁するミリーナを、シダルガは相変わらず無表情な目で見つめている。

「…………」

「そうです……きっと、間違いはありません……きっと……」

 反論も同意もない、まるで作り物のような無機質な目に強腰だったミリーナの気勢が次第に怯んで来た。

「ラダナンとは、その宝石商の方の名ですか?」

 そっとラウルが訊ねて来て、少女は気を取り直すように頷き腰を下ろす。

「はい。伝えるのが遅れましたが、宝石商のラダナンという殿方です。まだ若くて名前は知られてませんが、あの方の目利きは一級品です。きっと、いずれ王国中に知られる鑑定士になると、私は確信しています」

「……どうしてそこまで、信用しているんです? 家宝を失くされたというのに」

 ラウルの問いに、ミリーナは軽く微笑んだ。

「シダルガさんを見出した、それと同じ理由です」

「……私を?」

 呟くシダルガに、ミリーナは「はい」と答える。

「――皆は信じてはくれないのですけど。私には、〝人を見る目〟があります。比喩ではなく、実の能力として。それだけは自信を持って言えます。偉大な御方、これから偉大になるお方、そういう方は見た瞬間にこう、ぐっと来るのです。差異はあれど、眩い輝きがこの目に映るのです。きっとこの力は神からの贈り物ギフトに違いありません。ならば私はこのギフトを使いこの街の更なる発展を助けようと、幼い時分に決意致しました。だから、私の〝目〟が選んだ方を、他ならぬ私が疑ってはいけないのです」

「…………」

 奇妙な内容だろうが、ミリーナは真剣に真摯な口調で語っている。ラウルも、少なくとも彼女自身が本気でそう思っていると理解したのだろう、それ以上は聞かなかった。シダルガは相変わらずの無表情ゆえによく解らないが、特に口を挟まないならばミリーナの信条に異論はないのだろう。……サドロスにとって、ミリーナのそれは何度も問うては返された言葉であった。何故そうも無条件で信用するのかという、その問いの答えだ。

「盗難の件は、まだ父にも母にも話してはおりません。そも、ラダナンを雇っているのも私の独断で、余り良い目で見られてはいないのです。その上、家宝を奪われたと知られれば、きっと彼は追放されてしまいます。もっと悪い場合、容疑者として商業組合に突き出されてしまうかも……」

 目線を落としミリーナは眉を寄せて言う。商業組合はギルドを運営・統括している組織で、国や地域の枠に取られない自由な組合であるが、それ故に影響力が強い。商業組合で要注意人物としてマークをされれば、その人物はもう全うな人生を送れなくなってしまうだろう。何しろ商業組合が擁するのは数多の冒険者達の他、世界を股にかける商人達までいる。商人の中には一国の王や財宝主を相手にしている者も存在していた。

「私はこんな所でラダナンの道を潰したくはありません。だから、早急に、盗賊達の手から家宝を取り戻す必要があるのです」

 詰めた息を吐き出すようにミリーナはそう言う。……対して、シダルガは。

「解った。君の依頼を引き受けよう」

 ごく短く、そして驚くほどにあっさりと答えたのだ。

「――え? 宜しい、のですか?」

 先程は宝石商と盗賊の共謀を疑っていたのに、とミリーナが聞き返せば、シダルガは逆に不思議そうに問い返す。

「君が私に依頼をしたのだろう? それとも不都合が?」

 それもまた、真っ直ぐに。真剣にシダルガはそう聞いて来る。ミリーナはぐっと唇を噛み、胸の前で手を握り締めながら首を大きく横に振った。

「い、いえ! いいえ、いいえ!」

 それから、紅潮した頬で嬉しそうに笑う。

「どうか、お願いします……!」

「ああ」

 頷くシダルガは、すぐハッとしたようにラウルに向き直り「良かっただろうか」と問うている。ラウルは微笑んで「いいと思いますよ」と頷いていた。

(――まさか、すんなり依頼を受けられるとは思っていなかった)

 サドロスはふうと小さく息をつく。だがそれでも、この案件を聞いて前払いだけくすねて逃げる可能性もあるのだと、従者の男は純粋な主の分まで警戒を込めながら冒険者二人を眺めた。

 ……ミリーナはとても嬉しそうだ。初対面で、初めて会話を交わし、ここまで彼女の話を信じてくれた人間は初めてだったからだろう。そう言えばシダルガは、ミリーナの〝目〟の話も否定はしなかった……。

「その盗賊がいるという廃坑ですが」

 ラウルの声に、己の思考に沈んでいたサドロスは顔を上げる。

「それは確実なのでしょうか? この間に別の場所に移動しているという可能性は?」

「それなら。今朝、先んじてこのサドロスに様子を伺わせました。どうやら盗賊はラダナンの言った通りの廃坑におります」

 少年の疑問にミリーナがはっきりと答えた。ラウルとシダルガの視線がサドロスに集まり、彼も重く頷く。

「確かに。真新しい足跡が幾つも廃坑の中に続いていました。荷車の轍の跡も。奴らがラダナンを襲ったのも夜、もしそこから移動をするとしても同じく人目を避けた夜の内になるでしょう」

「成程」

 シダルガが軽く頷き、サドロスとミリーナの両方を見遣る。

「その坑道の作りはどのようになっている? 枝道や他に抜ける道は?」

「お任せください、資料室で調べておきました!」

 どんと胸を張りミリーナは得意気に言い、懐から一枚の紙を取り出した。それも彼女が事前に写しておいた廃坑道の地図で、それによると盗賊が入った廃坑道は枝道こそ多いものの全てが一番奥の大きな採掘場へと繋がっており、出入り口は一ヶ所しかない作りになっている。

「元々この坑道は産出量に乏しい場所でして、大きさの割にそこまで深くはないのです。脇道は曲がりくねっていますが、奥の採掘場に続く道以外は行き止まりになってますの」

 テーブルの上に広げられた地図を見遣り、ふむとシダルガは息をつく。

「それならば、盗賊連中も長くは滞在しないだろう。奴らはいざという時の脱出経路が確保された場所を好む。この坑道には長くて三日程度しか留まらない」

「そうなのですか?」

 感心したミリーナの声にシダルガはやはり無表情で頷いた。そうして地図をその長い指ですっとなぞり、低く呟く。

「行動を起こすならば早い方がいい。支度を終えたらすぐに出よう」

「解りました! では私も支度を整えて参ります!」

 シダルガの呟きに握り拳を作ったミリーナが意気揚々と答え、それにラウルが「え、」と驚いた声を上げた。

「ミリーナさんは待っていた方が……」

「いいえ! これは私の問題でもあるのですから、私も同行するのがスジというものでしょう! 大丈夫です、こう見えても魔術はほんの少し覚えがあるのですよ」

「で、でも」

 やる気満々といったミリーナにラウルが困惑しており、その少年にそっと近寄ったサドロスが小さく伝える。

「お嬢様はこうと決めたら必ず実行する方でして……すみませんが、同行を許してください。魔術については実際に幾つか使えますし、私が護衛としてお嬢様に付き従います。貴方がたのご迷惑はおかけしませんから、どうか」

「けれど、盗賊相手だともし戦闘になったりしたら……シダルガ?」

 サドロスとラウルが押し問答をしていると、ふとシダルガがすっと立ち上がった。――と思うと、彼は素早くラウルが腰に下げていた短剣を引き抜き、それをテーブル越しのミリーナに振り被る。一瞬の事だった。サドロスが反応するのも数舜遅れ、銀色に光る凶刃が少女の頭に振り下ろされ――……それが、額の中央、眉と眉の間に突き刺さる数センチ前で、止められていた。

「な、な、なんっ、なんっですの……」

 かたかたと歯を震わせ、ミリーナが青褪めた顔で呟く。彼女の顔は、いや額の一部は淡い光の壁に覆われており、その壁が短剣の刃を防いだのだ。

「防御の魔術。障壁生成か、悪くない腕だ」

 無感情のままシダルガが言い、短剣を引く。それを無言でラウルに差し出すのと、ミリーナが強張った全身の力を抜いたのはほぼ同時だった。

「……私を試しましたね」

 半眼でうううと唸りながらミリーナはごちる。それに対しシダルガは平然と頷き返し、ラウルが深く溜息をついた。

「すみません、ミリーナさん……シダルガも、こういう事はもっと事前に……」

「いえ。お陰様で、シダルガさんに私の実力を証明できたという事ですからね!」

 そうは言いつつもミリーナはまだ不機嫌そうでもある。じっとりとシダルガを見て、彼女は口を尖らせた。

「シダルガさん、今のは本気ではありませんでしたよね?」

「ああ」

 それすらも素直に答える男に不満気な少女は頬を膨らませる。

「私が防がなくても寸でで止める気でしたでしょう。どうせなら、本気で来て欲しかったです」

「その場合、君は死んでいた」

「…………」

 さらりとシダルガは言うが、恐らくそれも本当なのだろうと……ミリーナにも解っているに違いない。だから反論はせずに、少女は大きな溜息をつくとサドロスに声をかけた。

「サドロス、大丈夫です。シダルガさんは私の力を試しただけですから」

「……そうですか」

 主の言葉に頷き、サドロスはマントの下で構えていた剣を鞘に戻す。ミリーナに刃が向けられ、彼女がそれを防いでからも、サドロスはいざとなればとラウルに――無防備な方の少年に刃を向けていたのだ。

 試すための行動というのは解る。確かにミリーナにも防げるように手加減もしたのだろう。

(だが、こいつはお嬢様に刃を向けた)

