DIVINITY≠ forfeiters dance in the law of causality.

早摘大豆

第一章 故に零落せし空なる器

序章

 ――善悪、好悪、美醜。世界のあらゆる価値基準を、どこの誰だか知らない神様が決めてくれればいいと思っていた。


 絶え間ない悲鳴、狂乱する村人たちと、爆ぜる火の粉に盛る炎。降り注ぐ灰に染みる眼で、黒い丸まった塊へと見知った顔が代わりゆく様を、絶望と共に見送っていた。


 遠目に映るのは鎌首をもたげた巨大な黒いうねり。鱗、そしてばさりと広げられた美しい翼。吼える声で民家も人も粉微塵になり、噴いた炎が触れた全てを塵芥すら残さない。高過ぎる熱はその余波で何もかもを燃やすのであって、直撃すれば全てを即座に蒸発させてしまう。


 黒龍だ。その高貴さすら感じさせる艶めいた、途方も無く美しい龍は、永き眠りから醒めた途端何もかもを燃やし尽くしてしまった。俺が育ったこの小さな村も、そのひとつに過ぎない。


 ――けど、そんなことは無い。結局のところ価値というのは各々で定める、定められてしまうものであって、何者かに下賜されるものではないのだ。……だから。


「ヴァンッ!!」


 震え、慄いて、へたり混んだ幼い頃の俺。あぁ、と漏らす筈だった声は音にすらならず霧散して、ひゅっと緊張で締まった喉の途中に籠り、息苦しさで喘ぐ。


 何に憤怒を燃やしているのか、或いは単に苦しんでいるのか。龍は大地を揺るがし吼えながら、焦点すら合わない目をぎょろぎょろと四方八方に向けていた。俺にはそれが恐ろしくて、やたらめったらに死を撒き散らすその龍の瞳がたまたま自分と合ってしまった瞬間に、思考の全てが空白で埋められた。


 火球が飛んでくる。それを俺は見ている。きっとそれは黒く強大な龍にとっては吐息を漏らした程度のことだったろう。けどそれは矮小な人間にとっては十分過ぎる程に致命的で、だから、抗おうという考えすら浮かばない程に「あぁ、死ぬのか」と納得してしまった。


 それで終わる筈だった。


 ――だから、言い訳なんか出来なかった。その姿が余りにも強烈に、脳裏に焼き付いてしまった。その姿に憧れた。その瞬間に、生きる意味その全てが片端から塗り替えられていくのを、どうしようもなく理解した。自分では届き得ないと世界によって定められたその理想を、追い続けることでしか生きられなくなった。


「ヴァンクラッド・アンレイズぅぅううううッ!!」


 俺の前に損も得も無く飛び込んで来たのは、幼馴染で親友の、少年。同じ日に生まれ、同じ時を過ごし、同じ場所で、同じような飯を食って、同じように歩んで来た半身のような友だち。


 そいつが虚空からわけも分からず光り輝く剣を引き摺り出して、ただ俺を助けるためだけに、他の何も考えずに、死そのものを体現したような炎の塊を叩き切って粉砕したのだ。


 ――あぁ、と思う。これは呪いだ。届かないのにチラつかされて、だというのにそれが無ければ生きられない。この人生に、価値を感じられない。きっと、あの瞬間俺は死んでいたのだ。今の俺は炎に焼かれて死んだ残りの燃え滓で、それ以上でも以下でもない。


「――レイン」


 死の化身たる黒龍と、至る所から火の粉が立ち上り、狂乱に呻く村。その地獄と俺の間に、美しい光の粒子を纏うアイツはいた。


 豪奢な黄金の剣だ。こんな田舎の村では見たことがない。親友である彼、レインもまた驚きと共に自分の姿を見ていて、少しの間あたふたとしていた。なりふり構わず飛び出して、ただ俺を、友だちを守ろうとしたのだ。言葉なんて交わすまでもなく、その程度のことはわかってしまう。


 親友だから。重ねた時間が、重ねた思いが、それを深く理解させてしまう。


 戸惑いは少しの間で、けどその間に、アイツは覚悟を決めてしまった。未だ震えて立ち上がることすらできない、俺とは全く対照的に。


「大丈夫。僕が、何とかする。ヴァンを、皆を守るッ!!」


 ――あの瞬間まで、俺たちは全く真逆の立場だった。俺が守って、アイツが守られて。大人がぎゃあぎゃあ騒いで、いつも何だかんだで俺が叱られて。下らない、けど、当時は自分でも認めちゃいなかったが、とにかく楽しい日々だった。


 黒龍が怯んだように後退る。咆哮を上げ、翼を広げ、今の今まで何かを認識した様子ですら無かったヤツは逃げるように飛翔した。その風圧で黒い空が開け、地平の果てに太陽が昇る、その間際の薄明が覗く。


 生き残った人々は放心状態でその御伽噺のような光景を見て、その意味を理解すると沸いた。涙を流し、両手を天に突き上げて喜び、抱き合って泣いた。俺もその、そうしたその他大勢・・・・・の一人だった。


 その日一人の英雄が誕生し、少しの時間を置いてソイツは運命に導かれるように旅立ってしまった。


 俺はそれを見送った。


 見送ってしまったのだ。着いていくことは、とても出来なかった。


 ――大人は皆、死んだ。俺は弱くて、どうしようもなくて、けどアイツは英雄になった。


 ――それを俺はあの頃、どう感じていたのだったか。


「――ちくしょう……ッ」


 ――あぁ、そうだ。俺は俺の意思でアイツに憧れた。そして、勝手に憧れておいて、勝手に妬んだ。


 ――親友を、妬んだのだ。そんなふうにしか思えない自分を、同時に酷く憎悪した。



******



『そろそろ起きろよ、“万華鏡”。降下ポイントが近い』


 ノイズ混じりの音声に瞼を開く。機内は打ち付ける雪の礫に揺られ、反響音が輪唱しては載せられた機材を打ち合わせる。俺は手首に巻き付けたコンソールを弄り、ゴーグル上に位置情報を呼び出した。


