第30話
「じゃあまた、大学でね」
店を出ると、田代は機嫌よさそうに片手をひらひらさせた。
「はい。ごちそうさまでした」
この会食のせいで正直ありえないほど疲れていたが、おごってもらった手前お礼を言う。田代と優実は再び腕を組んで、仲睦まじく去っていった。
「俺たちも帰ろう」
堅羽が顔を向けると、充はひどくぼんやりとした表情で立ちつくしていた。その視線は、田代と優実が消えていった方向にじっと向けられている。
「充?」
名前を呼んでようやく、充はおもむろに顔を上げた。グレーがかった瞳が一瞬、ふわりとゆらめく。今日はなんだか、どことなく様子がおかしい。大丈夫だろうか。
蠢く人混みに飲まれながら、堅羽と充は横に並んで歩いた。首筋に伝った汗を拭う。信号や街灯、通り沿いの店の灯りが、道行く人々の顔を照らしている。
「堅羽」
それはとても小さな声だった。返事をする間もなく、右腕にひんやりとしたなにかが絡みついた。ちらりと視線をやると、充のつむじがすぐそばにあった。
腕を組んでわずかに体重をこちらに預けた充は、それでも目は合わせず、なにも言わず、ただただ足を動かす。充の腕と自分の腕が、だんだんと同じ温度に変わっていく。
「……充」
「なに」
「腕、」
「うん。腕がなに」
堅羽はぐっと押し黙って、視線を足先に向けた。視界の隅に、前から歩いてくる人々の顔が映る。サラリーマンや女子大学生が時々、「あ」という顔をして視線を逸らす。
腕が、なんなのだろう。俺はこの腕を離してほしいのだろうか。じわりと心をほぐすこの温く確かな熱を、自ら突き放したいのだろうか。
例えばもっと色々な余裕があったとして、『俺は四月の牧野の誘いにのっていただろうか』と時々考える。答えなんてわかりきっているのに、ずっと認めることができずにいた。
彼女なんていらなかった。だって自分の『大切な人』の枠は、どうあがいても埋まっていた。心ない恋愛が相手を傷つけることは、母の姿を見れば明白だった。
でもどうしても、それが正しいことなのかわからなかった。『普通』から外れてしまった自分をいざ目の当たりにしたら、目の前の現実がすっと遠ざかるような心地がした。
――まったく、そういうことなら早く言ってくれればよかったのに。
「そうだ。堅羽、あのね、」
どんなことでも、誤解されるのは居心地が悪い。でも「違うんです」なんて、訴えて回ることなんてできない。伝えたところで、いったい何人の人がわかってくれるのだろう。
二人きりならよかったのだろうか。ここが、二人だけの沙漠だったら。あの古びた喫茶店のように、ただありのままでいられる沙漠だったら。
「俺んちのサボテンがね、」
自分と話す時、充が少しだけ舌っ足らずになることに、堅羽はちゃんと気づいている。六年前の野生動物のような視線を思い出せば、どこまでもどこまでも微笑ましかった。
この他愛のない話をずっと聞いていたい。薄い背を抱きしめてやりたい。会えなければ寂しい。本当はもっと一緒にいたいし、一緒にご飯を食べたい。
月を綺麗だと思うのと同じようにそっと、月を見上げる横顔を綺麗だと思った。それはおかしなことだっただろうか。恋でなければ、思ってはいけないことだっただろうか。
「もうすぐ花が咲くんだって」
もしこれが恋だったら。
「……堅羽?」
俺はこの柔らかい黒髪に、迷わず触れることができただろうか。
「ごめんね」
ピタリと足を止めて、充がこちらを見上げた。いつの間にか、大きな通りを抜けていたらしい。目の前の路地に広がる闇を、白い街灯がぽつぽつと照らしている。
「嫌だったね」
瞳が陰る。熱が消える。藍色の闇に紛れて、白い指先が遠ざかる。掠れていく懐かしいシャンプーの香りに、もう耐えられないと思った。離れていく掌を柔く握っていた。
「嫌じゃない」
嫌じゃないんだ、全然。
こちらを見上げた充が「よかった」と微笑んだ。じわりと目の縁に迫る涙を必死でこらえて、堅羽もなんとか笑い返す。充はやっぱり、それ以上はなにも言わなかった。
恋人も、家族も、友人も、彼への気持ちの前では全てがちぐはぐだった。そのくせ一緒にいたいという願いだけが確実で、得体の知れなさに口を閉ざした。
俺だって言葉がほしかった。広い沙漠ではぐれないための言葉が。
――でも智戈は充くんのことが大好きだから、仕方ないか。
素直に無邪気にうなずけたら、どれだけ幸せだっただろう。でもそうするには、あまりにも色々なものが混ざり過ぎていた。それでいて、ほしいものだけが見つからなかった。
残念ながら、これは恋じゃない。そんな甘いものじゃない。もっとどろどろとしていて、沼のように深くて、底が知れない。それでいいと――思っていたのに。
卒業旅行に行った。桜の季節が過ぎた。充の髪が伸びて、梅雨が明けて、夏がきて。そんな風に季節が移ろうから。少しずつ少しずつ、世界が変わっていくから。
ただ心のままに一緒にいるということが、こんなに難しいなんて知らなかった。形がないということが、こんなにも苦しいなんて思わなかった。
「……俺もさ、買ったよ」
「なにを?」
「サボテン」
「えっ、そうなの?」
ぱっと声を弾ませて、嬉しそうに充が言った。小さくうなずいた堅羽の目に、自分が渡した腕時計が飛び込んでくる。茶色いベルトは、渡した時よりも少し、くたびれて見えた。
ちゃんと使ってくれているのだなと思って、ひそかに安堵した。大事にしてもらえているだろうかと考えて、懐かしい早春の陽だまりを思い出す。
「花が咲いたら教えて。あ、でも、咲くのと咲かないのがあるんだって。堅羽のはどっちだろう」
「さあな」
「なんていう名前?」
名前なんて忘れた、と答えると、充はつまらなそうに唇を尖らせた。蒸した空気に満たされて、辺りは驚くほど静かだった。
まるで世界には、二人だけしかいないかのように。
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