 それだけで、警戒するには充分だった。



 互いに準備もあるだろうと一旦別れて、三時間後に最初のギルドの外で四人は再び落ち合った。

 シダルガとラウルはほぼ同じ格好で、ラウルの背に弓がひとつ増えていたという程度だったが、ミリーナは外出用のドレスから乗馬用の動きやすい服に着替えて細身の剣も帯刀していた。それ以上は家人の目があり重装備は無理だったのだ。

「それでは、参りましょう。サドロス、案内をお願いします」

「はい」

 廃坑に向かう途中までは馬車を使い、間にある森の手前で降りるとそこからは徒歩で向かう。それも盗賊の歩哨を警戒して道から横に外れた脇道を歩いた。脇道は遠回りになる上に足場が悪く、道自体も地元の人間しか知らない。だからこその道行きだ。

 しかし、小さな森には人気がなく、やがて木々の切れ間から岩山が見え、そこに坑道の口が開いて見える段階になっても歩哨どころか見張りの一人にも出くわさなかった。

「……どういう事でしょうか」

 廃坑の入り口を見遣りラウルが小さく呟く。

「みんな寝ている、とか……」

 ミリーナも声を潜めて言い、それにサドロスが低く咎めた。

「お嬢様、幾らなんでもそれは」

「解っております! 冗談です、ジョーク」

 流石に本気ではないだろう、ミリーナの言葉にラウルは苦笑し、シダルガの顔を見上げる。

「どうしましょうか」

「…………」

 シダルガは相変わらず感情を伺わせない目でじっと坑道を見ていたが、やがてラウルに視線を移す。

「……奥に生体反応がある。ミリーナからの情報では賊は多くて三十。ならば、私とラウルでどうとでもなろう」

 さらりと言うシダルガをサドロスはぎょっと目を見開いて見遣り、次に猜疑の目を向けた。

(三十人を、二人で? 正気か、こいつは)

 それだけの数の盗賊ならば腕の立つ者や熟練の魔術師もいるだろう。なのに、それにも頓着していないようだった。ラウルもそれに同意と頷く。それだけの自信があるのか、策があるのか。

「手早く済ませよう」

 短く言い歩き出すシダルガにラウルが続き、慌ててミリーナがその後を追った。サドロスは引き抜いた剣を構え、ミリーナの傍に着く。

(……こいつらはどうでも、いざとなればお嬢様だけは逃がさないと)

 そのためならば二人を囮にしてもと決意を新たに、殿を務め彼は廃坑の中に入って行った。



 外はまだ陽があり明るかったが、坑道の中は暗い。道の途中途中に打ち付けられている灯り棚の松明も既に使われなくなって久しく、木肌には黴や苔が生えていた。先を警戒しつつ歩くが、四人の足音以外は吹き抜ける風の音しか聞こえない。

 四人はそれぞれ小さなランプをベルトから下げた腰元に着けており、ミリーナから提供されたそれは足元を照らす程度の小さな光であったがいざという時にランプを覆える革の笠がついていて、それを降ろせば光源を隠す事が可能だ。冒険者のお古を道具屋で買っていたと得意気に語っていたが、無駄遣いだと家人には咎められていたそれが実際に今役に立っている。そういう彼女の不思議な先回りに近い行動は少なくもなく、先見の明は確かにあるのだと思わされる。

「……誰も、いませんわね」

 声を潜めてミリーナが呟いた。その言葉通りに人一人にも遭遇しないまま、坑道の分かれ道にまで辿り着く。

「どの道から行きましょうか」

 ラウルが左右に伸びる道を見ながら問う。大きい道は右側に伸びる道で、地面に残された馬車の轍もそちらに続いていた。それと同じく、道の壁横には何か擦ったような、あるいは杭や尖ったもので引っ掻きながら進んだような真新しい跡がある。馬車に乗せていた荷が土壁を削った跡だろうか。そうなると盗賊は何か大きく幅を取るものを運んでいた事になり、もしかすると威力の大きな武器や魔具を所持している可能性もあった。

「盗賊の使った道は右のようですが、行き止まりの道以外はどの道も結局は奥の採掘場に着きますし、使用する道ならば見張りもいるかも……」

 左右を見回してうんうんとミリーナは唸る。

「二手に別れるのは?」

「いや、お嬢様の言う通りにどの道も最後は採掘場に行き着くが、脇道の中には曲がりくねっている道もあるし行き止まりもある。途中途中の距離が違うんだ、同時には辿り着けないし敵が分散していると厄介な事になる。まあ、それで俺たちが挟み撃ちにされる可能性もあるが……」

 ラウルの問いにサドロスが言い、ミリーナが思案しつつシダルガを仰ぎ見た。

「――シダルガさんは、どう思われます?」

 それまで無言で道の先に目を向けていたシガルガは、視線を軽くミリーナに向けると頷く。

「このまま二手には別れず右の道へ。どうも、賊が根城にしているには様子がおかしい。ならばなるべくは離れず、かつ去るに迷いにくい道を進むべきだ」

 はっきりとした強い言葉に、一行の方針が決まった。



 それからも轍の跡が続く大きな道を行き、誰と遭遇する事もなく物音を聴く事もなく、やがて道の先に開けた空間が薄く見えて来た。壁横の跡もずっと続いており、それも先に伸びている。

「もしや、既にここにはいないのでは……」

 ミリーナが不安に呟く。それ程に、坑道は余りにも人気がなく静かだった。

「だが、確かに生体反応はある」

 短く言い、迷いのない足取りでシダルガはそのまま進む。後に続き道を行き、四人は採掘場に出た。

 ――だが、そこは無人であり、隅に盗賊のものと思わしき馬車がただ放置されている。

「くそ、逃げられたか。一足遅かった……」

 サドロスが苦々しく呟き、ラウルとシダルガは辺りを検分するように見回していた。採掘場には奇妙な土塊があちらこちらにと散らばっており、馬車のすぐ近くにまで積まれていた。不思議な事に、馬車を引くはずの馬はおらず、ハーネスは盛り上がった土の中に埋もれている。土塊はまるで鍾乳洞のようにこんもりと盛り上がっていて、その大きさはミリーナの肩程度まであった。採掘場として現役だった頃には決してなかったものだ。

「これ、は……」

 土塊を見てラウルが顔をしかめる。同時にミリーナが声を上げた。

「あっ! あれ、サドロス、あれは!」

 興奮したように大声で呼ばわるミリーナの指した方を見て、サドロスも目を見開く。土塊の中に紛れ込み、土埃を被りながらもランプの光を照り返してちらちらと輝くもの――宝玉だ。何故こんな所にとサドロスが驚き、ラウルがミリーナとサドロスの腕を掴み、シダルガが剣を鞘から引き抜いたのは同時だった。

「――先に行け」

「走って!」

「え、え?」

 ラウルに腕を引かれミリーナがぽかんとした顔になる。その一瞬後、広い採掘場内に衝撃が走った。

 ごぉん、という鈍い音、それが、上方からの巨大な襲撃者の攻撃をシダルガが剣一本で押し止めた音だとすぐには理解出来なかった。

 薄く照らされた襲撃者は毛深い身体に土くれを纏わりつかせ、奇怪な叫び声を上げながら鋭い爪を振り上げている。その姿を目視した途端にミリーナとサドロスも理解した。魔獣だ。

「早く!」

「でも、宝玉が!」

 一瞬の躊躇、それに魔獣の意識が向く。ミリーナの眼前に、鉄のような爪が迫った。

「お嬢様!!」

 鋭い音が響き、その爪をもシダルガの剣が抑える。魔獣の攻撃を防ぎながらシダルガがラウルに向かい言い放った。

「行け!」

「……はい!」

 それで察したようにラウルはサドロスの腕を掴み走り出す。

「離せ、お嬢様を……」

「シダルガに任せます!」

「でも……」

 見れば、シダルガがミリーナを片手で担ぎ上げながら片手で剣を振るい魔獣の爪を防いでいるのが見えた。ミリーナの魔術障壁もそれを助けている。

「むしろあれの意識が僕らの方に向くと危険です、僕ではあれを抑えられない……!」

「……解った」

 ラウルの声にサドロスは頷き、走り出した。

 まろぶように坑道に出てひたすら走る。入る時分にシダルガの言っていた『去るにも迷いにくい道』の意味をここで理解する。大きな道、轍の跡、確かにそれを追っていけば入り口に出るのは容易かった。

 だが坑道を逃げる際にも魔獣が身を捩りながら追いかけて来て、廃坑を出て陽の下に出て森の中に飛び込んでやみくもに逃げる。魔獣もそれを追って森の中に入り込んで来たが、やがて対象がばらけた事に混乱したのか惑う様子を見せ、すぐに諦めて廃坑の中へと引き返して行った。――森の中に入った四人は、それぞれ二人ずつに別れてしまったのだ。



「……帰ったようだ」

 木の陰に身体を隠しながら、シダルガが小さく言った。その言葉に、傍らで身を縮めていたミリーナがほうと安堵の息をつく。

「よ、良かったです。それでは、サドロスやラウルさんと合流しませんと……」

「いや、それでも暫くは身を潜めて時間を置いた方がいい。あれは太陽の光が苦手なようだが、坑道の浅い場所で留まっているかもしれない。我々の気配を察知したらすぐに出て来るだろう。今は下手に動かない事だ」

