ブランコに繋がれている

陽澄すずめ

01 どこにも行けないもの

 きぃこ、きぃこ。前に、後ろに。

 ブランコの影が地面を滑って行ったり来たりするのを、俺はぼんやり眺めていた。


 夕暮れ迫る公園は既に人もまばらだ。

 つい先ほどまで遊具を駆け上がって鬼ごっこをしていた小学生たちは、五時のチャイムが鳴った途端、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。

 砂場で山を作っていた小さな兄弟も、さっと片付けをして行ってしまった。


 今や残っているのは、ブランコに乗る幼い女の子と、その背中を押す若い母親だけだ。このところ見かけるようになった母娘だった。


 きぃこ、きぃこ。錆びた鎖が軋む。


「ねぇ、ももちゃん、そろそろ帰る時間だよ」

「やだー! まだあそぶー!」

「ほら、もうみんな帰っちゃったよ」

「だって、ブランコたのしいもん」

「じゃあ、十まで数えたらね」

「はーい!」

「いーち、にーい、さーん……」


 柔らかな母親の声と、甲高い女の子の声。静かになった公園に、重なった二つの声が甘く優しく漂う。


 懐かしく思い出す。藍子あいこも、いつもああだった。帰る時間になってもなかなかブランコをやめようとせず、毎回必ず十まで数えていた。


「しーち、はーち、きゅーう、じゅう!」


 女の子は揺れの小さくなったブランコから飛び降り、母親の手に掴まった。


「さぁ、ももちゃん。帰ろっか」

「うん、またこようね。ブランコさん、ばいばーい」


 ふわふわした二つ結びの頭が、俺の真横を通り過ぎていく。あの子はちょうど、かつての藍子と同じくらいだろう。


 乗り手のいなくなったブランコを、俺はそっと押してみる。

 そろりと前に揺れた青い座板は、呆気なくこちらに戻ってきた。

 きぃこ、きぃこ。その音だけが、いつまでも響く。


 日が傾く。鎖の影が伸びる。


 手を繋いだ母娘の背中を何気なく目で追った。宵闇の気配が混じり始めた空。今日もまた一日が終わっていく。

 女の子が振り返り、こちらを指さした。

 ブランコは、まだゆっくり揺れていた。



 次の日も、また次の日も、母娘は公園へやってきた。

 『ももちゃん』のお気に入りは、二つあるブランコのうち後ろから見て左側。ちょうど俺の定位置の正面だ。ここからだと、母親が娘の背中を押す様子がよく見える。

 どこにでもある、当たり前のような光景だ。


「ももちゃん、十まで数えたら帰るよ」


 母親がそう告げる日がほとんどで。


「ママ、じゅうまでかぞえてね」


 女の子が自ら申し出る日も時々あった。


「ブランコさん、ばいばーい」


 二人が立ち去った後、俺は無人のブランコを揺らす。女の子がそれを振り返り、名残惜しそうに指さす。そこまでがワンセットだ。



 ある日、珍しいことが起きた。

 いつも通り母娘の背中を見送った先、公園の入り口に若い男が立っていた。高校生か大学生くらいに見える彼は、母娘の知り合いであるらしかった。


 どういう関係なのかと、少し不思議に思った。父親にしては若い。さしずめ母親の弟か何かだろうと当たりを付けた。

 だが、シルエットだけなら家族に見える三人組ではあった。

 はっとした。あの女の子にも父親はいるはずだ。父親にブランコを押してもらうこともあるのだろうか。


 地面に伸びる三つの影。一番小さな影の持ち主が振り返り、こちらを指さした。

 俺の揺らしたブランコは、未だ落ち着くところを定められずに、繋がれたままゆらゆら宙を彷徨っていた。



 今日もまた五時のチャイムが鳴る。

 小学生たちは競うように帰路へとつき、砂場の兄弟は蛇口で綺麗に手を洗ってから公園を出ていった。

 そしてブランコには、やはりいつもの母娘の姿がある。


「ももちゃん、そろそろ帰ろ?」

「やだー! もうちょっとブランコする!」

「じゃあ十まで数えたらね」

「はーい!」

「いーち、にーい、さーん……」


 いつもと変わらないやりとりが繰り返されて、思わず口元が緩んでしまった。

 子供というのは、飽きずにいつまでも同じことをやりたがるものだ。

 だけど俺とて飽きずにいつまでもここに来ているのだから、人のことは言えない。


 不意に胸が痛んだ。

 いつまでも同じことを——せめて気の済むまでやれたのだったら、どれほど良かっただろう。


『おとうさん、またこようね。またブランコおして』

『あぁ、いいよ』


 かつて藍子とそんな約束をした。何でもない日常の中の、何でもない約束だった。

 公園に来て、ブランコに乗る我が子の背中を押す。たったそれだけのことがある日突然できなくなってしまうなんて、当時は夢にも思わなかった。

 面倒くさい、早く帰りたい。そう感じていた自分を殴りたい。後からどんなに強く望んでも、あの時間はもう二度と戻ってこない。

 俺はひどい父親だ。俺の中の藍子は、四歳のまま時を止めていた。


「しーち、はーち、きゅーう、じゅーう!」


 当時の藍子と同じくらいの背丈をした女の子は、母親と手を繋いで帰っていく。

 二人の後ろ姿を尻目に、俺はまたブランコを揺らす。

 きぃこ、きぃこ。

 ブランコはどこにも行けない。

 日が暮れて、子供がいなくなっても、その背中を押す親がいなくなっても。

 いったい何のために揺れ続けるのだろう。地面を滑る影、それすらもうすぐ闇に溶けてしまうのに。


「あの、すみません」


 突然、声をかけられた。

 先日も母娘を迎えにきていた、あの若い男だった。


「ちょっとだけお話よろしいでしょうか」

「……何か?」


 俺は怪訝に相手を見据えた。よもや不審者だとでも思われているのだろうか。

 彼の後ろ、少し離れた場所に、母娘の姿がある。きっと母親が俺を気にして、助けを求めたに違いない。


 まだ二十歳にも満たないように見える青年は、存外穏やかな口調で問うてきた。


「ここで何をされてるんですか?」

「何って……少し昔を思い出してただけだよ。娘のと思い出の場所なんだ」


 正直に答えたのは、下手に誤魔化すと余計に怪しまれると思ったからだ。


「娘さん、ですか。その子の名前を伺ってもいいですか?」

「なぜそこまで言わなきゃならないんだ」

「どうしても確かめたいことがあるんです」


 いやに食い下がる。さすがにムッとしてしまった。疑うにしたって、失礼にも程があるだろう。だけど言わないことには解放してくれそうにもない。

 俺は溜め息まじりにしぶしぶ口を開いた。


「藍子だよ。藍色の藍に、子供の子。悪いけど、証明できるようなものは何もない。どうしても怪しいと言うなら、警察に突き出してもらっても構わない」

「いえ……それは大丈夫なんですけど」


 青年は、ちら、と後ろに目配せする。

 地面に伸びた母親の影が、戸惑うように揺らいだ。

 俺は何だかバツの悪い気分になる。


 彼は再び俺へと向き直った。


「実はあなたに会わせたい人がいるんです」

「……は?」


 ますます以ってわけが分からなかった。

 混乱し、視線を彷徨わせて、ひやりとした。


 なぜなら俺の足元には、影がなかったのだから。

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