君は群青
猫ざらし
1日目 漂着とペン
砂浜には、二つの足跡が伸びていた。
頭上の空は、夏を丸呑みしたように青く冴えている。そんな清々しい青空とは正反対の暗澹さで、私は砂浜に屈んでいた。
「缶、缶、ペットボトル、海藻」
呟きながら、砂浜に打ち上がった無数の漂着物をひとつひとつ、丁寧に選別する。
砂浜のゴミ拾いをしているわけではない。これは慈善活動などではなく、生死を分ける、死活問題なのだ。
「ペットボトル、缶、ビン……ビン!!!」
ようやく見つけた。私は、眩い輝きを放つガラス瓶を、宝を掲げるように持ち上げる。
「ビンありましたー!!!」
それはもう一人の、私と同じく死活問題を抱えた少女に向けての叫びだった。
* * *
最後に見た景色を思い出す。
それは、今と同じ青だった。空の青だったのか、海の青だったのか。その境界はひどく曖昧だった。押し寄せる青藍の中に、私は煌めく光を見た。
市浦女子高等学校の修学旅行は、東京都の沖合120kmに浮かぶ、人口5,000人程の島だった。三泊四日で資料見学や自然学習を行い、島にまつわる文化を学んで帰る。それだけの行程だ。
私立にしては華がないと、生徒からは不評だった。
だけど、出立までは散々文句を言う学生たちも、いざ出発となるとはしゃぎ出す。そんな所が、私は嫌いだった。
「すごい!クジラとか見えるんじゃない?」
見えるわけないじゃん。東京近郊の海でクジラに遭遇できるのは、小笠原諸島近海だけだ。ここからは、100km以上も離れている。
展望デッキの日陰で風に当たりながら、白波が立つだけで歓声をあげる同級生に、毒吐く。
明確な何かに不満があるわけではない。それでも、何かを思わずにはいられなかった。
同じ年に、同じ地域に生まれたというだけで、一つの箱に寄せ集められる。それだけの軽薄な関係の筈なのに、まるで一生の友達みたいな顔をする。見ているだけで恥ずかしいと、甲板で写真を取り合う同級生から、目を逸らす。
船内は、二分されていた。おしゃべりやゲームに興じる集団と、居眠りする生徒。それ以外の人間は、まるで晒し者のように、注目を浴びる。そんな異様な空気は、教室の中だけで十分だった。
逃げるように、大自然に助けを求めて展望デッキに出てみた。だけど、逆効果だったらしい。
展望デッキには、求めていた清涼感はなく。ただ、日常の地続きが凝縮されていた。
何も、満たされない。満たされないどころか、風に乗る日焼け止めと制汗剤の匂いが、息苦しい。
船内に帰ろう。
立ちあがろうとして、大自然の恩恵に預かろうとした人間が、もう一人現れた。
「松門さんも、酔っちゃった?」
私とは、事情が違うらしい。隣にしゃがんだ生徒が、伺うようにこちらを見る。その顔は、どこか青白い。
「いや、私は別に……」
「そっかぁ。松門さん、乗り物強いんだねぇ」
「………………。」
沈黙。気まずい。気まずさの原因は、間違いなく私にあった。だからこそ、尚更気まずい。
現れた彼女は、竹木美月。名前の通り、月みたいに横顔が綺麗な同級生だ。
「……水、貰ってこようか?」
「へいきへいき。薬飲んできたから。」
そうですか。では失礼します。そう言って立ち去りたくなる気持ちをぐっと堪えて、どうにか留まる。
竹木さんは、私が苦手とする部類の人だった。何でもできる癖に、何もできないフリをする。それなのに、私みたいな奴にも、気さくに接する。だから苦手なのだ。
教室という窒息しそうな空間で、限られた酸素を独占する集団。その集団の、輝かしいメンバーの一人である竹木さんは、日陰でもぴかぴかと光っているように見えた。もちろん、実際に点滅しているわけではない。ただ、隣りに座る私の陰気さが、一層際立つように思えた。
結局のところ、私の鬱屈とした思いの大半は、嫉妬なのだ。それがわかっているからこそ、竹木さんのようにどんな場所でも軽やかである人間とは、なるべく距離を取りたかった。
「お邪魔だったかな?」
「いや、別に……」
「よかったよかった」
私は苦手でも、相手にとっては違うのだと、当たり前のことを改めて認識する。
「ここ、気持ちいいね。」
猫のように目を細めて、竹木さんが笑った。
栗色の髪が、海風を軽やかにする。
散らばった前髪を耳にかける様子が、あまりにも眩しくて。もっと眩しいはずの海面に、視線を逸らす。
落ち着かない。逸らしながらも、横目で様子を伺う。
竹木さんは、夏の入り口のような青空を、じっと見上げていた。竹木さんが何を考えているのかは、窺い知れない。隣にいるのに、地球の正反対にいるような気持ちになる。
「おーい!具合大丈夫ー?」