「……そう、ですか。では、しばらくは休憩ですわね……」

「ああ」

 頷き、シダルガは座り込んでいたミリーナの隣に腰を下ろす。

「…………」

 そしてそれっきり口を噤んだシダルガの顔を、ミリーナはちらちらと見遣った。

「申し訳ありませんでした……」

 何がだというように目線を向けて来るシダルガに、ミリーナは己の膝を抱えて続ける。

「あの時、すぐに逃げるべきでした。宝玉が見つかっても、命がなければどうしようもなかったというのに……」

「…………」

「ラウルさん達とはぐれてしまったのも、私のせいです」

「ただの結果だ」

「それでも、です。……申し訳ありません」

「…………」

 それきりでまた会話は途絶える。

 シダルガは特に怒っている様子も気にしている様子も、かといってミリーナに気を使っている様子もなく、ただ黙っている。話すべき事がないので話さないというような、そういった空気を彼は纏っていた。だが先の今でミリーナは落ち着かない気分であり、小声ではあるがシダルガに幾つも質問をぶつけて来た。

「シダルガさんは、いつから冒険者をしておりますの?」

「……少し前からだ」

「そうなのですか。冒険者の前は何を?」

「似たような事を」

「へ、へえ? では、ラウルさんとはその時から?」

「いや。……ラウルとは、冒険者を始めた頃からの付き合いだ」

「元々のお友達や親戚ではないのですね」

「血は繋がっていない」

「そうなのですね。シダルガさんのご出身はどちらですか?」

「…………」

「すみません、言いにくいのでしたら……」

「いや……」

 軽く首を振り、シダルガはミリーナの方を向く。

「……私には、余り多くの積み重ねがない。語るべき歴史はないし、それだけの重みもない。私という個人は、ただ使命に突き動かされている、それだけに過ぎない。私は、そうするためだけの器でしかない」

「……?」

 その物言いは、また奇妙な気がした。だが、シダルガの作り物めいた雰囲気と妙に合致しているようにも見えて、それが寂しくも見えて、ミリーナは思わず首を大きく横に振っていた。

「そんな事はありません!」

 思わず声を張ってしまい、すぐに口元を抑えつつ、小声で捲し立てる。

「す、少なくとも私にはそうは見えません。それだけ、なんて寂しい事を仰らないで。使命だけしかないなんて、そう思うのでしたら私が目的を与えます、増やします。私にはあなたが輝いて見えます。あなたは、決して凡百の者ではありませんわ」

 潜めた声で、しかし熱を込めて言い募るミリーナをシダルガはじっと見遣った。

「……君が何故そこまで私にこだわるのか、私には理解出来ない」

 静かな声は拒否の色も含んでおり、それに僅かに気を落としたミリーナはシダルガを見上げて苦笑した。

「有能な人材を確保するのは、民の生活を預かる貴族として当然でしょう?」

「…………」

「私があなたを選ぶのは、あなたが眩く見えるからです。今までも、素晴らしい才覚を持った人物は沢山見て来ましたが、あなたのようなお方は初めてなのです。私にはあなたの周りを取り囲む光輝が見えるのです、比喩ではなく。私には見える……」

 そっと己の眼の周りを指で覆うミリーナに、シダルガは訊ねる。

「それは、術の類か?」

「どうでしょうか。私、フィルゼン家に代々伝わる巫女としての素質が強いそうですから、そのせいかもしれません」

「巫女?」

 はい、とミリーナは微笑む。

「家宝の宝玉には予知の力があると言いましたよね。あれは真実、その力のある魔具なのです。しかし、宝玉を扱えるのもまた我がフィルゼン家の巫女の力を持つ者に限られます。私は特に上手く扱えるんですよ」

 ふふふと得意気に笑い、しかし照れたようにミリーナは下を向いた。

「でも、昔はそうでもなかったのです。昔は、宝玉は扱えはしたのですが、それ以外で……才覚のある方を見抜く力はなかったのです。この力が芽生えたのは……そうですね、病で生死の境から回復してからです。私、一度病気で死にかけまして」

 手指を組んだり解いたりと繰り返しつつミリーナは続ける。シダルガは特に相槌を打つでもなかったが、黙って耳を傾けていた。

「国中の医師に見せても治らなかったのが、通り掛った旅の術師の御方が治してくださったそうなんです。その御方は名乗らずに去ってしまわれたそうなのですが……私が起きた頃にはもう旅立ってしまわれて、お礼も出来ませんでした。……私は、私が助かった理由を考えました。私は第三子とは言え、貴族の娘です。ですから、この力を使い、この街を再び……名実ともにプラチナ・ロードとして蘇らせるのが私のすべき事だと思ったのです」

「……そうか」

 そのためにミリーナは、例え街の者に誤解されても嫌味なあだ名を付けられても己の信じるままに動いている。シダルガに声をかけたのもそうだった。

 彼女の行動理由に納得し頷きつつ、だが、とシダルガは相変わらず静かな声で言う。

「その意志は立派だが、ひとつ間違えると独裁と独善になりかねない。君は、己の行動を信じすぎているようだ」

「はい、……解っています」

 シダルガの忠告に、しかしミリーナは苦笑して頷いた。

「それでも、今は私の思うままに走るしかないのです。いつか後悔するかもしれません。でも、後悔するとしても、私は『動かなかった後悔』よりも『動いた結果の後悔』の方がいいのです」

 迷いないミリーナの返答に、シダルガは「そうか」と呟く。

「ならば、気のすむまで走ってみるのもいいのかもしれない」

「はい」

 シダルガの言葉にミリーナは嬉しそうに笑った。

「それに、私が道を逸れたらサドロスが諭してくれます。もしもサドロスの話をも聞かないほどに独善にまみれた時は、殺してくれと頼んでいますから」

 笑顔のままのミリーナを、シダルガの静かな目が見遣る。

「サドロスは、病から目覚めた私が初めて見た〝光〟ですから」

 きっと彼ならばそうしてくれると信じていると、少女は確信に満ちた顔でそう言った。




 同時刻、ラウルとサドロスも森の中で身を潜めていた。

 しばらく動かずに時間を置いた方がいいと二人も結論を出し、腰を落ち着けて時が過ぎるのを待つ。

「……あの採掘場。あそこに、不自然な土の塊が沢山あったのを見ましたか?」

 ラウルが潜めた声で言い、サドロスは頷いた。

「ああ、見た。何だろうな、あれは……」

「あれは、人です。いえ、人だったもの、です」

 断言する言葉に、驚きに見開いた目でサドロスはラウルを見遣る。ラウルは軽く眉を寄せながら続けた。

「あの魔獣はそういう力を持つものです。普段はもっとずっと地中の奥深くに生息しているものですし、決して攻撃的ではないのですが……いざとなるとああいう風に、敵の肉を土塊に変質させてしまう。恐らくあの土塊の数々は、盗賊だと思います」

「……それじゃ、あの土塊の中に宝玉があったのも……」

「はい。その賊が宝玉を手にしていたのでしょう。あの魔獣が土に変質させられるのは生身の肉だけ、石や無機物などは無理です」

「…………」

 その言葉で思い当たるものもあった。ハーネスが土塊に埋もれていた馬車だ。馬車自体は無傷であったのに、思えばあの土塊があった部分は普通なら馬が繋がれている場所だ。そうなると、あれは馬が変質したものなのだろう。……改めてそれに怖気が走った。

「あの廃坑は、もうずっと放置されていると言ってましたよね?」

 ラウルの問いにサドロスは頷く。あそこ以外にも廃坑は沢山あって、その大半が使用される事もなく放置されていた。ラウルは顎に手を当てて考え込み、そうか、と呟く。

「今の時期は……子育て、しかも巣立ち前の時期です。だからあんなに神経質になっているんだ」

「こ、子育て? あそこで?」

 驚くサドロスにラウルは真剣に頷いた。

「きっと今年だけではなく、前々から。使用されなくなったあの廃坑を巣にしていたんだと思います。あの魔獣は土に棲み、土に属するもの。出産の時期になると浅い地層に上がって来て巣穴を作り、巣立ちを迎えるとそれぞれまた地中に潜って行きます。あの場所は、作るまでもなく巣穴が出来上がっていた、魔獣たちにとっては格好の部屋だったんです」

「し、しかしあんな場所に魔獣がいるなんて今まで誰も……」

「それ程までに、あそこを訪れる人がいなかったという事でしょう」

 ラウルは苦笑したが、すぐに表情を引き締めた。

「けれども今年は、盗賊が来た。魔獣からすると大事な巣に侵入して来た敵です。全員を土くれに変えたと思ったら、今度は僕たちまで入ってしまった。きっと、怒ってる。子を狙う敵だと認識されているはずです」

「……なんてこった」

 サドロスは深く溜息をついて頭を抱えた。

「それなら、どうやって宝玉を取り返せばいいんだ……」

 盗賊相手よりも厄介な事になってしまった。相手は生物を土に変えられる巨大な魔獣だ。

「魔獣の巣立ちが終わるまで待つ、というのは……」

「無理だ。宝玉はお嬢様の私物ではなく、フィルゼン家のものなんだ。それに、あれは奥様や上姫様もお使いになる。どうあってもすぐに取り返さないと。でも、どうすれば……」

 ラウルの提案にサドロスは首を横に振る。ラウルもそれを予想していたのだろう、ただ苦笑をした。

「――それは、シダルガとミリーナさんに合流してから考えましょう」

 今はどうしようもない、とラウルの言葉にサドロスは肩を落としたまま頷いた。



 ラウルとシダルガはこういった事態に備えて合流用の合図も身に着けているという。シダルガが特殊な香りを持つ香木を携帯しており、ラウルは魔術でその香りを探り出す。それでどんなに離れていても場所が解るのだとラウルは言った。

