異世界でコソ泥に堕ちた俺が、真っ当な人生に這い上がる話
@Umezou123
第1話召喚
「成功しました。間もなく目を覚まします。」
低い声が耳を打ち、自分の意識が浮上するのを感じる。瞼を開くと、見知らぬ石造りの天井が広がっていた。
体を起こそうとするが、うまく力が入らない。首だけを動かして周囲を見回してみる。
どうやらここは教会の礼拝堂のような場所らしい。
ただ、十字架は見当たらなかった。単なる礼拝堂ではなく、特異な空間なのかもしれない。
ここはどこだ?
自分が今まで何をしていたか思い出そうとする。確か、さっきまで……思い出せない? 確かに何かをしていたはずなのに、その記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。
「気分はどうですか。」
突然、低く響く声が耳に届いた。
その声に反応して振り向くと、二人の人物がこちらを見下ろしていた。
一人は白いローブをまとい、深いフードで顔を隠している。
もう一人は初老の男性だった。銀色の髪は綺麗に整えられているが、額と頬には深い皺が刻まれている。深紅のローブに金糸の刺繍を施した衣装を着ており、手には翡翠色の宝玉がはめられた杖を携えていた。
声の主はこの初老の男性のようだ。
「大丈夫です。」
まだ頭がぼんやりとするが、何とか答える。
ただ、自分の声はこんな声だったか…。
「それは良かった。私はザクリムといいます。あなたの名前を伺っても?」
初老の男――ザクリムは柔らかな口調で語りかけてきた。
その仕草にはこちらを気遣う様子が伺えるが、あの目は…。
「……ダイスです。」
「ありがとうございます、ダイスさん。」
ザクリムは微笑みを浮かべる。
「ダイスさん、ご自身について何か覚えていることはありますか?」
「……いえ、何も。すみません、何か思い出せそうな気はするのですが。」
ザクリムは少し驚いたような顔を見せたが、すぐに元の表情に戻る。そして、左手にある扉へと視線を移した。
「そうですか。一時的な記憶喪失かもしれませんね。ここで会ったのも何かの縁でしょう。しばらくはここで安全に過ごせますから、焦らずゆっくりと思い出していってください。おーい、入ってきなさい。彼を部屋へ案内するように。」
扉が静かに開き、一人の侍女が現れた。髪色は白く、こちらと目が合うと大きな瞳がにっこりと笑った。服装は質素ながら品のある紺色のロングドレスを身にまとい、柔らかな足取りでこちらに近づいてくる。
「どうぞこちらへ。お部屋をご案内いたします。」
侍女はそう言うと、手を前方に向けて軽く示しながら、先頭に立って歩き始める。
案内された部屋は質素で、ベッドと簡易なトイレしかなかった。
ただ、扉は頑丈そうで異様な重厚感があった。
「それでは、また朝にお迎えに上がります。何かございましたら扉をノックしてください。」
侍女は一礼し、分厚い扉を閉める。
その直後、「カチャ」という鍵を閉める音が耳に響いた。
部屋に一人残され、ようやく一息つく。
さっきはザクリムに何も覚えていないと言ったが、実際には覚えている。
自分の名前はオオス ハルト。
日本の田舎で生まれ育ち、高校を地元で過ごし、大学進学を機に上京。その後、そのまま都会で就職し、ひたすら働き続けてきた。
両親や友人たちの顔は鮮明に思い出せる。
だが、この場所に来るまで何をしていたのか、その記憶だけがすっぽりと抜け落ちているようだ。
先ほどのザクリムの目――他人を利用することに躊躇しない目――が脳裏に浮かぶ。
手の内を晒さないほうがいい。直感的にそう思った。だから記憶がないふりをしたのだが、それが正しい判断だったと信じたい。
まずは慎重に動くしかない。情報を集め、少しずつ状況を理解していくことが生き残るための第一歩だ。
少なくともここがどこか把握しなくては。
先ほどのザクリムと侍女の容姿や服装から、日本はおろか現実世界ですらないような感覚が拭えない。まるでゲームの世界に迷い込んだような感覚…。
いや、今の段階で心配しても仕方がない。