先ほど甲板で写真を撮りあっていた集団の一人が、こちらに手を振った。もちろん、私にではなかった。
「大丈夫ー!」
大声で返す竹木さんは、先ほどの空を見上げる姿とは別種の鮮やかさを放っていた。
「わたし、もう戻るね。松門さんは?」
「もう少しここにいる。」
「そっかぁ、またね。」
竹木さんがいなくなって、甲板に喧騒が戻る。人と話をしていると、周囲が静かに感じるのは不思議だった。
「……戻ろう。」
甲板の階段を降りる。途中、遠くの海面に飛沫があがったような気がした。
クジラなんて、この海域にいるはずない。そう思いながらも、海の方に引き寄せられる。身を乗り出した。
客船は安全だ。身を乗り出しても海に落ちることはない。そう、計算されているはず。
「あ、」
どんと、乗り出した体が揺れる。波に煽られた船が、わずかに揺れたのだ。ふらついた生徒の体が、私にぶつかった。
「うそ」
不意に、手すりが手の平から抜ける。重力も同時にその手を離れた。反転した視界に、搭乗時に見た白と青の船を見る。視界に映ったということは、離れたということで。
焦燥する間もなく、青と黒の混濁に、視界が飲み込まれた。
息ができない。鼻や口から、水が入る。苦しい。海面はどっちだ。
空が遠い。離れていく海面に、自らの最後を悟る。
悠々と揺れる紺碧。褪せていく意識の最後。その真ん中で照らす金色の輪に、私は手を伸ばした。
気がつくと、私は知らない砂浜に打ち上げられていた。当然制服は海水でべちょべちょで、それ以上に自分が生きていることに驚く。
そして、もう一つ驚きだったこと。それは、自分ともう一人。この砂浜に流れ着いた少女がいたことだ。
「おっはよ〜」
溺死しかけたことが嘘のように、緩く笑う少女。それは、先ほど甲板で言葉を交わした、竹木美月であった。
こうして私、松門蓮と竹木美月は、晴れて(?)無人島に漂流してしまったのである。
* * *
「できた!」
拾ったビン、ドラム缶、ホース、そして焚き火で作成した蒸留装置は、しっかりと機能した。
体内時計頼りだけど、10分程でコップの三分の一くらいの水ができている。このペースなら、女子高生二人が生きるのには、十分足りる。
「すごーい!」
竹木さんが、蒸留装置の隣にしゃがみ込んで、目を輝かせる。
彼女は、竹木美月。船から落下した私を助けようとして、海に飛び込んでくれたらしい。ところが、彼女自身も溺れてしまい、二人仲良く無人島に流れ着いたというわけだった。
その話を聞いたとき、感謝や罪悪感よりも、まず驚きだった。クラスは同じだけど、殆ど話したこともなかったし、正義感に動かされるようなタイプには見えなかったから。
関わりのない私が、それも命の恩人に対してそんなことを思うなんて失礼だけど。
「水ができちゃったらもう、あれだね。無人島攻略したようなもんだね。」
「全然ですよ。住めそうな洞窟は見つかったけど、まだ食料が無いし。あと、でっかいSOSを作るのと、何か脱出に役立つものも見つけないと。砂浜にも狼煙を用意して、できれば島の四方にそれぞれ」
しまった。つい、早口になってしまった。はっとして、竹木さんの顔を見る。竹木さんは私の動揺なんて気にもせず、白い砂浜に、木の枝で猫の絵を描いていた。
「まあまあ。のんびりいこうよ。無人島は逃げないって。」
何だそれ。
竹木さんは、漂流した人間とは思えないほど、落ち着き払っている。怖くはないのだろうか。
「竹木さん、もしかして無人島に漂流したことあるんですか?」
「あはは、初めてに決まってるじゃん。」
竹木さんが、ピースする。その笑顔から、私は目を逸らしてしまった。
「お?どしたどした?」
「何でもないです。食料探しに行きますよ。」
笑顔を見ると、自分が笑われているような気になる。何か変なことを言ってしまっただろうか。そう思って、不安になるのだ。
竹木さんは、人を見下すような人ではない。
分かっている。分かっているのに、一度染みついた思考の癖は、教室から無人島に場所を変えたくらいでは、簡単には抜けなかった。
「すごい美味しいもの、見つかっちゃったりして。」
「一番集めやすいのは貝、それから果物、野草です。キノコは素人が可食性を判断するのは危険なので、なるべく避けましょう。」
全て、漫画や小説で得た知識だった。
「詳しいねぇ。漂流したのが松門さんとでよかったよ。」
前を歩く竹木さんの髪が、風に踊った。
存在を許された気がして、少しだけ、胸が軽くなる。同時に、私が船から落ちることがなければ、竹木さんがこんな目に遭うこともなかったのかと、落ち込む。
浮き沈みが激しい性格も、自覚していた。
* * *
私たちが住処としたのは、海岸に面した洞窟のような横穴だった。