「シダルガは……多分、僕の居場所はすぐに解ると思います」

 それも同じ香木でなのか、はっきりとは言わなかったがラウルは苦笑しつつ呟き、だから今は魔獣が警戒を解くまで待つと話した。

「そうだな……」

 そうだと言いつつ不安にサドロスは手を揉む。せめて、ミリーナと共に居るのがこのラウルだったなら。

(あいつは、お嬢様に刃を向けたのに)

 理由あっての事とは言えそれが許せずに、その相手が主の少女と二人でいるという事実にサドロスは落ち着かずにいる。苛々とした空気を感じ取っているのかラウルも静かに口を噤み、まんじりともしない時間が矢鱈ゆっくりと流れた。――と。

 ピイ、ピイ、と奇妙な鳴き声を耳にして、サドロスは顔を上げる。音の源を探り向けた目がラウルの襟元に向かい……そこからひょっこりと小動物が顔を覗かせた。

「……ん?」

「あっ、」

 鱗のある動物、特徴的なトサカ、トカゲに似ているがトカゲではない――……。

 急いでラウルがそれを隠そうとしたが、サドロスはもうそれを見てしまった。

「り、竜!? の、雛!!?」

 驚いて思わず声を上げるサドロスに、慌ててラウルが「しーっ!」と口の前で人差し指を立てる。魔獣の件を即座に思い出し己の口を覆ったサドロスは、だがピイピイと鳴きながらラウルの首元に絡み付く小竜をまじまじと見遣った。

「それ……竜、だよな、それ」

「……は、はい……」

「竜の、雛……」

「はい……。チビ、出て来るなって言ったのに……」

 つんつんと小竜の鼻先をつつくラウルの指に、小竜はピイと鳴きながらぐいぐいとそれを鼻面で押し返している。どう見てもそれは竜の幼体で、ラウルはそれに懐かれているようだった。

「あの、チビは……見ての通りまだ子供で。無害なので……」

「あ、ああ……?」

「どこにも――ギルドや商業組合にも言わないでください、お願いします!」

 ぱん、と手を合わせてラウルが必死に言い募る。それを見て、ラウルの腕に絡み付いて遊んでいる小竜を見て、どうしようとサドロスはひどく戸惑った。


 ――竜。それは、魔獣や妖獣の頂点に君臨する伝説の存在だった。

 要塞に似た鋼の如く強靭な肉体と狡猾な知恵をそなえ、ひとたび暴れ出すと嵐の如く災いを振りまき後に残るは死と破壊の爪痕だけ。幻想小説で、大袈裟な戯曲で、或いは眉唾な噂話で、物語の中や他人の口から見聞きするだけの存在。実際に存在はするのだろうとは思っていても、自分の目で見る事は決してないだろうと思っていた、そういう類の……。

 その竜。ただし、幼体の雛のようだが。

「別に、黙っているのはいいけど……それ、大丈夫なんだろうな?」

 軽く警戒しつつ問うと、ラウルは小竜の顎を撫でながら頷いた。

「はい。チビはこの通り小さいですし、何の力もないので……」

 確かに、少年の指に撫でられてくるくると心地良さそうに鳴きながら目を閉じている姿には伝聞するような凶悪さは一切感じられない。ギルドやギルドを統括する商業組合に報告すれば褒賞は出るかもしれないが、ラウル達にはミリーナと宝玉の件を内密にして欲しいとこちらも頼んでいる立場だ。ギルドや商業組合に個人的な借りはないし、義務外の報告をする気もない。それは別にいいのだが。

「……竜が懐く人間なんて、いるんだな」

 聞いた所では竜は同族とも滅多に群れず、他の魔獣はおろか人間の下に着く・慣れ合うなどあり得ないとされていた。竜使いなど小説や戯曲の中だけに登場するものだと。ラウルはそれにも苦笑し、「この子はまだ子供ですから」と答える。

「そう、そういうもんか? あの、相方もその竜の事は……」

「知っています。むしろ、シダルガよりチビとの方が付き合いは長いんですよ。彼とはまだ出会って一年足らずというところで」

「へえ」

 ならば、シダルガと会うより前から小竜を連れていたのか。彼らは旅をしているようだが、思っているより遠方から来たのかもしれない。

「そういえば、あんたはここらでは余り見ない外見だな。どこから来たんだ? 王都辺りか?」

 リーフガリアの街は『プラチナ・ロード』として名を馳せてはいたが、王都には程遠い片田舎だ。サドロスの問いに、ラウルはゆっくりと首を横に振った。

「いえ、……王都より、ずっと遠くです」

「へえ。国外とか?」

「……そうですね。でも、」

 呟き、ラウルは静かに目を伏せる。

「昔の事は、余り……」

 そして口を噤むラウルの指を軽く甘噛みしながら小竜が見上げてピイと鳴いた。どうも余り聞かれたくない事らしいと悟り、サドロスも何気なさを装って言う。

「ま、そこまで遠いんじゃ俺だと名前を聞いても解らないだろうな。なんせ、この街の周辺しか知らないんでね。学が無いんだ、俺は」

 おどけて言うサドロスに、彼の気遣いに気付いているだろうラウルは小さく笑った。


「――お嬢様達は、大丈夫かな」

 ふと呟いたサドロスに、ラウルが「きっと平気ですよ」と言う。

「シダルガがいますから」

 確信したような物言いに、少年がシダルガに深い信頼を寄せているのが解った。サドロスとしては、主に刃を向けた男なだけにまだ信用がならなかったのだが。

「ミリーナさんの“見る目”という能力は本物だと僕も思います。彼はとても強くて頼りになる、偉大な人なんですよ」

 嬉しそうに言うラウルに、微かな悪戯心が湧いてサドロスは笑って聞いてみた。

「でも、きっと今頃えらい勢いで勧誘されてると思うぞ?」

「そうですね」

「もしあいつがお嬢様の熱意に負けて頷いたら、あんたどうする?」

 少しの好奇心と揶揄い半分で問いを重ねる。困るだろうな、と思いながら。――しかし、ラウルは、ぽかんとしたように動きを止めて、次に大きく目を見開いた。

「え……、」

「えっ?」

 そうして酷く動揺したように忙しなく視線や手先を動かし始めるラウルに、逆にサドロスが困惑してしまった。

「あ、そ、そうか、その可能性もあるんですよね。……僕は、シダルガがそう思うなら……彼が選択するなら、反対は……」

 声まで上擦って掠れつつ、ラウルは悲しそうな顔になりながら呟く。小竜までが主の変調を察したのかピイピイと鳴きながら掌に首を擦り付けた。

「ちょちょ、ちょっと待った! 冗談、いやただの例え話だから! な!?」

 慌てて弁解するサドロスに、それでも向けられた琥珀の目は不安気に揺れている。

「その、悪かったよ」

 頭を掻きつつ謝れば、「いえ」と静かな声が答えて来た。それでもラウルがまだ思案に沈んでいるのは確かだ。

(困ったな。……ここまで動揺するとは)

 今までラウルはその外見の割に妙に落ち着いた印象があり、こんな言葉一つで動揺されるとは思ってもみなかったのだ。

「……あいつとは、何で組んでるんだ?」

 小竜の件を聞いた限りだと、それまでは互いに一人だったようだ。その問いにラウルは軽く首を傾げる。

「探し物があって。僕と彼の目的は別ですが、彼の旅路の途中に僕の探し物のヒントがあるような気がするんです」

「へえ……」

 何を探しているのか、今ここで自ら言わないという事はこれも突っ込んでは聞かない方がいいのだろう。サドロスはそう判断し、相槌を打つに留めた。

「それに、僕は案内人のようなものなんです。シダルガは少し、浮世離れしている所があるので……」

「ああ、それは解る」

 あの泰然としつつも奇妙な人物を思い浮かべ、サドロスは深く頷く。冒険者として動くなら、あの男にはラウルのような人間が必要だろう。

 ――それからしばらくの時間を待ち、二人はこちらを探しに来たシダルガとミリーナと無事に合流した。



「お嬢様!」

「サドロス! 無事で良かった……!」

 こちらを認めて小走りに駆け寄って来るミリーナに、サドロスは素早く目だった外傷などはないかを確認する。見たところ怪我などはなさそうだし、血の臭いもしない。ほっと胸を撫で下ろしていると、シダルガは真っすぐにラウルに向かい話しかけた。

「怪我は」

「何ともないです、大丈夫」

 相変わらずの無表情だが、軽く手を振るラウルの腕肘を掴みじっと視線を注いでいる。

(……この男でも相方の心配をするのか)

 そんな事を思っていると、ミリーナが困ったように首を傾けた。

「それで、あの魔獣と宝玉ですが……どういたしましょう」

「…………」

 ラウルとも、互いに合流したら相談しようと話していたが。小さな沈黙が落ちて、ラウルは森の向こう――廃坑の方を見遣る。

「ひとまず、今日はもう手出しはしない方がいいと思います」

 ラウルの言葉にシダルガも頷き、同意を示した。ミリーナもうんうんと頷き、サドロスも溜息をつきつつ首肯する。

「そうですね。幸い……と言っちゃ何ですが、宝玉が移動する可能性はなくなった。後は魔獣をどうするか、ですが……」

 しばらく話し合い、明日に詳しく計画を立てようと決めてその場で解散する事になった。ミリーナとサドロスは勿論フィルゼン邸に帰るのだが、冒険者の二人はこの森で野営をすると言う。