 ガンレザル大陸最北の地、ノースエンドを発ってから随分経つ。人類の生存圏を大きく離れた世界の果て・・・・・では計器が誤作動を起こすことも多く、信頼は置けない。だが、目安にはなる。軽く舌打ちをしてから目頭を揉んだ。


『分かっているとは思うが、魔力は取り付くまで無しだぞ。反応を気取られては不味い』


「把握してるよ。どれくらい寝てた?」


『二時間は固いな。剛毅なやつだ、これからテロリストを強襲しますって奴のメンタルじゃない。流石はかの“カルマイアの英雄・・・・・・・・“様だ』


 微かに奔る、疼痛。眉を顰めて息を吐く。なんてことはない、それが俺に対する周囲の評価だ。知っているし理解している。俺は望んでそう振る舞い、望んだ“称号“を確かに得た。ならばそれを否定するべきではないし、──だから俺は、それから逃げた。そして今も、こうしている今この瞬間もずっと、逃げ続けている。


「……やめろよ、単純に休んでおかなきゃ身が持たないだけだ」


 古傷を撫ぜる感触にも似た、痛みもないのに湧き上がる疼き。俺にとっては“英雄”というのがそれだ。思い出したくもない現実を突きつけられるその言葉が、何より俺は嫌いだった。ましてや誰かに触れられたくは、無い。


 だからこそ、こんな地の果てにいる。人と魔王の眷属との果てしない戦い――聖魔大戦グランド・ウォーと呼ばれるそれから逃げ、こんなご時世でなお人同士争おうという物騒な活動家のお相手という、必要ではあれど紛う事なき汚れ仕事に身をやつしている。


 一時忘れられるからだ。俺自身の及ばなかった過去を。そして自分が大層な人間ではないと、証明できるから。


 俺は別に、もうただの影でいい。光の当たる場所はもう御免だ。それだけのことがあったし、それだけの挫折をした。懲り懲りだった。――届かぬ光を手繰る、何もかもが。


『ハッチ開くぞ。到着予測は魔道具に有線で送ってある。この吹雪だ、敵艦もこちらを捕捉できていない。魔力波に頼らない探知機能を持つこちらだけが、一方的に奇襲を掛けられる。敵もまさか単騎で攻めてくるなどとは考えちゃいないだろう、手筈通りなら突入は問題ないはずだが、……その先の成否はあんたに賭けるしかない。――健闘を祈る。罪は我らが主の御許に』


 軋みを上げながら、輸送機の後部が口を開いてゆく。最新の強化装甲の具合を軽いストレッチで慣らす。降下用のマスクを上げて、内在魔力充填率が100%であることを確認し、武装の不足が無いかを最終点検。問題は無い。


 いつだってそうだった。俺は、一度世界の危機を救ってみせた“カルマイアの英雄”ヴァンクラッド・アンレイズは、人より多少であれば何だってできた。だから今回も当然のように、失敗はしない。当たり前の準備の帰結として、当たり前の結果を得る。


「ああ。罪は我らが主の御許に。――出る」


 浮遊感。漆黒の夜空に身を踊らせ、全身に冷たい礫を浴びる。殴り付ける風に押し戻されながらも引力のまま落ち、闇の底へと沈んでゆく。


 ゴーグルに表示される緑の誘導ラインだけが感覚に輪郭を与え、マスクから供給される酸素だけが、今息をしている事実を確かにする。空を切る轟音と、黒い世界。刹那の間、自分が生きているという事実を忘れられて、息が継げる。


 そして、目的地が見えた。


 黒い船だ。空に浮き、円筒状の船体の側面には翼のような機構が。僅かなライトが灯っており、何らかの作業を世界の端・・・・で執り行っている。


 端、というのは言葉通りの端だ。海と虚空の境界からは滝が滂沱と流れ落ち、底なしの大穴へと消えてゆく。その先は、計機のデータに乱れが生じ、物理現象が捻じ曲がる生命の活動限界領域。踏み入れば生命こそ残ったとして人の形を保てるかは怪しい、人の世界の終端だ。


 携行していたナイフを逆手に、身を丸めて魔力を全身に通す。接地する一瞬で先端を窓に突き立て、割り砕いた。侵入に成功する。マスクを外し、駆け出した。


「何が――」


 誘導は効いている。ゴーグルの指し示す通りに船内を走り抜け、ひたすらに司令室へ向かう。


「て、敵――」


 通り抜けるその瞬間に首の動脈を撫で切る。鮮血が壁に噴きつけ、一条の赤を塗りたくった。その光景もすぐに流れ去り、誰にも気付かれず、アラートの一つも鳴らないままに、中枢へと食い込んでゆく。


 音は殺している。目撃者も一人余さず首を半ばまで絶った。遊びは無い。殺す事すら意識せず、作業のようにただ進んだ。


 司令室のドアが開く、と同時に魔力を限界まで込めた足が音を置き去りにする寸前の速度で一歩を踏み込む。標的を発見。驚愕に刹那硬直する男の首へ、音もなく刃を走らせ――。


「――ッ」


 派手な金属音が鳴り響いた。横合いから伸びた斧槍の柄に、俺のナイフが弾かれたらしい。撃破目標である道化師の面をした男は息を飲み、跳ねて後退する。首元を押さえると、つと、腕に赤い液体が伝い落ちた。どうやら致命傷には至らなかったようだ。


 俺の攻撃を紙一重で返した斧槍使い、銀髪の男が、苦笑と共に口を開く。


「流石、と言うべきだな。魔力の揺らぎを偶然感じてから、僅か二分で頭を取りに来るとは。やはり俺を連れて来て正解だったようだぞ、スヴェンカイド。……黒髪、一房垂れた三つ編みに、赤い結び紐。“カルマイアの英雄”とお見受けするが、如何に?」


「そっちは“不倒”のガンツだな。ドロウデン戦線最大の英雄だ。お前程のやつが出て来るということは、それなりに焦ってはくれているのか?」


「それは焦るさ。やたら強い魔術士がたった一人敵に回ってからこちら、もう組織の内情はボロボロだ。まさか救世の大英雄だったとまでは思わなかったが……。面映いな、君ほどの存在に自分のことを知られているというのは」


