リアルを知らない少女と、リアルを失った少年、ときどき犬っぽいなにか

野生児

第1話 静寂の朝

 朝日が薄く差し込む部屋の中に、埃が漂う。窓の外には荒廃した街が広がり、崩れかけたビル群が遠くまで連なっていた。時折吹き抜ける風が、錆びた看板や倒壊した建物の一部を揺らし、かすかな軋みを響かせる。それは、まるで街がまだ生きていると訴えかけるようだった。


 エリスは窓際に佇み、その風景をじっと見つめていた。かつては現実とは異なる世界——仮想空間の中で生きていた彼女にとって、この世界の空気の冷たさ、乾いた匂い、肌にまとわりつく埃は、どこか違和感を伴うものだった。現実の感覚。それが今、彼女を包み込んでいる。


 エリスの乗る車椅子のようなデバイスは、静かに佇んでいた。彼女の小さな動きに合わせて微かに振動し、安定した姿勢を保つ。流線型のデザインと滑らかな金属の質感が、この荒廃した空間には不釣り合いに映る。


 「朝食だよ。」


 リアムの声が背後から聞こえた。彼は簡素なキッチンの前に立ち、片手に食事の乗った皿を持っている。そこにはパンとジャム、そして温かい飲み物が添えられていた。


 エリスは振り返り、微笑んだ。「ありがとう。」


 手を伸ばしてパンを受け取る。その指先が微かに震えているのを、リアムは見逃さなかった。だが、彼は何も言わず、自分の食事を始めた。


 二人の間に会話はほとんどない。それでも、気まずさは感じなかった。静寂の中で、それぞれの役割を果たしながら、食事をとる。


 リアムはふと視線を部屋の隅に向けた。そこには、小さな犬用のベッドと、水の入っていない空っぽの器が置かれている。埃がわずかに積もっているのが分かる。彼はほんの一瞬、その場所を見つめた後、すぐに目をそらした。


 「今日の計画は?」


 リアムが静かに問いかける。エリスはパンをかじりながら、窓の外に視線を戻した。


 「ここから少し移動したほうがいいと思う。あの建物、まだ通れるかな?」


 彼女が指さしたのは、半壊したビルだった。崩れた上層が斜めに傾き、瓦礫が不規則に積み重なっている。かつては誰かの住居だったのか、それともオフィスビルだったのか。今となっては、その痕跡すら定かではない。


 リアムは目を細め、しばらく眺めたあと、小さく肩をすくめた。


 「試してみるしかないな。ただ、慎重にな。」


 エリスは頷いた。「うん。」


エリスは最後のひとかけらのパンを口に運びながら、リアムが黙々と荷物を整理する様子を眺めた。彼の動きは無駄がなく、慣れた手つきだった。片腕しかないはずなのに、驚くほど手際がいい。


 リアムは背を向けたまま、リュックの中身を確認する。食料、水、簡易の医療キット、そして古びたナイフ。すべて必要最低限のものばかりだ。


 「準備できたか?」


 エリスはわずかにデバイスを動かしながら頷く。


 「大丈夫。」


 リアムはそれ以上何も言わず、玄関に向かう。錆びたドアの取っ手に手をかけると、重い音を立てて扉が軋んだ。外の空気が一気に流れ込み、埃っぽい風が二人の頬を撫でる。


 エリスはわずかに目を細めた。この冷たい感触も、仮想空間では決して体験できなかったものだ。


 「行こう。」


 リアムが短く言い、先に足を踏み出す。エリスはデバイスを操作し、彼の後に続いた。


 外に出ると、世界は一層静かだった。崩れたコンクリートの割れ目から雑草が顔を覗かせ、遠くにはかつての道路が歪んで残っている。車の残骸が横倒しになり、ガラスが砕け散っていた。


 「どっちに向かう?」


 エリスがリアムの背中に問いかける。


 「まずは南側に出る。昨日見た建物の影が気になる。」


 リアムの言葉に、エリスは視線を巡らせた。確かに、遠くにそびえる高層ビルの一部が、妙な形に傾いていた。人がいる気配はないが、そこに何かがあるかもしれない。


 二人は慎重に瓦礫を踏みしめながら進む。足元には砕けたタイルや、古いポスターの切れ端が散乱していた。かつてここに人々の暮らしがあったことを示すわずかな痕跡。それらが風に飛ばされ、音もなく消えていく。