「もし、あの魔獣が街の方へ向かったら危険ですから」

 ラウルは笑って言い、シダルガは特に何も言わなかったが反論はないのだろう。冒険者というだけあって野営は慣れているらしい。

「では、明日。明日も絶対に来ますからね!」

 ミリーナは見送る二人に強く宣言しつつ、サドロスに促され帰路についた。

 森の外に停めていた馬車にミリーナを乗せ、サドロスは御者台に付く。いつもは箱型の席の窓から顔を乗り出してあれやこれやと話しかけて来るのだが、今日はさすがに疲れたようで大人しく座っているらしい。

 フィルゼン邸に帰り、ミリーナの世話をメイド達にタッチすると、サドロスは再び厩に向かった。先程戻した馬とは別の馬を出して鞍を取り付け、それに乗る。

「何だサドロス、今日はまた出るのかい」

 従僕の一人が声をかけて来て、サドロスはそれに頷いた。

「少し出る。お嬢様の呼び出しがあったら、買い物に出たと言っておいてくれ」

「了解。ああついでに、煙草とランプ油を買って来てくれよ」

「油は切れていたか。煙草は……お前のだろ?」

「はは、頼んだ」

「遅くなるぞ」

「明日の朝までに買って来てくれりゃいいさ」

 銀貨1枚を投げて寄越した従僕に苦笑し、サドロスはそれを懐に仕舞うと馬を走らせる。

 向かうのは、帰って来たばかりの道。――同じく森の手前で馬を停めて繋ぐと、足を潜ませて森に入った。



 既に周囲は薄暗く、森の中に入ると木々に光が遮られてなお暗く感じる。

 シダルガとラウルは、先程別れたばかりの所からそう離れていない場所にいた。焚き木をしているようで、その周辺だけが暖かな光に照らされている。遠目に認識出来る程度の距離を取ってそれを確認したサドロスは安堵した。この二人がここで逃げ出さないかと、念の為に見に来たのだ。

「……まさか、魔獣がいるなんて」

 ラウルの声が薄く聞こえる。風上と風下の関係でか、耳を澄ませばここからでも二人の声を聴く事が出来るようだ。

「土の魔獣か」

「はい。あれでは、ミリーナさんとサドロスさんを近付ける訳には……」

「ああ。待っていて貰うしかないだろう」

「そうですね。……ミリーナさんを、説得出来ればいいんですけど」

 ラウルが苦笑して言い、サドロスも内心複雑な思いで同意した。ミリーナは反対するかもしれないが、あの魔獣に近付けるのは危険すぎる。

 どうやら魔獣についても情報に嘘偽りはないようだし、二人はミリーナの身を案じてもいる。それならば大丈夫そうだと、サドロスは息をついた。胸を撫で下ろすサドロスに気付く事もなく、ラウルはゆったりとした口調でシダルガに訊ねる。

「……この地方はどうでしたか?」

 しばしの沈黙が降りて、シダルガの思案しながらの低い声が答えた。

「山ばかりだった、と……思う。火山が多く、人の立ち入る域はなかった」

「それじゃあ、シダルガの時代よりずっと後から開拓されたんでしょうね」

「ああ。私が覚えている限り、この一帯は採掘どころか人の住む場所ではなかったはずだ」

(……?)

 二人の会話に違和感を覚え、サドロスは眉を寄せる。火山ばかりで人の住む土地ではなかった、とシダルガは言っている。だが、この地方に活発な火山があったのはもうずっとずっと昔の事だ。――いわく、火山に棲む火の竜と雪山に棲む氷の竜がこの地で諍いを起こした。結果は氷の竜が火の竜を打ち負かし、氷の竜が冷たい息吹を吐きかけて山の全てを凍らせた。氷の竜が立ち去った後には山の火は見る影もなく冷え切ってしまい、静かな山になった。その地に人々が移り住み始めて、街が出来た。その街がリーフガリアという名前になるのは千年も後。そんなお伽噺があるくらいの、昔の話。

 だが、シダルガはまるで見て来たかのように口にしていた。

(歴史書で見た、とか……?)

 その可能性ならあるかもしれない。他の大きな都や、何より王都には地方の失われた歴史書なんかも保管されていると聞く。偶然それを目にしていたならば。……だがその仮説も余りしっくりとは来ない。

 疑問に首を捻るサドロスの耳に、静かな声が流れて来る。

「ところで――私は、盗み聞きという行為が好きではない」

「!!」

「え?」

 それは風の流れではなく確実にこちらに、サドロスに向けられたもので、驚愕にぎゅっと心臓が縮み上がった。ラウルは気付いていないようで不思議そうな声を上げていたが。

「出て来給え。尚も隠れようとするならば、敵意の有無を確かめねばならない」

「…………」

 警告は本気だろう。サドロスは諦めて、素直に隠れていた木陰から姿を見せた。まだ遠目だった焚火の明かりを目指して歩きながら両手を上げて抵抗の意志はない事を示す。

「悪かった、気になったもんだから……」

 言いながら、二人の姿が認められる近くまで来て、サドロスは思わず足を止める。

「あっ」

 サドロスの姿を目にしたラウルは驚きに目を丸くしたが、次いでその褐色の頬に更に朱を昇らせた。

 森の中、多少開けたそこに焚火を作り二人は座っている。座っているが、てっきり焚火を囲んでいるものと思っていたサドロスの予想は外れた。焚火の前にシダルガが腰掛け、彼のすぐ前……膝の間にラウルがちょこんと収まっていたのだ。

(え、なにこれ)

 それはどう見ても、シダルガがラウルを抱き込んでいる図だが。固まるサドロスの前で慌ててラウルがそこから離れようとした。

「ちっちが、いや違わないんですけど、ってちょっと離してください! 離して!!」

 だが腰を浮かせ逃げようとしたラウルの身体にはがっちりとシダルガの腕が回り込んでおり、ラウルはそれを剥がそうともがいているが無駄な努力である事は明らかだ。シダルガは全く動じず同じ無表情のままラウルを抑え込んでいるが、絶対に逃がさないという意志だけは頑なに動かない腕から察せられた。

「あー……ああ、いや、気にするな……? いや、気にしないから、別に」

 顔を真っ赤にしてふぐぐぐと唸りながら男の腕に抵抗する少年が段々可哀想に見えて来て、サドロスは思わず宥めるように言いながら手を振る。

「うん、まだ寒いもんな、うん。野営ならくっついてた方が暖かいもんな」

 何度も頷きつつ焚火の前に来ると、とうとう抵抗を諦めたのか息切れしたラウルが今度は逆に身を縮込めて小さくなった。

「お、お見苦しい所を。他の人がいる前では止めてくれって、言ってたんですが……」

 後半は恨みがまし気に言いながら少年はシダルガを見上げる。無表情でそれを流したシダルガは特に説明も弁解もする気はないらしく、口を噤んでいた。

「彼は、その……僕のにおいが好ましいようで」

「におい」

「は、はい。それで、こうして嗅ぎたがるだけなんです。それだけなんです」

 言う間にもシダルガはラウルの首元に顔を埋めてじっと目を閉じている。少年の首元から覗く後れ毛が軽くふよふよとそよいでいるのを見るに、静かに堪能しているらしい。更によくよく見れば、逆側の首元にはあの小竜が絡み付いていて、これまたじっと目を閉じている。

「……まあ、人それぞれだし」

 呟くと、「はい」と、ラウルが情けなさそうに眉を下げて答えた。

「そ、それより、サドロスさんはどうしてここに?」

 慌てて話題を変えた少年に、サドロスは頭を掻きつつ首を傾げる。

「ちょっと、確認に。……明日の正午にお嬢様を連れてまたここに来るから、この場所で落ち合うって事でいいか?」

 誤魔化しついでに提案をすると、ラウルはこくりと頷いた。それは、左右に首を取られているため僅かな動きでしかなかったが。

「構いません。正午なら、あの魔獣も眠りについている時間ですし」

「そうか。それなら安心だ。……じゃあ、俺はこれで」

「はい。お気をつけて」

 腰を浮かせたサドロスにラウルは言い、シダルガは微かに開いた目でちらりとだけ視線を寄越した。この妙な男に常識を求めても無駄だと悟ったサドロスは、軽く息をつき二人に向かい手を振ってその場所を辞する。買い物も頼まれているし、さっさと立ち去った方が得策だ。

 既に暗い森の小道を歩きながら、サドロスは改めて彼らを、本当に妙な奴らだと認識を改めた。

(だが――多分、悪い奴らじゃないんだろう)



 翌日、遠乗りに行くと偽りミリーナは乗馬用の服でサドロスを伴い森に来た。

 今日は馬車ではなくそれぞれ馬を駆り、念の為に馬を森の中に繋いでおく。

 シダルガとラウルは昨夜別れた場所で既に準備を済ませて待機しており、夜のうちにあの魔獣が外に出て来る事はなかった、と伝えた。

「それで、昨日の内にシダルガとも話し合ったのですが――」

 やはりあの魔獣の力は危険なものなので、ミリーナとサドロスは外で待っていて欲しい、とラウルが言うと、ミリーナはあからさまに不満気な顔になる。だが反論はせずに、ただぽつりと、