体力を回復させるため、ベッドにもぐりこんで無理やり目をつぶる。朝になったら悪い夢から覚めていることを願いながら。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、ザクリムが侍女を伴って部屋を訪れた。侍女の手にはペンと紙が握られている。
「おはようございます、ダイスさん。昨晩はゆっくりお休みいただけましたか? 何か思い出されたことはありますか?」
ザクリムの声は昨日と同様に穏やかだが、その視線は油断なくこちらを観察している。
「はい、一晩眠ったら、少しずつ思い出してきました。」
慎重に答えながら様子を窺う。
「それは良いことです。では、どういったことを思い出されたのか、教えてもらえませんか。何か力になれることがあるかもしれません。」
日本の田舎で生まれたこと、家族構成、学校生活、職業といった、当たり障りがなさそうなものを答える。
こちらの話が終わると、ザクリムからは治安や世界情勢、俺自身に戦闘経験があるかといったことを訊かれた。
慎重に言葉を選びながら、基本的にはよく分からないと答える。ザクリムは不満そうだったが、それ以上は追及してこない。
ふと侍女の視線が気になってそれとなく観察する。
侍女は机に向かい、返答を丁寧に記録している。しかし、時折こちらを観察するようにじっと見つめてくる時がある。その視線にただならぬ雰囲気を感じ、目をそらしてしまった。
ザクリムの質問が一段落したところで、思い切ってこちらから質問してみる。
「ここは……日本ではないんですね?」
ザクリムは一瞬、目を細めた。
「その通りです。ここはあなたが生まれ育ったという『日本』ではありません。この地は、あなたがいた世界とは異なる世界と考えていただいて結構です。」
その答えを予想していなかったわけではない。
だが、これまでの数十年間で培われた常識が強く拒否反応を示す。自然と、ザクリムのその言葉に疑いの問いを投げかけていた。
「異世界、というわけですね。しかし、とてもそんなことは信じられません。」
心なしか、ザクリムの口元が歪んだように見えた。
「それでは、このようなものはいかがですかな。Б〈ЯШ ЪЗ〈Я〈Τ, ЭΓΔZШ ΗЗ.」
聞き取れない言葉をザクリムが唱えた瞬間、ザクリムが持っていた杖の先端から炎が上がった。炎は30センチほどの高さまで上がると、そのままその場で燃え続けている。
「これは炎を出す初歩的な魔法です。魔法はそちらの世界にはない技術と聞いていますが、これで信じてもらえますかな。」
炎を見つめる。
すごい。
まさに種も仕掛けもない、ただの空間で炎が燃え続けている。
初めてみる魔法に興奮しながらも、ここが異世界であるいう証拠を突き付けられて気が沈む。
「分かりました…。私をここに呼んだのはザクリムさんですか。目的は何ですか。元の世界に戻れるんですか。」
声が震えるのが自分でもわかる。
ザクリムは深い皺の刻まれた顔を曇らせ、ため息をついた。
「確かに、私たちがあなたをこの地に呼び出しました。目的については、申し訳ないですが今はまだお話しできません。また、ダイスさんが元の世界に戻りたい思う気持ちはよく分かります。こちらの目的をお話しした後、その目的を達成することができたら、元の世界に戻すことをお約束しますよ。」
「そうなんですね、良かった! それでは、これからよろしくお願いします!」
正直、元の世界に戻れるとは思っていなかった。
急に胸の重りが取れたように晴れやかな気持ちになったる。
ひと通りのやり取りが終わると、ザクリムが立ち上がり、庭の散策を提案してきた。
「少し気分転換されるのはいかがでしょう。」
屋敷の正面玄関から外に出て、そのまま庭に案内される。秋の気配が漂う庭には、ひんやりとした空気が満ちており、枯葉が足元でカサリと音を立てる。ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐり、肌寒さを感じる中で、わずかにリラックスした気分になった。