 銀髪壮年の男、ガンツは、油断無く得物を構えながら道化面を守るような位置を取る。


「目的は既に達している。引き時だ。どれだけやれるかはわからんが、時間を稼ぐから行ってくれ」


「……そうだね。すまない、損な役回りをしてもらうことになる」


「気にするな。そのために来た」


 懐に仕込んでいる魔術式が刻まれた榴弾に魔力を込めながら、敵を眺めていた。司令室には八人いたが、目の前の二人を除き、最初の撃ち合いの瞬間に投げた小型ナイフで全員脳幹を刺し貫き殺している。


 榴弾に組み込まれている代理詠唱機構が回転し、術式の起動を開始する。準備が整った。


「――ッ、性急だなッ!!」


 火花が奔る。男は斧槍の柄で器用に二本の刃をいなすと、捻りながら斧を振る。這い蹲るように伏せると、間髪入れずに槍が突き出される。


 右手のナイフで弾き、左手のナイフを順手に握り返して差し込んだ。それを身を引いて躱したガンツは、その身のこなしのままに斧の刃を振る。


 流れるような連携だ、確かに強い。だが、俺は別に戦士というわけでは無い。


「『詠唱発現キャストアウト』」


「っ、ぐッ」


 懐から落とした術式榴弾が起爆する。後退し物陰に隠れた俺に対し男はもろに爆発を食らったが、腕を交差し魔力で固め、致命傷を避けたらしい。爆炎から斧槍を回転させつつ身を踊らせると、それを勢いのままに薙ぎ払う。


 咄嗟に伏せる。直後に斧槍の軌道上に莫大な風が発生し、刃の如くに管制室を切り刻んだ。ずたずたに裂かれたコンソールが飛び散り、物陰が消えた刹那、視線が交錯する。


 口の端を吊り上げ、笑うガンツ。それは挑む者特有の、己が限界を試さんとする貌だった。


 地を蹴り距離を詰め、斧の刃を振り下ろす。ナイフでいなし、蹴りを放つ。跳ね上げた柄で受け止められるも、そのまま力を込めて跳躍。逆手に握った二本のナイフを振り下ろして首を狙い、頭上で回転した斧槍の柄に弾かれて振り出しへ。懐から取り出した小刀を数本投げて牽制しつつ、俺は踵を二回踏み鳴らす。


 それを合図に足元に仕掛けた爆弾が炸裂する、筈が寸前で気付いた男は柄を突いて術式榴弾を破壊。そのまま大きく振り被り、全霊で振り下ろす。


 先程と同じ、薙ぎ払う風だ。練り上げた魔力を振り抜くと同時に撃ち出しているのだろう。物理的な破壊力は相当なもので、直撃すれば死は免れまい。射程圏内から逃れられていないし、その余裕も無い。故に代理詠唱の済んだ自動起オートマチック・動法器イニシャライザーのトリガーを引き、起動する。


 三枚の魔術陣が展開され、歯車のように噛み合い、魔力が奔って術式が発現した。


「『詠唱発現キャストアウト』――『ワーンハイムの悲嘆』」


「――ッ!?そうか、それは爆弾ではないのかッ!」


 魔術、“ワーンハイムの悲嘆”。かつて迫害されていた山の民百余名を千の射手の矢雨から守り切ったとされるワーンハイム聖堂の大壁、その絶対防御を再演する効果を持つ。魔力により復元された防壁は半透明の金色で、ただ一撃を防いだのちに自壊する。


 魔術には必ず触媒と詠唱が必要だ。基本的に、起動法器イニシャライザーという杖を模した道具が触媒の役割を果たし、詠唱は術者自身が行う。詠唱は、大気を漂う魔素を物理現象へ変換する作業と同時進行で行う必要があるからだ。


 だからこそ、自動である程度詠唱と同等の効力を得られる代理詠唱機構という攻撃手段は俺にとっての鬼札となる。これは従来の魔術戦闘を根底からひっくり返す代物であり、相手が歴戦の戦士であるほどに勘を鈍らせる厄介さを孕むからだ。


 故に、その隙を突く。


 致命打にはならないとしても、完全に防がれるとも思っていなかったのだろう。ガンツは斧槍を振り下ろした最も隙の大きな体勢となっている。そしてそれは、俺を相手取るには致命的だった。


 長柄に足を乗せ、蹴る。超至近距離での前進跳躍、ナイフを突き立て捻り振り、喉を裂いた。


「ごッ、ぶ」


 血を吐く。男は踠くように腕を振るい、俺を振り洗うと喉を抑えた。


 魔力で強化した人体の強度、膂力は魔力の出力量で決まる。見る限り出力については俺を遥かに上回るガンツの力は、腕の一振りで人間を挽肉にして余りある。安全に捌ける位置取りでないのならば、ヒットアンドアウェイに徹するのが定石だ。


「驚いた、ぞ……。魔術士がこうも近接戦闘を熟せるとはな」


 断つには至らぬまでも、声帯は斬った筈。しかし男は、口元の血を拭いながら笑みを浮かべ、当然のように口を開いた。まぁ、そういうこともある。次の術式の準備をしつつ問いを投げ、殺し方を再度思考する。


「俺について知ってるんじゃなかったのか?」


「“カルマイアの英雄”の二つ名は数多ある呼び名のひとつに過ぎないだろう。お前の逸話は多過ぎる。語り手によって話が違うのに実際の戦闘スタイルを知ることなどできんよ。そして、それ故についた渾名が“万華鏡”――いやさ光栄なことだ。大英雄を前に足留めを仰せつかるとはな」


 喉を抑えていた手を退けると、既に傷は消えていた。悪戯っぽく笑みを浮かべ、両手で斧槍を腰だめに構える。


「だがこのガンツ・ベルドラス、ただ死なぬことで“不倒”の二つ名を得た男だ。簡単にやらせはせんよ」


 ――来る。奥の手だろうと判断し、俺はナイフの背に記された文字列を撫でつつ魔力を注いだ。水銀で刻印された回路に魔力が反応することで青い燐光が灯り、詠唱の代わりを為す古典的な魔術書の手法。使い切りの魔術が起動する。