「私では、お力になれませんか?」

 そう訊ねて来た。

 ラウルははたとミリーナの顔を見遣り、シダルガが冷静に答える。

「戦力的な意味でならば。むしろ、君がいると防衛を考えなければならなくなる分、我々の力を削ぐ事になる」

「そう、ですが……」

 ぎゅっと胸の前で手を握るミリーナに、「しかし」とシダルガは付け加えた。

「助力は乞いたい。君の障壁生成の魔術、これは遠隔や長期の持続は可能だろうか?」

 その言葉に、ミリーナがぱっと顔を明るくさせる。

「は、はい! 一度障壁を作れば、魔力を込め続ける事で離れていても障壁を持続させる事が可能です! 最も、破られない限り、になってしまうのですが……」

 眉を下げるミリーナに、「それでいい」とシダルガは頷く。

「ラウルに障壁を作って欲しい」

「ラウルさんだけに? シダルガさんは……」

「私は構わないでいい。私にはあれは効かない」

「……?」

 首を傾げるミリーナに、ラウルは足元に置いていた荷袋から取り出した革の袋を差し出した。

「この袋に、お願いします。宝玉を見つけたらこちらに入れて運びますので」

「え? では、ラウルさん自身には……」

「大丈夫です」

 笑って辞退するラウルに、ミリーナは困った顔でシダルガを見た。シダルガもいつになく物言いたげにラウルを見遣るが、ラウルは首を横に振る。

「障壁は外部からの攻撃を弾きますが、同時に内部からも視界が乱れて遮られるでしょう?」

「それは、そうですが……」

 だが、革袋だけでは、とやはり戸惑うミリーナに「それなら」とラウルは付け足す。

「シダルガの剣にも、お願いします。剣ならば構いませんよね?」

 後半はシダルガに向けて言うと、彼も渋々と頷いた。鞘から剣を抜いてミリーナに示す。

「――頼む」

「は、はい。それでは」

 両手のひらを差し出して、ミリーナは剣に障壁生成の魔術をかけた。細長い円形の障壁が生まれ、刃を包み込んだ。ラウルの言葉の通りに障壁越しの剣はゆらゆらと水面に似たさざめきに覆われて、確かにこれが目の前に展開されると視界が見通しやすいとは言えない。同じ魔術を革袋にもかけて、いざという時――魔獣が坑道から出ようとした時には同じ障壁を坑道入り口に張ってくれと頼み込んで、シダルガとラウルは坑道の中に入って行った。

「お願いしますね」

「ああ。……気を付けろ」

「こちらは、お任せくださいませ」

「はい」

 笑って答えるラウルとただ頷くシダルガを見送り、ミリーナは目を閉じて集中を続ける。

 障壁を持続させるため魔力を送り続けるミリーナの傍で、サドロスは周囲を警戒しつつ剣を抜いた。



「……何故、障壁を作って貰わなかった?」

 坑道の薄暗い道を歩きながら、シダルガがラウルに訊ねる。ラウルは足元を照らすランプの明かりを調整しつつシダルガを見上げた。

「さっき言った通りです。障壁越しでは手元が危うくなる」

「ならば、視界を避ければいいだろう」

「そこまでしなくとも僕は平気ですよ。知っているでしょう? ……それに、この作戦だとシダルガの方が危ないんですから、シダルガこそ障壁を作って貰えば良かったのに」

「あれの力は生きた肉にだけ効く。ならば私には効くまい」

「あの魔獣の力はそれだけじゃない、爪の鋭さもあるでしょう」

「私の敵ではない」

 歩きながら益体もない会話を交わす。どちらも己には必要ないと言い、相手には必要だと主張する。答えが出ず平行線になるのは明らかだった。それを察してか、ラウルの服の首元から小竜が顔を出して小さく鳴いた。

「チビ。……うん、今日はチビにも大事な働きをして貰うから、宜しくね」

 小竜の顎を撫でつつ言うと、ピイピイと嬉しそうに鳴く。

「ちびを使うのか」

「はい。シダルガがあれを引き付けて、僕が準備をしている間にチビにあの宝玉を運んで貰います。チビが出て行って僕の準備が終えたら、シダルガもすぐ脱出してください」

「…………」

「チビ、この革袋を咥えてミリーナさん達の所まで行くんだよ、解った?」

「ピィ」

「よし、いい子」

 誉めると小竜はなお嬉しそうに鳴いた。――作戦は単純なものだった。要するに宝玉さえ取り戻せばいいのだ。あの魔獣は子の巣立ち前で気が立っているし、子供がどれほど成長しているかまだ解らない。宝玉を取り返す最中で完全に怒らせてはいけないし、その怒りを緩和させる必要があった。……ラウルにはある術を使い魔獣の気を宥める事が出来る。ただ、それには幾つかの準備が必要で、その間に魔獣の気を引き付けておく誰かが必要だった。シダルガがこの役を負い、宝玉を先に避難させる役を小竜が負った。魔獣を宥めてからでも宝玉は取れるが、その前の防衛戦で宝玉が傷付いたり割れたりしたら元も子もない。

 採掘場が近付き、こちらの気配を察したのか地響きが聞こえて来る。

「――行くか」

 シダルガが短く言い、ラウルが頷いた。



 先に採掘場にシダルガが入り、素早く襲い掛かって来た魔獣の爪を防ぐ。障壁の助けもあり、鋼鉄のような魔獣の巨大な爪が鈍く重い音を立てて剣が弾いた。これにより、魔獣の敵意は完全にシダルガに向けられただろう。

 その隙に壁に沿うようにそっと採掘場に入ったラウルは、懐から丸い亀の甲羅に似た形の入れ物を取り出しつつ視線を巡らせた。――幾つも幾つも散らばって固まる土塊の群れ。その中に、ちかりと光るものがある。そこに向かって走りながら魔獣とシダルガの方にも目を向けた。

 魔獣は昨日目にしたものと同じ、巌のような一体のみ。もし子供が巣立ちの直前であるならば、ある程度成長した魔獣の子も協力して襲い掛かって来るだろうが、幸いにも採掘場にはそれ以上の姿は見られない。ならばまだ巣立ちには時間がかかる程に幼いのだろう。裏を返せばそれは、それだけ魔獣の母体が必死になるという事でもある。己の命すら介さずにこちらを排除しようとして来るだろう。

 実の所、魔獣の命を奪うのが一番手っ取り早いのだが……それはしたくないと、ラウルがシダルガに言ったのだ。この魔獣は本来土の中に潜み、人を襲う事もなく近付けば逃げて行く種族なのだ。偶然それがこちらとかち合い、偶然その時期が悪かった。だから、いたずらに命を奪う真似はしたくなかった。ただ巣立ちの時期を待てば互いに傷つけ合う事なく済むのだから。

 ラウルの懇願にシダルガは頷き、その提案に従うと言ってくれた。そうして身体を張ってくれている彼のためにも、手早く済ませなければ。

 シダルガの剣と数度切り結んだ魔獣は、不利と見做したのか身体を引いて離れると壁を這い上がり、一旦距離を取った。天井に近く位置取った魔獣はぐるりと振り返り、首をくっと引く。その予測行動にラウルがはっと目を見開いた。

「チビ、隠れて――……」

 叫びながら小竜を懐に抱き締めたラウルが身を縮めるや否や、魔獣が甲高く鳴く。――肉を土に変化させる、この魔獣の特殊な力。それがこの咆哮だ。

「くっ……、」

 形容し難い鳴き声は魔力の渦を伴い襲い掛かった。シダルガは剣を掲げてこれを防ごうとするが、魔力の波を受けた障壁にヒビが入り、それは無惨な音を立てて割れる。

「…………ッ」

 ラウルは左腕を掲げていたが、苦悶の声を漏らした。やがて鳴き声が途切れ、同時に魔獣が音を立てて降りて来る。それがラウルの方へ向かっていると見て取り、シダルガは咄嗟に足元にあった土塊を蹴り上げた。土塊が崩れて小固まりが魔獣の顔の横に当たる。それで魔獣は再びシダルガを見た。

「こちらに集中して貰おう」

 何の肉体変化もないまま呟き剣を構えるシダルガに、魔獣は警戒の息を漏らしながら方向を変えそちらに向かった。

 その隙にラウルはよろりと立ち上がり、左腕を庇いながら宝玉のある土塊の方へ走る。懐から小竜が出て来て不安気な声で鳴いた。

「大丈夫……チビは、何ともない?」

 問いにピイと答える声を聞きながら、ラウルは土塊の中から宝玉を引き抜く。砂にまみれたそれを払い落す暇もなく、革袋に突っ込むと口の紐を縛り、それを小竜に渡す。

「頼んだよ」

 革袋を咥えた小竜が素早く飛び立ち坑道へ向かった。魔獣はシダルガの剣戟に気を取られている。小竜が採掘場を抜けたのを見図り、ラウルは土塊の影に隠れると先に取り出した器の上に手を翳した。

「……立ち上がれ、香りたて、いざない、いざなえ……」

 かたかたと亀の甲羅に似た半円形の器の蓋が揺れ出す。じわりと赤く光り出したそれを確認して、土塊の影から出るとラウルはそこに器の中身をばら撒いた。さっと赤く輝く砂に似た粒がラウルの周囲に広がる。器を捨て短剣を取り出すと、ラウルは離れた場所で剣を振るうシダルガに向かい叫んだ。

「シダルガ! 発動させます、撤退してください!」

 その叫びで魔獣がこちらに気付く。それも丁度いい、ラウルが魔獣の気を引けばシダルガの後は追わないだろう。だがシダルガは何を思ったか、ラウルの元に移動しようとする魔獣の後を追って来た。

「――シダルガ!」

 ラウルに向かい振り上げられた爪を、滑り込んで来たシダルガの剣が受け止める。ギィン、と鈍い音が響き渡った。

「何してんですか、撤退を! 早く!」

「断る」

「なっ……あなたにも作用するって……」

「それが発動すればな。だが、その間、君は無防備になる」

「僕なら大丈夫だと、」

「私が良くない」

 押し問答の間にも赤い砂の輝きは徐々に収まろうとしている。発動しかけた魔術が途切れようとしているのだ。

「ああもう――……この、石頭!」

 自棄になって叫びながらラウルが短剣で己の右掌を切った。大きく線を描き開いた傷口から真っ赤な血が溢れ出て来る。途端に、何かに気付いたように魔獣の動きが怯んだ。ラウルは己の手を振り払い、赤い砂の上に溢れる血をばら撒いた。そうして目を閉じ、発動の呪文を唱える。