高潮の危険はあるが、虫やヘビに襲われる心配は少ない。何より、雨風を凌げるのがありがたかった。
「これはアサリとイシダタミガイです。茹でるだけで食べられます。」
「へぇ。こっちは?」
「これはカラスノエンドウ、ヨモギ、ツルナ。」
「すごーい!たくさん採ったね。」
大きな葉っぱを床に敷いて、その上にきょうの成果を並べる。これだけあれば、一日くらいは二人分の食料になる。
島を歩いてみて、いくつか分かったことがある。
まず、この島は一周が1kmくらい。つまり、半径が300メートルほどの島だ。人の住んでいるような場所は見当たらず、正真正銘の無人島。
そして、もう一つわかったこと。この島の向かいには、この島よりも大きな島がある。浜辺に打ち上げられていた大量の漂流物も、あの島から流れ着いたものと見ていいだろう。つまり、あの島には人が住んでいる。
隣の島、通称アノ島への距離は、数キロから数十キロ程。波の中を泳いで行くには、危険な距離だった。だけど、その距離を乗り越えることができれば、私たちは助かるという訳だ。
「いやぁ漂着物が多いと快適だねぇ。洗顔とか乳液も流れてきてくれると嬉しいんだけど。」
竹木さんは相変わらず、ホテルの部屋で寛ぐように優雅だった。動揺というものがないのだろうか。
だけど確かに、慌てたり、腹を立てたりしている竹木さんは、想像がつかない。
竹木さんが、ヨモギの香りを嗅いで、「ひー苦そう」と笑う。
その姿からは、何か諦観のような悟りを感じた。
「漂着物が多いのは、いいことばかりではないです。海流がこの島に向かって流れているということなので、隣の島に着くのが困難になります。せめて、ボートと舵のようなものが作れればいいんですけど。」
「ふむふむ。なるほど。」
本当に、理解しているのだろうか。アサリをつついている竹木さんの表情には、焦りというものは見当たらなかった。
なんだかこちらまで、調子が狂ってしまう。
「そうだ!あだ名つけようよ、あだ名。ずっと松門さんって呼ぶのも余所余所しいしさ。」
「いや、私は別に……」
「遠慮しないで。ずっと敬語もなんか距離あるし、うーん……蓮ちゃん、より蓮の方がいいかな?」
自分の名前なのに、初めて呼ばれたような気がした。
「私のことは、美月って呼んでね。あと、敬語も禁止。私たち、無人島を生き抜くバディなんだからね。」
バディの発音に、強調めいたものを感じる。強引さがあった。引力とも言うべきか。
「ほーら!早く早く」
アサリとヨモギを持った竹木さんが、私の前に迫った。初めて至近距離で見る竹木さんに、戸惑う。戸惑いながらも、認識する。知っていたよりも、色素の薄い瞳。想像よりも、長いまつ毛。
「美、月…………。」
名前を呼ばれただけで、嬉しそうに笑う顔。
知らないことばかりじゃないか。
* * *
一人の方が、まだ楽だったかもしれない。
横穴をオレンジ色に照らす焚き火を見ながら、そんなことを考えていた。
無人島初日は、終始竹木さん……美月に、振り回されてばかりの一日だった。一人であれば、自分という人間の矮小さを思い出すこともなく、一日を終われただろうに。
美月は、焚き火のとなりで、すっかり寝息を立てている。その静かな寝顔を見る。相手の意識が無い時だけ、私の視線は自由に泳げた。何とも情けないものである。
「やっぱり、苦手だ……」
他人がいるというだけで、勝手がわからなくなる。何をするにも、正解があるような気がしてしまう。そしてその正解は、私以外の人間には共有されていて、私だけ置いて行かれているような。そんな焦燥に襲われるのだ。
一人は楽だった。自分だけの世界で、好きなもの。漫画や小説の世界に、没頭していればいいから。自分の好きなものだけを、選び取れるのだ。
だけど二人になると、それは許されない。
「絵でも描こう。」
スカートのポケットから、海水で萎れたメモ帳と、ボールペンを取り出す。
ペン先は透明な線をぐるぐると描いて、やがて黒に変わった。
静かな夜の横穴。ボールペンが紙を滑る音と、美月の寝息、波の音が、薄い層のように折り重なる。
絶対に、生きて帰る。まだ見ていないアニメの最終回もあるし、読みかけの漫画だってある。
それに、私には責任があった。私のために飛び込んでくれた、美月という責任が。
横穴の外は、闇夜に浮かぶ星と、黒い海だけの世界。その境界線は不明瞭で、波の音を頼りに、夏の夜風に身を委ねる。
「できた……。」
しわしわのメモ帳。
記念すべき一ページ目に、私は夜空を描いた。
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