「『詠唱発――」


 だが、それよりも僅かに早く。


「【星の現に反証する】」


 ドクン、と大気が跳ねた。


 爆発的に励起した魔力が波のように溢れ、刹那の静寂の後、潮が引いてゆくように銀髪の男へ雪崩れ込む。


「【虚飾の栄華、意義なき鉄槌】」


「【還らぬ過去は曇天に消ゆ】」


 これは魔術ではない。一握りの強者が行使する世界そのものの権能が一つ。世界に定義される己自身の象徴を天に知ろしめす、理を超えた異能の発露である。


「【存在証明】――【夢幻に屹すドレッドノート不壊城壁・ブロークンウォール】」


 術式名称の宣言と共に、男の背後に白銀の大楯が顕現した。無骨な意匠は守ること以外を削ぎ落としたようでいて、半透明な実体は幻影染みた頼りなさを意識させる。矛盾したその在り方は人の送る生涯に似て、事実、それは己が存在そのものを詠み謳う性質の神秘現象だった。


 “星律ステラ・オーダー” と呼ばれる法だ。この星そのものに承認された、後世に記録すべき強者のみが扱いうる世界そのものへの特別な権限ないし裁量権。保有者は概念すらも捻じ曲げた何かしらの能力を行使可能となり、何より――。


「温存を考えているであろうところ済まないが、こちらは出し惜しみ無しだ。“星律”は“星律”でしか破れん。俺の能力は展開中のあらゆる攻撃行為の無効化――魔王の概念焼却砲にすら耐えた絶対防御。その程度の攻撃は通じんよ」


 放ったナイフ全てがガンツに当たる寸前で弾かれ、乾いた音を立てて床に落ちる。その間奴は動くことすらせず、当たり前のように堂々と武装を構え続けていた。


 単純な効果の強力さもさることながら、何より、基本的に“星律”以上の格を持つ術式同士でしか効果の上書きが不可能な点において、非常に厄介な術理なのが“星律”だ。性質次第では掻い潜って攻撃を当てることは可能であっても、この男のように発動中の絶対防御といった能力ではこちらも同じく“星律”を展開せざるを得ない。


 そして“星律”は、日に一度しか使えない。星の巡りによって行使可能な回数の上限が決まっている、それは連戦を考慮する者にはこれ以上なく致命的な弱点となる。


 こちらの主目的はガンツの討伐ではなく、テロ組織“叛翼のアンヴェイルド・ドミニオン”の首魁と目される道化師の面をした男、“騙部”ユーイン・スヴェンカイド。今回ほどスヴェンカイドに肉薄できた機会は他に無く、慎重なあの男に次も同じ手が通用するとも限らない。ここで殺しきれなければ面倒なことは事実。


 しかし、ガンツはとても無視できる戦力ではない。こちらも手札を切らなければ、現状のままで突破することは不可能だろう。英雄と語られる男は事実として伊達では無く、火力も、耐久力も、それ自体の性能で言えば遥かにこちらを凌駕している。


 ただし、あくまでそれ自体の性能で言えば、の話だ。やり方はいくらでもある。


「使うか。――【星の現に反証する】」


 大気が、震える。ガンツは笑みを浮かべながらも表情を強張らせ、その額に冷や汗が走った。


「【殺意の具現、血染めの荒野】」


 ――男の笑みが、微かに曇った。


「【無情の戮者は鎌もて狂い、赫きでその身を濯ぐのみ】


 具象化するのは漆黒の棺、様々な武器が突き刺さり赤黒い血を垂れ流す、悪趣味な墓標。その権能は、凡そ“殺害”に関わることであればあらゆる手法によりそれを可能とする武装を複数内包し、展開可能とする武器庫そのもの。


 相手が何者であれ、殺すだけなら手段などどうとでも用意できる。それこそが、俺という存在の証明に他ならない。


「【存在証明】――【斑屍染めのデッドパーティー殺戮武器庫・トイボックス】」


 顕現した俺の醜悪な“星律”を見て、ガンツは顔を歪めた。落胆とは違う、脅威に思っているのとも違う。それは、どちらかというと……。


「……“カルマイアの英雄”の。それが、お前の“星律”なのか」


 悲しみ、だった。ともすれば泣きそうな表情で、男は棺を眺めていた。


 “星律”は、世界に承認された自分自身の在り方そのものを具象化し、展開する。そうであるならば、俺のそれは敵という敵を殺し尽くした果てにある屍の山の化身で間違いはないだろう。故にこそ、これが正しく俺そのものであると言えるのだ。


「……そうだ。これ以外に、あるものかよ」


 男は目を伏せ息を吐くと、苦笑した。


「そうか。……だが覚えておいて欲しい。お前に救われた人間は、確かにいるのだ。屍の山を築き上げようと、その一点は絶対に揺るぎないということを。それこそお前自身がどのように考えていようと、その行動が齎した結果までは変えようがないのだということを」


 動悸がする。ああ、また・・か、と。薄々と察してしまう。吐き気が込み上げ、視界がブレ、息が浅く、速くなる。ガンツはそれを見ても隙としては判断せず、ただ俺を待っていた。それが俺には、余計に辛かった。


 一頻りに整理をつけてから、長い息を吐く。問答は終わった。後はもう、いつもの通りに殺すだけだ。慣れたことだし、それこそ今更な話だった。


「『“劣剣”クロベルト』」


 先に動いたのは俺。“武器庫トイボックス”から錆びた長剣を引き抜き、両手で振り抜き駆け抜ける。横凪の斬撃をガンツは斧槍の柄で払い、斧の刃で絡め取った。


「『“散刃”テテュリア』」


 弾かれる双方の武装、その瞬間俺の展開していた“棺”から、ひび割れ尖った鉄塊が射出される。それはまともにガンツへ命中したものの、弾かれた。


「『詠唱発現キャストアウト』――『アヘナの一瞥』」


 懐から取り出した術式榴弾を投げ、炸裂させる。展開された魔術は“アヘナの一瞥”、その発現効果は“任意の対象の動作再現”。弾かれた鉄塊が逆再生するように再び男へ飛び込み、一歩踏み込んだガンツの胸元へ吸い込まれていく。