「――――――」

 赤い砂がより一層輝き、それは色を変えて行く。炎の赤から黄金の色に、同時に〝それ〟が香り立った。

 魔獣が小さな声を上げて、攻撃も忘れたかのように一歩下がる。

「……くっ、」

 シダルガも微かに唸り、白皙の顔を歪めた。

 砂から立ち上がった光は下から照らすようにラウルの身体を包み込み、少年はその光の中でゆっくりと目を開いた。




 二人が中に入ってからどれくらい経った頃だろうか。坑道の中から小竜がサドロスの元に飛び込んで来て、咥えていた革袋をぶつけるように投げて来た。

 慌ててそれを受け止めると小竜は羽搏いて坑道の方に戻り、入り口付近をうろうろとしている。

「サドロスサドロス、あれがあなたの言っていた竜ですの?」

「は、はい。……お嬢様! これを」

 先刻、障壁のひとつが割れたと不安気にしていたミリーナが初めて目にした竜に驚いてサドロスの腕を掴んだ。頷きつつ渡された革袋の中を改めて、そこに収まる砂だらけの宝玉を二人は見た。

「ああ、良かった! ……けれど、お二人は……」

 まだ坑道の中から出て来ないシダルガとラウルを心配してミリーナはそわそわと落ち着かずにいる。坑道入り口を漂っている小竜も同じ気持ちのようで、入るかどうかを逡巡しているようにも見えた。

(様子を見に行くべきか……? いやしかし……)

 短慮は起こさないでくれと頼まれている。サドロスは、今にも飛び込んで行きそうなミリーナを抑えつつもう少し待つ事にした。――それからまたどれくらいが経っただろうか。半刻は越えないが決して短くはない時間が経過し、突如小竜が高い声を上げて中に飛んで行った。

「あ……、」

 思わずそれを追うミリーナと後に続くサドロスは、薄暗い坑道から二人がゆっくりと歩いて来るのを見た。

「ご無事ですか!?」

 慌ててミリーナが声をかけ、ラウルが苦笑して頷く。だが、少年は彼よりずっと体格のいい男を――肩に回されたシダルガの腕を支えており、常に冷静で落ち着いた空気を崩す事のなかったシダルガがいつになくぐったりとした様子でラウルに支えられていた。

「どこかお怪我を……? お待ちください、今回復を致しますから!」

 焦りながら言い募るミリーナに「いえ」とラウルは首を横に振る。坑道から出て来たシダルガは、ラウルの肩から離れ怠そうに岩肌に凭れた。

「お気にせずに。怪我ではなく、酔ったようなものですから」

「は? 酔った?」

 中で酒でも飲んだというのか、妙な事を言うラウルに、しかしシダルガも頷きつつ構うなというように手を振っている。

「あの、魔獣は?」

 気になっていた事をサドロスが問うと、ラウルは小さく頷いた。

「中です。魔獣も酩酊しています。恐らく明日まで大人しいでしょうし、そこまで時間を置けば魔獣も冷静になって、怒りより巣の安全を優先すると思います。ですので、ここに人が近寄らないようにして頂ければと……」

「あ、ああ……そうだな」

「それならお任せくださいませ」

 どんと胸を張るミリーナがあの革袋を手にしているのを見て、ラウルがほっと安堵の息をつく。

「宝玉は……無事に渡せましたね。それでは、すみませんが今日は宿の方に帰らせて貰っても構いませんでしょうか?」

 彼の調子が良くないので、とシダルガを指して苦笑するラウルに、ミリーナが勢い込んで提案して来た。

「ならば! 私の屋敷にいらっしゃいませ、お二人は恩人ですもの! 丁重にお持て成し致しますわ!」

 だがそれに否やを唱えたのはシダルガだった。

「悪いが……宿の方が近い」

「そ、そこまで?」

 そんなに具合が悪いのかとサドロスまで心配になっていると、はあとラウルが深い溜息をつく。

「ただの悪酔いなんですけど、それだけに休めば治りますから」

「で、でもでも、……でも、ご本人が仰るのでしたら、仕方ありませんわね……」

 しゅんとしつつ撤回をするミリーナに、サドロスは内心で僅かに驚いた。

(お嬢様が、こんなにあっさり引くとは……)

 今までなら、それでもと無理に押していた所なのだが。

「それなら、お宿まで送らせてくださいませ。それなら構いませんでしょう?」

 乗り物は馬ですが、と付け加えるミリーナに、ラウルは微笑んで頷いた。

「ありがたいです。喜んで、甘えさせて頂きます」



 二頭の馬の内の一頭を借り、シダルガとラウルはそれに同乗をして宿に戻った。馬は放せば自分で戻って来るとの事で、確かに宿屋の前で降りて放すとすぐに駆けて行く。軽やかなギャロップの足音を見送り、二人は宿の部屋に入った。

 すぐにぐったりとベッドに身を横たえるシダルガに、ラウルが深く溜息をつく。

「だから言ったのに、無理を通すから」

 僅かに冷たく言い放ちながらラウルはマントを脱いで椅子にかけると、懐に潜んでいた小竜を掬い上げて出した。小竜もまた術の影響を受けたのだろう、でろんと力なく身体を放り出している。

「残り香が、強かったかな……」

 不安気に言い、ラウルはテーブルの上の丸籠、柔らかな布を敷き詰めたそこに小竜を寝かせた。小竜はすぐに己の尾を抱え込むようにくるりと丸くなり、鼻息を立てて眠り出す。それに微笑んだ後でベッドに沈むシダルガを見遣り、

「……果物でも買って来ます。酸味のあるものなら、すっきりするかも」

 そうしてきびすを返そうとした。が、不意に後ろから髪が引かれてがくんと立ち止まる。掴まれたのは長く編んだ髪の先。普段はマントに隠れているがラウルの後ろ髪は腰に届く程に長い。それを尻尾のように掴まれ引かれて振り返ると、シダルガの薄い色の目がひたとラウルを見詰めていた。

「――シダルガ」

「怒っているのか?」

 訊ねる男に、少年は軽く眉を寄せる。

「少しだけ。撤退しろと言ったのに聞かなかった。それでこれですから」

「これは、君の血に酔っているせいだ。この酩酊は、悪くない」

「…………」

 髪を離して代わりに腕を強く引き、シダルガはラウルをベッドに引き込んだ。横向きになって後ろから抱きかかえ、いつものように首元に顔を埋める。そうしてぽつりと呟いた。低く、静かに。

「君がどう思っていようが、君が傷付く事は私には耐え難い」

「それは……」

「左腕。土になった個所が崩れていただろう」

 囁きながら大きな白い手が少年の細い褐色の左腕を撫でた。今はもう何ともない、ごく普通の腕。あの時――小竜を庇い、肉の半分ほどが土に変化して崩れ落ちた箇所。

「……〝私〟は心配なんだよ、ラウル」

 不意に男の声音が変わる。淡々としたそれから、感情の伴った柔らかな声に。それに気付き、ラウルは肩越しに彼の顔を見た。男は静かな表情で、いつもより緩められた青と緑の目で少年を見つめている。

「再生の速度が速いとは言え、痛みはある。喪失も。君には、その痛みを軽んじないで欲しい」

「……はい。すみませんでした、シダルガ……サフィラスも」

 頷き、抱き締める腕を抱き返す。背後の男が小さく笑い、猫のように喉を鳴らした。実際のところ、本当に悪酔いではないのだ。逆に心地良い酩酊感であり、眩暈はすれどそれを上回る多幸感がある。

 ラウルが採掘場で使用したものは『竜酔香るすいこう』と呼ばれるもので、これに魔力を込めると魔獣は木天蓼マタタビを与えられた猫のように酔う。最上級の竜酔香は竜をも酩酊させるという話だが――……。ラウルはこの竜酔香に、更に己の血を使う事により効果の速度と時間の上乗せが出来る。あの魔獣も今頃は採掘場で心地良い夢を見ているだろう。




 翌日、ラウルとシダルガの二人はあのレストランに連れられた。

 初日は味わえなかった料理を堪能して欲しいと言うミリーナの願いで、豪華なフルコースを振る舞われる。その最中に話し合ったのだが、あの魔獣についてはひとまずはそのままに、巣立ちの季節が終わり魔獣が去ったらそれとなく街の人間やギルドに伝えようという事になった。

「新しい轍を辿って偶然立ち入ったら奇妙な土塊と放置された馬車があった。そう報告致しますわ」

「はい、お願いします」

 馬車は盗賊のもの、ならば中身は盗品もあるだろう。ギルドの者なら土塊だけであの魔獣の仕業だと解るだろうとラウルは言った。

「なのでそれまで、さり気なくでいいので人払いをお願いしますね」

「お任せくださいませ!」

 ミリーナはどんと胸を張り、それから思い出したようにフォークを口に運ぶ。彼女は先日は口に出来なかった新しいデザート、季節の果物をあしらったパイを上機嫌で堪能していた。