 リアムは周囲に目を配りながら、足を止めることなく進んでいく。その姿を見て、エリスはふと口を開いた。


 「ねえ、リアム。」


 「なんだ?」


 「……ここは、昔どんな場所だったの?」


 リアムは少しだけ歩みを緩めた。彼は短く息を吐くと、あまり感情を込めずに答えた。


 「人がたくさんいた。それだけだ。」


 それ以上の言葉はなかった。


 エリスは何かを言いかけたが、結局口をつぐんだ。リアムの背中は、何かを拒むように見えた。


 こうして、二人は瓦礫の広がる世界を進んでいく。

 エリスはリアムの言葉を反芻しながら、ゆっくりと視線を巡らせた。「人がたくさんいた」と彼は言った。しかし、今この場所にはその痕跡すらほとんど残っていない。壊れた建物、風化した道路、錆びついた標識。それらはすべて、かつてここが街だったことを示してはいるものの、人々の存在を感じさせるものではなかった。


 「……ねえ、リアム。」


 再び声をかけると、彼は足を止めずに応じた。「なんだ?」


 「この世界って、どこまで続いてるの?」


 リアムはしばらく沈黙した。彼はエリスの方を振り返らず、そのまま前を見据えたまま答える。


 「さあな。俺も全部を見たわけじゃない。けど、どこまで行っても似たような景色が広がってるよ。」


 エリスはその言葉を受け止めながら、微かに眉をひそめた。どこまでも続く、壊れた世界。その中をただ歩き続ける。終わりのない旅のように感じられた。


 ふと、彼女は足元に転がる何かを見つけた。色褪せた、小さな看板の破片。かろうじて判読できる文字が書かれている。


 「コー……ヒー……ショップ?」


 埃を払いながら呟くと、リアムがちらりとそれを見た。


 「昔の店の看板だな。もう何も残っちゃいないが。」


 エリスは破片を手に取ると、指先でなぞった。仮想空間では、こういうものはすぐに修復されるか、そもそも存在しなかった。世界が壊れたままであること。それが、現実なのだと改めて実感する。


 「ねえ、リアム。」


 「今度はなんだ?」


 「もし、またこういう店があったら……コーヒーって飲んでみたいな。」


 リアムは一瞬だけ沈黙した。そして、すぐに小さく息をつくと、「あればな」とだけ返した。


 エリスは微笑み、看板の破片をそっとその場に戻した。


 そのとき、リアムが突然立ち止まり、片手を挙げた。エリスは驚いてデバイスを静止させる。


 「……音がした。」


 二人は耳を澄ませた。風の音以外に、何か微かな物音が聞こえた気がする。瓦礫が崩れるような、何かが動いたような音。


 リアムは低く囁く。「気をつけろ。」


 エリスは息を詰め、周囲を見渡した。


 この世界は静寂に包まれている。だが、その静寂は本当に「安全」を意味するものなのか——彼女は、初めてこの世界の不穏さを肌で感じた。


 二人は静かにその場で身を潜め、耳を澄ませた。


 瓦礫の向こう側から、微かに響く音——風のせいかもしれない。だが、それだけでは説明のつかない違和感があった。リアムは注意深く周囲を見渡しながら、小さく息をついた。


 「ここを離れる。」


 低く囁くと、ゆっくりと動き出す。エリスもデバイスを操作し、できる限り静かに進んだ。


 彼らの足元には割れたコンクリートが広がっている。少しでも不用意に踏みしめれば、破片が崩れ、音を立てる可能性があった。リアムは慎重にルートを選びながら進んでいく。


 「……ついてこい。」


 リアムの声は落ち着いていたが、明らかに緊張が滲んでいた。エリスも何も言わず、指示に従う。


 そのとき、乾いた音が響いた。


 パキッ——何かが割れた音。


 エリスは一瞬息を飲んだ。リアムが素早く振り返り、低く舌打ちする。


 「走るぞ。」


 彼の言葉と同時に、エリスのデバイスが加速した。リアムもすぐさま走り出す。背後で、何かが確かに動いていた。


 鋭い音。鉄が擦れるような耳障りなノイズ。


 エリスは怖れを感じながらも、振り返ることなく前へ進んだ。リアムの背中を見失わないように——ただ、それだけを意識していた。


 狭い路地を抜け、朽ちた建物の影に身を隠す。


 リアムは荒い息を整えながら、エリスを振り返る。「大丈夫か?」


 エリスは頷いたが、胸の奥でまだ高鳴る鼓動を感じていた。


 「……今の、何?」


 リアムは沈黙し、視線を遠くに向けた。


 「わからない。だが、また会うことになるだろう。」


 彼の言葉は、妙に重かった。


 エリスは改めて現実の冷たさを噛み締める。


 ここは仮想空間ではない——本当に、何が起こるか分からない世界なのだ。


 リアムは一度深く息を吸い、エリスの方へ視線を戻した。


 「行こう。止まってる時間はない。」


 エリスも小さく頷き、リアムの後について歩き出した。


 朝日がゆっくりと昇り始める。


 二人の影が伸び、やがて荒廃した街の中に溶け込んでいった——。


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