 そのままでは意味など無い。ガンツにもそれは理解できている。怪訝に眉を顰めつつ魔力を斧槍に収束、撃ち放つ構えに入った。


 指を弾く。


「!?」


 巻き戻った鉄塊が炸裂し、長い無数の棘となって男に襲い掛かった。突然の変化であったためガンツは多少面くらい、僅かに一瞬たたらを踏む。


 当然、これ自体にも絶対防御を前に効果は無い。だが相手が人間である以上、通常であれば致命打となりうる攻撃ならば何かしらの反応は引き出せる。男の前進と共に“星律”に打ち負け、砕けてゆく棘。それはつまり、全身くまなく覆われた無色の鎧をもって、敵が突き進んでいることを意味する。


 対象を選んでいるわけではない、ただ自分に展開して外界との接触を断つ能力だ。より正確に言うならば、槍の妨害を受けなかったことから“自身の行動を何によっても妨げられない能力”と判断できる。


「『聞こえているか』」


 故に、これ・・は効く筈だ。さりげなく、詠唱と同じように魔力を混ぜた言葉を漏らす。表情を、姿勢を、相手の視線を、呼吸を、最適な形に誘導する。


「――ッ、なっ」


 端的に、俺がその時とった行動は一言呟くただそれだけのことだった。だがそれだけのことでガンツの体幹がブレ、姿勢を崩す。


 彼とその外界を隔てる能力であるのならば、彼自身に直接作用する技術までは止められないだろう。姿は見えているし声も聞こえている、全てを完全に排斥しているわけでは無い以上、抜け道は必ずある。


「こんな搦手まで、あるとはなッ」


 よろけた体勢からの魔力砲は俺からズレた軌道で薙ぎ払われ、壁面が爆砕し土煙が舞いあがる。機関部まで貫通したのか、誘爆の破砕音が轟いて船体が揺れた。断続的に軋みを上げ、傾いてゆく。


「『炸裂剣』」


 俺は武器庫より黒い短剣を引き抜き、ガンツの足元へ投擲した。何かを察した男は後方に跳躍してそれを避けたが、それより先に短剣が炸裂する。


「ぐっ!?」


 足場を崩した。着地する場所がブレ、今度こそ足を滑らせる。


 ――故に、ここだ。この瞬間を待っていた。


「『“赫槍”アドゥラ』」


 “武器庫”から引き抜いたのは真紅の槍。魔力を流して込められた術式を起動し、間髪入れずに投げ付ける。


 何かあると察したのだろう。ガンツもまた斧槍を振るおうと腕を構え、魔力を注いで薙ぎ払う姿勢に移行した。熟練の戦士であるならば中空であれ対応はしてみせる。そのくらいは、読んでいる。


「『やがて果てにあるもの、誰しもが賜るもの』」


 真紅の槍の持つ効果は“投擲後最初に触れた物体の破壊”。そして、“触れるまではあらゆる術式を貫通する”。妨害を受けず単一対象を破壊可能な俺の切り札の一つ。


「『至上の厄災、逃れ得ぬ安息』」


 そのままガンツに当たれば俺の勝利だが、当たりはすまい。故に牽制として利用する。


 どう足掻こうと足が地についていなければ取れる行動は限定される。魔力砲の反動で逃れようとも、無理な姿勢に繋がるのであれば結局は同じこと。俺が相手に要求するのは思考から余裕を奪うこと。


「『知らず、恐れ、祈り捧ぐ諦観の末期』」


 次の手を考え続けるのは容易ではなく、ましてや高速戦闘中であれば殆ど反射的に動かねばらならない。それでも戦略を練り続けられるのが俺やガンツなど一線級の戦士だが、限度はある。俺の“星律ステラ・オーダー”は手数に優れ、能力もまた一つではない。


 絶え間なく攻撃を浴びせていれば、詠唱・・にまで気を配るのは難しい。


「『儚き現を、真理は刈り取る』」


 赤槍を、男は“星律”の展開する盾によって防御した。恐らくは最も硬いのが盾なのだろう。万全を期して身を守る、そのために回したリソースだ。当然のように槍は弾かれ、盾が再び逸れて俺との間に一直線の道が開ける。


 “絶対破壊”の槍と“絶対防御”の盾がぶつかったなら、優先権のより高い方が打ち勝つのは自明の理。その特性上、複数の能力に権能を分散する俺の“星律”では、真っ向からの戦闘で勝てはしない。――だが、海に小石を投げ入れるとて。さざなみくらいは立つものだ。


 直後。振り抜かれたガンツの斧槍から魔力の塊が迸る。爆発的な圧力が空間を歪め、エネルギーが物理的な視覚すら伴って爆風と共に畝り押し寄せる。当たれば即死、肉片の一片たりとも残らないだろう純粋な力の塊。それがただ俺のみを対象に、怒涛の如く猛り狂う。


「『詠唱発現キャスト・アウト──微睡みと叫喚のイネヴィタブル・抱擁デス』」


 そして、それが撃ち出されるのと詠唱が完了するのは、ほぼ同時だった。


 展開されていた魔術陣四枚が歯車のように噛み合い、虚空に浮かび上がる光の軌跡から黒い靄が滲み出す。靄は人間あるいは髑髏の苦悶の表情を描いては消え、もがくように蠢くそれは生者へと手を伸ばし殺到する。


 砲を撃った直後、最も隙の大きい瞬間のガンツへ。黒い靄は浸透した・・・・


「……ッ、……はは。よもやだな」


 頽れる。糸の切れた人形のように、男は地に落ちた。


 船体のどこかが爆発し、アラートが鳴った。軋み、割れ、振動と共に瓦礫が転がる。間も無く船は墜ちるだろう。世界の端で海の藻屑と散る。それはつまり、最後には何も残ることなく事象の地平へ消えて無くなるということを意味する。