 ……魔獣の存在が公になって、それからどうするかは領地を治める貴族の問題だ。

 食事が終わり最後の紅茶が運ばれた後で、ミリーナはサドロスに言いあるものを取り出させた。小ぶりな箱に収められ上等な絹で包まれているそれを恭しく開く。そこにあったのは、あの宝玉だった。フィルゼン家の家宝で、『真実の眼』と呼ばれるもの。今は綺麗に土も埃も落とされて、透明に輝いている。

「お礼、というのもおこがましいかもしれませんが、どうか私にお二方のお手伝いをさせてくださいませ。この宝玉は予知以外にも、望むべき道への答えが導けるのですよ」

「望むべき道……?」

「はい。例えば、失せもの探しや、目的を見失った方への指標、道に迷った際の導きなどですわ」

「…………」

 ミリーナの言葉にラウルは複雑そうな顔になった。迷った様子を見せた少年だが、

「僕は、遠慮しておきます」

 そう断る。

「そ、そうですか? ならば、シダルガさんは……?」

 不安気に問うミリーナに、相変わらず無表情でシダルガは頷いた。

「では、頼む」

「っ! はい! それでは何を見ましょうか?」

「探しているものの行方を」

「はい、お任せください!」

 簡潔なその言葉にほっと顔を緩ませて、ミリーナは張り切って宝玉の上に両手を置く。――が、すぐにぎょっと目を見開き宝玉から両手を離した。

「お嬢様?」

 背後から声をかけるサドロスに、ミリーナは慌てて微笑んでみせた。

「あ、ええ。何でもありません。では、改めて……」

 こほんとひとつ咳をして、再度目を閉じて宝玉に両手を乗せる。

「シダルガさんの探し物は――……、……? これは何処でしょうか、不思議な景色です……まるで世界の終りのような……寂しい景色……。探し物は……そこで、何かに……囚われている……? 黒いモヤで、絡み取られているみたい……それに阻まれて囚われているようです……」

 眉間に皺を寄せてゆっくりと言い、そうしてミリーナは小さく息をついて目を開いた。

「……ここまでです。申し訳ありません、こんなに曖昧なものしか見えないなんて初めてだわ……」

「いや。参考になった」

 しょげた言葉に短い言葉が返され、ミリーナは顔を綻ばせる。この男は言葉こそ簡潔だが、思ってもいない事は決して口にしないともう知っていたからだ。



 食事の礼を言い、レストランの外で別れる。

 正式な謝礼をと何度も申し出たのだが最初の報酬だけでいいと二人は頑なにそれ以上を受け取ろうとはしなかった。聞けば、もうこの街を離れて次の街に向かうらしい。またこの街に来た時は是非邸宅に寄ってくれと約束し、ミリーナは二人を見送った。

「……別れて良かったんですか?」

 並んで見送りつつ、サドロスがぽつりと訊ねる。従者の言葉に、え、とミリーナは顔を上げた。

「どうして?」

 不思議そうに問い返すミリーナに、サドロスは多少決まりが悪そうに続ける。

「その……シダルガさんにはやけに熱心だったので。もしや、あの……恋愛的な意味で……」

「やだもうサドロスったら!」

「ぐえ!?」

 言葉の途中で笑い出したミリーナに思い切り背中の中心を叩かれ、思わずサドロスは二歩ほどつんのめった。ミリーナは明るく笑いながら手を振る。

「確かにあの方はとても素敵な御方でしたけど! あの方の類稀なる素質に見惚れていただけです!」

 そうして少女はうんうんと一人頷く。

「ええ、ええ。あんなに素敵な輝きをお持ちなのだもの。優れたもの、美しいもの、そういったものに見惚れてしまうのは当然でしょう?」

「は、はあ。そういうもんですか……」

「そういうもんですの」

 まだ余り納得の行かない顔で、サドロスは頭を掻いた。

「素質っていうのは、何の素質なんですか?」

「そうねぇ」

 問いかけにミリーナは少しばかり首を捻って考え、

「――きっと、勇者と呼ばれるのはああいう御方なのだわ」

 深く思い入るようにそう答えた。


(けれど、あれは何だったのでしょう)

 勇者ねぇ、と唸るサドロスの横でミリーナはふと黙り込む。

 フィルゼン家の家宝、真実の眼。最初にそれに手をやった瞬間、ミリーナの目には向かいに腰掛ける二人の姿が飛び込んで来た。だが、それは真っ当な姿ではなかったのだ。

 シダルガは、彼の中心……左胸の魂のある場所に固まった石像に似たものがあった。それは細やかな美しい大理石の彫刻のような細工であったが、生命の脈動は一切感じられない、〝終わった〟〝閉じた〟ものだった。その美しい細工を祀るように様々な装飾がなされ、華美な紋様と誰かを讃える詩で満たされている。それらが何重もの術に包まれており、他には何もなかった。生命らしきものは何も。

 そして、ラウルの方は。ラウルの左胸には確かに魂の輝きはあった。だが少年の魂は幾重もの蔦に似た何かが絡み付いており、ほぼ核の見えない状態になっていた。だがその蔦の隙間からは眩いばかりの黄金の光が薄く漏れており、その奥にあるものの輝きの強さを僅かに伝えている。

 驚きすぐに宝玉から手を離したが――……そこから二人に目をやってももういつもと変わらず、シダルガの『探し物』を探るため再度宝玉に触れてももうあの奇妙な姿は見えなかった。シダルガは以前と同じく光輝を背に抱いているかのような眩さがある青年で、ラウルはごく普通の少年に見えた。ギルドで初めて二人を見た時と同じように。

「本当に、不思議な方たち……」

 呟くミリーナをサドロスが見遣る。

「また、お会いしたいわ」

 少女の呟きに、従者は柔らかく微笑んだ。

「……そうですね」




 宿を出た時点で出立の準備は整えていたので、レストランを出た後はすぐ街を後にする事にした。

 次の街まではそう遠くない。街道を行けば、半日程度で着くだろう。

「こちらでも、何もありませんでしたね」

 ラウルが言うとシダルガは頷く。

「ミリーナさんのヒントはどうでしたか?」

「……具体的ではないにしろ、一考には値する」

「世界の終りのような場所で、何かに囚われている、でしたか」

 ああ、とシダルガは答え、白皙の顔をしかめた。

「だが、囚われている、というのは……どうだろう」

「その可能性は無い、と?」

 見上げるラウルにシダルガは静かに首を横に振る。

「可能性が無いとは言えない。だが正直、考え難い事ではある。囚われた、か……」

 晴れた日の街道をゆっくりと歩きながら、男は呟いた。

「――あの恐ろしい邪竜が、一体何に?」

 その疑問に答えられるものはいない。

「けれども、竜に関する騒動はどこにも起きていませんし、もしかしたら本当にそうなのかも」

「ああ」

 竜にまつわる事件や騒動。二人はそれらを探して街から街へと旅していたが、そういった騒動が起これば真っ先に情報が来るギルドでも梨の礫だった。あったとしてもガセや竜に似た魔獣の仕業だったり詐欺に近いものであったり勘違いであったりで、未だ求める情報には辿り着けていない。

 次こそはと二人の旅は続く。

 その果てに何が待っているのかは、まだ誰にも解らなかった。




  ※ ※ ※




 青の月より一ヶ月が経過した陽の月の初め。フィルゼン家より報告が入り、商業組合からギルドに直下の令が為され、廃坑確認の隊が派遣される事になった。

 その前日、深夜。灯かりもない暗闇を物ともせずに歩く影が一人ある。廃坑の荒れた地面を叩く革のブーツはカツカツと小気味良い音を立て、揺れるローブの裾が土壁を撫でていった。

 やがて影は奥の広間、かつての採掘場に出るとそこに佇み、ぐるりと中を見回す。

「――流石に親子共々もう去ったか。巣立ちの後の報告。なるほど、なるほど」

 低く艶やかな声が笑みを含んで囁き、そして幾つも乱立する土塊を一瞥した後で、ある個所に足を向けた。

 影は長い髪の先が土に触れる事も厭わずに腰を落とし、そこに僅かに零れる土を見る。見て、それを手で掬い取った。

「ああ――ああ! ここにいたのか、俺の“黄金”!」

 掬い取った土を目の前に掲げて熱っぽく囁き、だがすぐに、ふう、と息をつく。

「しかし、己の身を顧みない悪癖は変わってないようだな。まったく、困った子だ。あの肉体に不要物など欠片もないというのに……」

 ローブの下、豊満な胸とくびれる腰の更に下に掲げた革袋から透明な小瓶を取り出し、その人は救い上げた土を大切に大切に瓶の中に移した。そうして再度地面に手をやり、素手で探り探り、その手に反応がある土を全て瓶の中に収めて行く。神経質にも取れる程に長い時間をかけて、その人は目的のものを全て回収した。

「土地の巫女に託宣を仰いだかな? それでもあの子一人では魔獣は除けられん、頼もしい連れがいるようだな」

 小瓶をまた慎重に革袋に収め、その人は立ち上がる。

「……挨拶、は止めておくか。俺の実験は成功している。巫女も民も何も疑ってはいない。ならば、それで良いだろう」

 ふふ、と小さく笑みを零し、大きな帽子のつばを指先で撫でる。黒い帽子、黒いドレスにローブ、革のヒールブーツに炎のごとき深紅の髪、褐色の肌。いかにも魔女と呼ばれるに相応し気な恰好をしたその人は、上機嫌できびすを返す。

「さて、次はどこに行こうかな」

 妖艶に微笑み気まぐれに足を運ぶ、その名は〝船団の黒蛇〟イドラ。

 ゆったりとした足取りで来訪し、そして去り行くまで、洞窟内には灯かりは一つも灯らず、イドラの深紅の目が炎のようにちらつくばかりであった。


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