第24話

「ねー、充くん元気だった?」

 道中カフェで休み、すっかり元気を取り戻した母が、アパートへと続く細い路地を歩きながら言った。ふんふん、と機嫌よさそうな鼻歌が続く。

 キャリーケースもパンプス入りの袋も途中で寄ったスーパーの袋も全て持たせて、母は歩く。少女のように軽やかに両手を振りながら。

 か細い後ろ姿を眺めていると、ぴゅうと肌寒い風が吹いた。空気のにおいが変わる。木々のざわめきが大きくなる――泣き出したいのは、空か自分か。

「元気だったよ。よくやってた」

「そう。よかったじゃない」

「……うん。よかった」

 少しだけ嘘をついた。やっぱり自分も母の子どもなのだなあと妙に納得する。充と母と自分、三人まとめて親子だったら、さぞかし大変に違いない。

「ふふ。でも智戈は少し、寂しいんじゃないの」

 いつの間にか母に追いついていた。立ち止まってこちらを覗き込む大きな瞳が、充のものと重なる。鶏が先か卵が先か。なにもこんなところまで似なくたっていいじゃないか。

 泣き出したいのは、やはり俺の方だったか。

 ぽつ、と指先に水滴が落ちた。「ひゃあ」と悲鳴を上げて、母は自分の両手で頭に小さな傘を作った。

「智戈のアパート、どこ? 後何分?」

「この道まっすぐ! 三分くらい」

「オッケー、走るわよっ」

 堅羽の手から袋類を全てひったくって、母は駆けだした。スニーカーの中身が血だらけだとは微塵も感じさせない、見事な走りっぷりである。

 堅羽は無意識のうちに、四月にぶつけた右のこめかみを触っていた。あの運動神経をどうにか受け継ぎたかったものだと感心していたせいで、二歩も三歩も出遅れる。

 近年頻繁に見られるようになった局地的な豪雨は、たった十五分で街の雲を全てさらい、世界の彩りを変えてしまった。母は逃げ切り、堅羽とスーツケースはびしょ濡れになった。

 堅羽がシャワーを浴びて部屋に戻ってくると、母はまだ冷えきっていないであろうビールを片手に窓から身を乗り出して、外の景色を熱心に眺めていた。

「母さん、危な、」

 母の身を引き戻そうと伸ばした手が、思わず止まる。黄金の夕焼け空に、大きな虹がかかっていた。道路の水たまりが、ビルの窓が、車のルーフが、ちらちらと眩い光を放つ。

 吹き込む風は青くささを感じさせる湿っぽい香りをまとっていた。隣で瞳を輝かせる母の顔を見れば、堅羽はやはり、どうしようもなく泣きたくなるのだった。

「……ごめんねえ」

 息子の涙に気づいた母が、細い指先を伸ばしてくる。鋭いネイルの横を上手く使って、堅羽の頬を傷つけないように優しく、柔く、水滴を拭い去る。

「バイト、辛いよねえ。遊びにも行けないんじゃ、友だちもなかなかできないでしょう。私結局、いつまでもあなたのこと、縛ってばかりね」

 母の目にもじんわりと涙が滲んだ。下まぶたの縁にしばらく溜まっていた水滴は、母がまばたきをすると、長いまつ毛を伝ってはらりとこぼれた。

「あとちょっとだからさあ。ごめん。ごめんね。ほんとに、ほんとうに」

 ごめんなさい、と声がくぐもる。ゆるくカールがかかった長い髪に隠れて、その顔が見えなくなる。

 俺は、謝られるよりも――。

 小さくつぶやいて細い肩をそっと抱くと、「そうだったわねえ」と言って母は笑った。鼻先を掠めるビールの香りが、ひどく懐かしく思えた。


「なんで東京来たの?」

 フライパンに具材を放り込みながら堅羽が尋ねると、母はいじっていたスマートフォンから顔を上げてこちらを見た。

「遊びに来たの。あとは、あなたに会いに」

 そこは「あなたに会いに」の方だけでよかったんじゃないのか。そう思いながら、堅羽は小さく笑う。変なところで嘘をつくくせに、これまた変なところで正直な人なのだ。

「いい匂いがするねえ」

 いつの間にか近づいてきた母が、二缶目のビールを片手に手元を覗き込んでくる。「髪、燃えても知らないけど」と忠告すると、わざとらしく悲鳴を上げて逃げていった。

 ――いい匂いがするからさあ。

 鶏が先か卵が先か。本当はどっちなのだろう。どっちでもいいような気もするし、よくないような気もする。ただ一つ言えるのは、いなくならないでほしいということだ。

 どっちでもよくても、どっちでもよくなくても、どっちでもいい。どっちでもいいから、どうかいなくならないでほしい。

 少し伸びた髪と、窓際のサボテン。いつの間に自分でミルクティーを淹れられるようになったんだろうと考えて、淹れられないわけないよなと苦笑する。

 心の底にしまっておいた箱から物音がする。自分はいつまで聞こえないフリができるだろうか。もしその箱を開けたら、最後には本当に希望が残ってくれるだろうか。

 そうやって生まれた疑問もやはり、堅羽は鍵付きの箱にしまい込んで、心の奥底に沈めるのだった。

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