「――何か、言い残すことはあるか」


 詠唱魔術“微睡みと叫喚のイネヴィタブル抱擁・デス”、その効果は“対象の死”。当たりさえすれば確実に殺せるが、そんなものはほとんどの魔術がそうだ。火球ですら当てさえすれば人を殺せる。


 “死”という曖昧なものを扱う難度、単純に高度過ぎて使用困難な術式、効果の過剰さから、廃れ、失伝した。俺以外で行使可能な魔術士は片手で数えられる程度だろう。単純に、需要が無い。


 他者の干渉を弾く無敵の鎧を持っていようと、それが十全で無く、当たるだけで必殺の魔術であるのならば。仮に他の魔術では擦り傷程度しか負わせられなくとも、問題無く対象を殺し切ることができる。そのための重複効果術式を持つ“赫槍”アドゥラであり、対象効果の相殺だった。


 故に、この男は死ぬ。それは避けようが無い。


「魔力放出技術には、自信があったんだがな……。どうやって、避けた……?」


「同質の魔力を調整して、弾いた。お前ほどの出力はとてもじゃないが出せないが、多少はできる。逸らすだけなら可能だ」


 ガンツは大の字に倒れながらくすりと笑った。衰弱していく男は急速に痩せ衰え、息をすることすら億劫になったのか、眉間に皺を寄せて大きく息を吸い、吐いた。同時に言葉を漏らす。その瞬間だけ、多少緩んだ表情になった。


「神業、じみているな。流石と言うべきか」


「……練習しただけだ。俺には特化したものが何も無い。剣も、魔術も、異能も、全て寄せ集めでその道においては二流もいいとこだ」


「くくっ、卑屈だな。全てを一流に多少及ばぬ程度で両立させられる人間など、一分野の頂点より余程恐ろしいものだが。誇るべきだぞ、どう取り繕ったところで、お前は本当の“英雄”なのだからな」


 再び、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。吐き気と寒気、泡立つ皮膚。フラッシュバックする多くの人々の顔、その憎悪、その絶望、その血、屍肉、臓物。息が荒くなり、何故今こんな場所でこんなことをしているのかがわからなくなる。


 そうだ。俺は生きていていい人間じゃない。救えもしないのに多くの人間を期待させ、救えもしないのに多くの人間を見殺しにし、救えもしないのに大言壮語を吐いては何もかもを裏切って来た卑怯者だ。今更日の当たるところに出ていい訳がない。


 親友を妬んで憧れた。誰しもを救う英雄に。だがなれなかった。功績だけ積み上がり、原点からして卑小な俺は、どうしようもなく捩じくれた悍ましい愚者にしか成り得なかった。


 だから俺は――。


「――まぁなんとなく察してはいそうだが、俺はお前に、“カルマイアの英雄”に救われた者の一人だ。娘の命を助けられた」


 ぽつりと、ガンツは口を開いた。


「俺の命より大事な娘だった。カルマイアに居る、と知った時には意識が遠くなったよ。あの絶望的な災禍に見舞われて、生きて再会できるとは思っていなかった。こんな状況で済まないが、本当に、言葉では足りんほど……感謝している。心の底からな」


 いつ崩落してもおかしくはない空に浮く船。遠い爆発は茫洋と、現実感を欠いて焦げた空気を肺に運ぶ。


「何で、今、それを言った」


 呻くように漏らす。噛み締める歯の軋む音がした。もはや覆らない自身の選択の結果を、目の前の男の末路を、今更ながらに……本当に今更ながらに、他の道もあったのではないか、と。


「今しか、タイミングなど無かったろう。そもそも義はそちらに――」


「違うッ、何でお前は“叛翼のアンヴェイルド・ドミニオン”なんかに居るんだッ!子がいて、それを想うことのできる人間がッ!何で非戦闘員一万の大虐殺を起こしたテロリストどもの一員としてそこに居るッ!!」


「もう死んだからだよ、娘は。奇跡のような生還の後、暴漢に襲われて呆気なく。……ただの下衆だった。再会し抱き合って、互いに嗚咽し、泣き疲れた娘が配給のパンを貰いに行って……それが今生の別になるとは思いもしなかったさ」


 息が詰まった。何でも無いことのように告げるその声は、既に全てを割り切ったが故の透徹さを孕んでいた。


 全てが、終わったことだった。もはや言葉に意味はなく、出来ることなど何も無い。


「だから、スヴェンカイドの誘いに乗った。この世の全てを操作し、森羅万象を見通すと言う“因果律・・・”――それを共に壊そうと言うのだ。……全てを操作するモノがあるのなら、それは娘の最期を定めたも同然だ。だからこれは、ただの復讐なんだ。道理は全く、正しくはなかったろうがな」


 自嘲するように、男は口の端を力無く吊り上げる。それに対し俺は言葉を紡ぐことができなかった。


「もうずっと、世界が精彩を欠いている。リネットは俺の生きる理由、その全てだった。娘が死んだあの日に、俺はきっと死んでいたんだろう。今の俺は娘と共に路地裏で絶えた亡骸で、それ以上でも以下でもないのさ」


 ――あぁ、と思う。これは呪いだ。届かないのにチラつかされて、だというのにそれが無ければ生きられない。


 そのようなものが無ければ俺は、俺たちはもっとまともに生きられたのだろう。だがそうはならなかったし、この先もきっと俺たちの世界は昏いまま、やがて何処かで人知れず、誰の目にも留まらず記憶にも残らず、ただただ打ち捨てられ消えてゆくのだろう。


 初めから何も与えられなければ。全て定められた通りに、与えられた無を噛み締める日々ならば。或いはこのような末路を迎えることも無かったのだろうか。


「……まぁ、全てが過去の話だ。道を踏み外した理由が何であれ、俺は倒れ、お前は立っている。生きている。なら、……言い残す言葉があるとするならば、そうだな」


 ガンツ・ベルドラスは息をゆっくりと、長く吸って、振り絞るように吐き、言った。


「進めよ、英雄。振り返るな」


 それが、最期の言葉だった。


 男はもはや何も語らず、ただ眠るように瞼を閉じて、横たわっている。自嘲するように、哀れに、そして情けなく。それは間違いなく俺に対して、かつ自分自身に対しても言った言葉だった。