この世界に来て初めての外出だったが、不思議と自然だけは確かに「本物」だと感じられる。それだけが、今の自分を支えるわずかな慰めだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
庭から戻り、夕食をとって部屋に戻る。また扉が閉められ、鍵がかかる音が響く。
夜が長い。
かつての世界ではテレビやインターネットで時間を潰すのが当たり前だった。しかし、こちらの世界ではそれらは存在しない。
時間はゆっくりと、重くのしかかるように流れる。
やることもないので寝る準備をする。
ベッドに横になろうとしたその時、遠くで屋敷の玄関が開く音がした。
続いてザクリムの声が響く。
「応接室の用意を。それから……」
後半は声が小さく聞き取れなかった。
こんな時間に来客…? 嫌な予感がした。
ザクリムのあの目が脳裏をよぎる。
部屋の外から侍女のパタパタという足音が近づいてくる。
その足音は部屋の前で少し立ち止まると、またパタパタと遠ざかっていった。
外の様子が気になり、しばらく扉の前で聞き耳を立てていたが、何も聞こえない。
しかし、先ほどの嫌な予感が気になり眠る気にもならない。
試しに部屋の外に出れないか扉をぐっと押してみた。
すると、扉が静かに開く。
鍵がかかっているはずの扉が開くという不自然さに、一瞬だけ戸惑うが、廊下の奥にわずかに開いた応接室のドアを見つけて、耳を澄ませた。
中から聞こえてきたのは、ザクリムとは別の男の声。
「では、確認のため条件を読み上げます。以下の者を奴隷として銀貨30枚で買い取る。成人のトールマン1名、名前はダイス、四肢の欠損なく健康……。」
その言葉を聞いた瞬間、全身が凍りついた。
「奴隷として……銀貨30枚で買い取る?」
ぶわっと冷たい汗が噴き出てくる。
心臓の鼓動がドクドクと耳の奥でうるさく響く。
ザクリムの冷淡な声が追い討ちをかけるように聞こえてきた。
「相違ない。確かに、その内容で頼む。それにしても、今回も失敗だ。せっかく召喚したのに特別な力もなく、活用できそうな知識もない。大赤字だが、このまま飼っていても餌代がかさむだけだ。」
ザクリムの言葉には一片の情もなかった。
「では、契約はこれで成立です。」
別の男の声が事務的に話す。
「……明日の夜には引き取りに来てくれ。」
ザクリムが静かに告げるとそれが終わりの合図だったのだろう。部屋の中の二人は雑談を始めた。
先ほどから心臓はバクバクと大きな音を立てているが、頭はしんと冷えている。
このまま部屋に戻れば、また分厚い扉の内側に閉じ込められ、明日の夜には奴隷市場に送られる。
部屋には戻らず、屋敷の中のどこかに隠れたとしても、すぐに見つかってしまうだろう。
この屋敷から逃げ出すしかない。
意を決して、昼間庭へ出る時に通った正面玄関へ静かに歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
屋敷の正面玄関に辿り着くまで幸い人の気配は感じなかった。
音を立てないよう慎重に玄関の扉を開けると、冷たい夜の空気の中に身を滑り込ませる。
玄関の外には高い門と柵が立ちはだかっている。門の閂(かんぬき)を静かに外すと、人ひとり通れるだけ門をずらして街道に出た。
屋敷から左右に街道は伸びていた。
左側は先の方に明かりが見え、たくさんの人の気配があるようだ。対照的に右側は暗闇が広がっている。
人ごみに紛れたい誘惑に駆られるが、自分の格好を思い出す。
寝る前の薄い部屋着のままだ。これでは街中では目立ちすぎるだろう。
仕方なく、左側の明かりに背を向け、右側の暗闇へと足を踏み出す。
屋敷から離れるほど、周囲は暗闇に染まり、不安が大きくなる。
「これからどうする、どうしたらいい…。」
頭の中で繰り返す言葉に答えは出ないが、まずは今晩を生き延びなければ。
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