第20話

 次の日の朝、堅羽は隣から聞こえる身じろぎの音で目を覚ました。足元側からベッドを降りようとする充を見上げると、寝癖ひとつない黒髪といつも以上に白い顔が目に入った。

「ごめん、起こした?」

 困ったように眉尻を下げて、充が言う。堅羽は大きくあくびをしながら、『気にするな』という意を込めて首を左右に振った。

「どこ行くんだ?」

「トイレ」

 充は答えて、つられたようにふわりと小さくあくびをもらした。足早にベッドを抜け出す薄い背に、ぼんやりとした意識のまま声をかける。

「戻ってこいよ」

「えー」

 「せっかく起きれたからなあ」と笑って、充は部屋を後にした。階段を降りる足音を耳で追う。なんとなく体が重くて、起きる気になれない。

 カーテンの隙間からうっすらと朝日が差し込んでいる。その光を眺めているうちにふと、見たことのないカラーボックスが部屋の隅に置かれていることに気づく。

 よくよく見れば、薄暗い部屋は以前よりもだいぶ整理されていた。謎の箱や骨董品が全てなくなり、サボテンの鉢が三つほど、東側の壁に沿って並べられている。

 自分の知らないことが増えていく。充も、この家も。

 次に会えるのはお盆過ぎか、九月頃になるだろうか。

「堅羽はやっぱり、まだ寝るの」

 戻ってきた充は片手に文庫本を持っていた。ページをめくりながら歩き、カーテンと窓を静かに開け、ベッドフレームに背を預けて床に座る。

「今日はどうする?」

 歌うような問いかけが堅羽の鼓膜を揺らした。

「どっか行く?」

「充はどうしたい?」

「俺はどっちでもいいかな。特に新しい店ができたって話も聞かないし」

 この辺りには地域住民向けのカフェや食事処が点々とある。堅羽のお気に入りは、中学の頃にできた手打ちそばの店だ。もう少しごろごろして、お昼に出かけるのも悪くない。

 ああ、でも。

 レースのカーテンを押し上げて、網戸からすっきりとした風が吹き込んでくる。耳を澄ませばどこからか山鳩の声が聞こえてきて、手の届くところに人の温もりがある。

「おーい、どうするの?」

 こちらを振り返った充の顔に、体を丸めて後頭部を寄せた。おずおずと伸びてきた指先に、昔、仕事から帰ってきた母親が、毎朝頭を撫でてくれていたことを思い出す。

 スナックで働く母の帰宅は、いつも明け方だった。玄関の鍵が開く音で目が覚める時もあったが、幼い堅羽はそんな日も、寝たふりをして温かな指先を待った。

「今日は家にいよう。どうせ夕方は風呂に行くし」

 穏やかな調子でそう言って、充は自分の文庫本に戻っていった。


 夕方、いつも通り銭湯春日峰に出かけると、東の空に丸くて大きな月が見えた。帰る頃には月は更に高く上っており、透きとおった白い光で地上を照らしていた。

「綺麗だねえ」

 家の前の細い路地で立ち止まって、名残惜しそうに充が言った。ガラス玉のように光を反射する瞳は、ただ一心に月を見つめていた。

 暗闇に滑らかな頬が浮かび上がっている。まばたきをするたびに長いまつげが震える。あっさりとした鼻筋と、そっけないほど薄い唇。小さな顎から続く首筋はどこまでも白い。

 こういう時、時が止まればいいのにと堅羽は思う。それはとても静かな感情だった。燃え上がりも、燻りもしない。ひたすら穏やかに優しく、心の隙間を満たしていく。

「もう少し歩こうよ」

 ぱっとこちらを振り向いた充に、堅羽は「いいよ」と答えた。

 一度家に入って荷物を置いた。銭湯春日峰に続くのとはまた別の坂道を、二人で肩を並べてゆっくり上る。

 ――月の、沙漠を。

 充がふと、懐かしい歌を口ずさんだ。広い沙漠をいく二人ぼっちの物語が、ぽつりぽつりと紡がれては地面に落ちる。


 おぼろにけぶる月の夜を

 対のらくだはとぼとぼと


 選んだ道が悪かったのか、月は建物や木の陰に隠れていつまでも見えなかった。ぬるい夜風がふわりと吹いて、どこかから花の香りを運んできた。

「充」

 こぼれた呼びかけに、メロディーが途切れる。柔らかい黒髪をなびかせて、目の前の青年がゆっくりとこちらを振り返る。

「なに?」

 その問いに答える言葉を、堅羽は持ち合わせていなかった。「なんでもない」と小さな声で言えば、ふっと気の抜けた柔らかい笑い声が耳朶に触れた。

「明日は何時の電車?」

 事前に調べた時刻を思い出し、答える。充は「そう」とそっけなく相づちを打ち、立ち止まった。少しの沈黙。やがてくるりと踵を返して、うつむきがちにつぶやく。

「もっといればいいのに」

 恋人でない堅羽は、その背中を抱きしめることができなかった。

 家族でない堅羽は、「離れていても大丈夫だ」と言い切ることができなかった。

 言いたいこともやりたいことも泡のように弾けて消える。無言の堅羽をもう一度振り返った充は、あの透明な、見透かしたような瞳でこちらを覗き込んで、薄い唇を歪めた。

「言ってよ。『また来る』って」

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