 ……振り返れば、立ち止まるしか無いから。俺たちはそういう存在だ。どうしたところで消えない過去を、拭い去れない絶望を抱いたまま、前へ進む以外無い過去に生きた者たち。


 神に敷かれたレールの上で、踊るばかりの喪失者。不相応な願いを持った、愚かな道化の成れの果て。


「助けるべきじゃ、なかったな」


 ぽつりと漏らしてしまった言葉には現実感が無く、さながら他人事のようだった。それにどんな感情を乗せていいのかわからなかったし、どう感じるべきなのかもわからなかった。


 娘が最初から死んでいれば、ガンツは悲しみながらもまだ受け入れられたことだろう。俺もまた、あの日焼かれて死んでいれば、納得してこの世を去れていたことだろう。


 希望なんてものがあるからダメだ。人はどこまでも強欲で、愚かしくそして傲慢だから。手に届きそうなら伸ばしてしまう。それが本当はただの幻であっても、伸ばした手を下ろすことなど今更どうあれできはしない。


 背を向けて歩き出す。崩れゆく船体の中、振り返ることもせず。背後に瓦礫が落ち、轟音と共に道が埋まっていっても歩みを止めず進み続けた。


 その先。


「遅かったね。やはり君でも彼は手間取るか。惜しい人を失った」


 開かれた魔術の門の前に、黒い外套を纏い道化師の面を被った男が立っていた。フードと仮面により、その表情までは伺い知ることができない。だが俺のことを待っていたのだろう。わざわざ待ち構える理由が、他にない。


 既に立ち去った後だと考えていた。転移門を用意しているであろうことは考慮の上、今ヤツを取り逃してでもガンツを殺しておく必要があると考えたのは俺だ。魔術での転移は術式にもよるが飛んだ先を調べるのは難しくない。拠点をひとつ潰せるなら御の字、くらいに考えていたが、これは……。


「何の用だ、ユーイン・スヴェンカイド」


「話がしたくてね。君は、何のために戦うのかな、と」


 仮面の男はその仮面と外套に隠され、思考が読めない。暗い部屋、空間が捻れ奇怪な色彩を放つ魔術の門を背に立つユーインは、両手を広げ、あくまで親しげに続ける。


「誰かのために戦う、結構なことだ。滅私の精神と崇高な理念、気高い魂が無ければ成し得ない。万人が他者のために生きられるならこの世界は素晴らしいものだったろう。だがそうでないということは、人間は本来、そのように生きられないということだ。――当然、君もそうだ、ヴァンクラッド・アンレイズ。君は、“普通”の側の人間だろう」


 後退り、しそうになる。感情を殺す術は持っている。技術は高めた。覚悟もあり、身体はそれについてくる。必要なら動けるし、動いてしまうようになっている。――だがどうあっても目標を達せられないことを理解している時、俺はそれでも尚動くことができない。無駄だと心底理解しているから、そういう時には奥底に封じた本性が漏れる。


 ユーインはもう殺し切れない。転移の術式が成立済みで、恐らく媒体であろう門は術者が潜ると潜らないとに関わらず本人の意思一つで特定地点に彼を送りつける筈だ。


 だから無駄。情報を集めるにせよ、この男はそう易々とは口を割らない。今この場にいるのは無意味。だがだからこそ、語り掛けられた言葉は俺に届いてしまう。


「君は、どうしようもない事態を前にも諦めず立ち向かうような気質を持っていない。見返りを求めず、自らを顧みない、そんな意思も、道理も持たない。だがそれでも、そんなヒーローの真似事じみたことを続けている。疑問にもなってしまうさ、何故?とね」


「……お前と会ったのは初めてだし、会敵早々首を取りに来たような人間だぞ、俺は。何でそんなことが言えるよ」


「有名人だからね。カルマイア戦役での活躍は知らないものなどいない程だけれど、そこまで行かずとも“赫公”討伐に魔人都市解放、南方戦争終結に新大陸調査拠点の確立、細かなことなら数知れず……ああ、“覇龍”討伐も君だったね。これだけの偉業を僅か四年の内に成し遂げて来たんだ、全てを捧げて戦い続けなければ単純な話無理だろう。捧げたところで君以外に出来たとはとても思えないが、とにかく」


 ……随分と調べ上げたものだ。地域によっては俺の話など食い違うことも多い。転移魔術などという超高等魔術を保有していることからしても大きな組織であることは把握しているが、ここまでとは考えていなかった。男が語った言葉は全て、当たっている。


 “叛翼アンヴェイルドの輩・ドミニオン”はその来歴に謎が多く、目的も曖昧で、どこまで根付いているのかも実態は掴めていない。ここでその首領と直接会話できることに価値はある。だが、――その言葉は俺にとって毒だ。


「戦歴を聞いた時に抱いた印象と、君本人を前にして抱いた印象に食い違いが大きくてね。確かに私たち“輩”を殺そうというのは聖王庁からすると当然だが、不思議にも思ってしまうよ。“君”はどうして戦うのかな?」


 ――どうして戦うのか。それを突きつけられる度に、俺は直視できないその原点を意識させられる。その悍ましい性根と、そのせいで生まれた数え切れない絶望と、それらの末路をまざまざと。


 ある所に、魔物に包囲された村があった。それに後先考えず飛び込んで村人を解放し、喝采された愚者がいた。愚者がその村を離れた時、村を餌場として認識していたサイクロプスが怒り狂って村人たちを皆殺しにした。戻った時には全てが遅く、花飾りをくれた少女の上半身が鴉に啄まれる様を前に、ただひたすら立ち尽くすことしかできなかった。


 ある所に、悪い魔術士に支配された街があった。逆らう者には死を、癇癪で死を、機嫌が良ければ娘が攫われ、翌日川に流される。義憤を燃やした英雄気取りは魔術士を倒し、街は喝采に包まれた。だが魔術士が自身の支配地を守るため間引いていた魔物が溢れ、やがて街人は全て食い荒らされ死に絶えた。戻った時には全てが遅く、尊厳の全てを奪われた亡骸を前に、ただひたすら立ち尽くすことしかできなかった。


 ある所に、ある所に、ある所に――。全部俺だ。“聖剣使い”の英雄に憧れた、俺のどうしようもない自己満足が生み出した惨劇だ。いや憧れなどという高尚な言葉で飾るべきではない。


 これは嫉妬だ。愚かなガキが、愚かな自意識が生んだ、悍ましい地獄だ。


「うっ、……ぉエッ……」


「察するに、罪滅ぼしか。あれだけの数の事件に首を突っ込んだんだ、背負い切れない業の一つや二つはあるのかな。それすら糧にして進んでいくか、そんな不手際を起こさないか……ヒーローにはそれが必要だったが、君は、悲しいかなそうではなかった。それなのに、進んでしまった」


 男の洞察力は心を読んでいるかのように高く、傷口をただ深く抉り続ける。あるいは俺が身の丈に合わない望みさえ抱かなければ、あんな末路には至らなかったのではないか。とめどなく溢れ続ける後悔が、どうしようもない過去が、逃げても逃げても振り解けない。


 屍人の腕が縋り付く。何故、お前だけ生きている、と。


「――救いが欲しくはないかい?」


 だから、ガンツ・ベルドラスという男が如何にして外道に与したのかを、俺はよく理解できた。ああ知っていた。そんなことだろうと。そして、それが、どれ程俺たちのような人間にとって魅力的な誘いであるかということを、俺は既に十分過ぎるほど理解している。


「君が選んだその道も、君が拾ったその絶望も。全て尽くに定められていたことだ。星の深く奥底に座す、愚かで哀れな簒奪者の敷いた理こそが君の苦難の原因だ。君がどれだけ足掻こうとも、それは世界の理に影響を与えることはできないし、救えないと定められた存在が救えることも、ない」


 全て自分ではなく、そんな環境を生み出した世界が悪い、と。その理屈が正しければ、俺はどれほど救われたことだろうか。本当にこの男が言う通りに全てが仕組まれたことだとするならば、俺がどれだけ救おうとしたところで救われなかった彼らの運命が変わらないのだとすれば。


 彼らが惨たらしく死んだところで俺には関係がないと、そのように割り切ってしまえるのだから。


「因果律だ。万人に接続された人の世を定める絶対の法が、我々の生きるこの世界には存在する。差別も、貧困も、憎悪も、絶望も、戦争も、飢餓も、支配も、死でさえも、あらゆる苦難はデザインされ、魂という単位でもってその総和が調整されている」


 男が一歩を踏み出す。


「今を生きる個人には関わりのない業によって、死ぬべき時、死ぬべき理由、死ぬべき因果が定められている。君は悪くない。君は善いことをした。誰かを救う行動が過ちである筈がない。結果がどうあれ善行を成したというのであれば、その末路の惨状を責められるべきは君ではない。――神だ」


 手を差し伸べ、語る。仮面の内はわからない。この男が何故それに拘り、俺を導こうとするのかもわからない。


「共に、世界の正しい在り方を取り戻そう。私たちは、“叛翼アンヴェイルドの輩・ドミニオン”は、そのためにこそ存在する」


 だがそれは、その胡散臭さを差し引いてなお魅力的な提案に思えた。全て自分のせいではなかった。全てを糸引く悪魔がいる。俺の苦しみには理由があって、俺はただひたすらに善いことをして、選択は正しかった――。


 ナイフを手に取る。


「だから、何だって話だ」


 挑み掛かるように睨み付ける。切り裂いた感触は無い。ただふやけたようにユーインの像がナイフの軌跡から順に解け、粒子となって消えてゆく。転移術式の履行だろう、切ったところで意味など無いというのはこういうことだ。既に本体は去っている。


 救いなど、いらない。俺は俺の意思で勝手に絶望し、俺の意思で勝手に贖い続ける。勝手に英雄を目指した俺は、どこか誰も知らないところで勝手に一人で野垂れ死ぬ。既にそう生きると、決めている。


 くすり・・・と、微かに笑う気配があった。


変わらないな・・・・・・、君は。なら僕は待つとしよう。やがて来る、約束された破綻の日まで」


 その残響が崩落の轟音に掻き消され、深い闇に呑まれ消えてゆく。それを眺め、ゆっくりと胸に閊えた空気を吐き、長い長い息を漏らす。瞼を閉じ、一秒数えて開き、舌打ちをひとつして切り替えた。


 男の行き先だけ確認しその場を離脱した俺は、脱出用のボートを接収して指定ポイントへ向かい、輸送艇に合流。爆発と共に海へと落着、沈み、そのまま“世界の端”へと落ちてゆく“叛翼の輩”の船を、何ともなしに見送る。


 俺は、切り替えることができる。苦痛を、後悔を、悲嘆を、絶望すらをも。リセットして、迷いなく最適な行動を取ることが出来る。効率だけを突き詰めて、感情を、意思を、あるいは意志を全て捨て、その場で最も割りのいい行動を実行できる。


 だからここまでやって来れてしまった。一介の凡夫から、救世の英雄にまでなってしまった。分不相応の肩書は現実感も無いまま両肩にのしかかり、全身を苛んでは責任ばかりを問い掛ける。


「わかってる。助けるさ。誰彼見境なく、自分の身も顧みないで、最期の最後まで英雄モドキをやってやる」


 それが、ここまでやって来たことの責務だろう。逃げた所で俺は役目から逃げ切れない。聖杯剣の二振り目も遂に俺を選ぶことはなかった。もはや嫉妬の原点すら曖昧で、何に憧れてしまったのかも定かでは無い。


 だが逃げて逃げて逃げ続ける俺は、せめて、苦しむことだけは受け入れねばならない。それが、身勝手な救いを振り撒いた末、耐え切れなくなって死んだように生きる愚者への罰だからだ。


「終わらせてくれよ、誰でもいいから」


 だからいつものようにそう呟いて、瞼を閉じる。暗く羽音の煩い飛行艇の中はがらんどうで、その言葉は誰に届くでもなく空虚に闇に溶け、消えてゆくだけだった。

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