第22話:妻の心を折る
広めの弁護士の事務所の打合せ室は、妻のすんすんというしゃくりの音だけが聞こえていた。
その他と言えば、遠くでアンパンマンの動画の音がかすかに聞こえる。別室で義理の父が娘に見せているのだろう。
いくら行儀が良い子だと言ってもまだ3歳だし、知らない場所で知らない大人がたくさんいるところで静かにしておくことなど不可能だ。動画を見ておとなしいならまだ優秀と言えるだろう。
俺は打合せ室でずっと無言で座っている。弁護士は立場上、俺の横に座っている。テーブルを挟んで向かいに妻が座り、弁護士の対面に義理の母が座っている。
「既にお送りした奥様と勤務先のスーパーの店長吉田氏との関係は間違いないでしょうか?」
弁護士がいきなり核心をついた。さすが優秀な弁護士。ぐだぐだ言ったりしない。まあ、俺とは縁も所縁もないカネだけの関係なのだ。逆に言うと、だからこそ信用できた。打ち合わせの段階から、俺はこの弁護士は信頼できると感じていたんだ。
「間違い……ありません」
そう妻が言ったあと、再び大号泣。
ここで初めて妻の口から不倫したことを直接告げられた。それなりにショックなんだけど、それは「妻の旦那である俺」の話。今の俺は「その話し合いの場にいる別の俺」で、浮気を告げられた俺はかなりショックを受けてるなぁ、みたいに客観的に見ていた。
俺の方はそんなこともあって、泣いたりもせず、もう吐いたりもしない。冷静に黙って弁護士の横に座っていた。なんとなく、解離性同一性障害(二重人格)がもう一段進んだ気がしていた。
「旦那様はこれに対して離婚を希望されています。財産分与は……」
そこまで弁護士が言ったところで妻は再び大号泣の上、過呼吸になって失神寸前のところまでいった。弁護士の判断で俺は何度めかの途中退室を余儀なくされた。
俺には本当に分からなくなっていた。
妻はバカじゃない。軽い気持ちで不倫をしたのかもしれないけど、してしまったのだから。そして、それが夫にバレてしまったのだから、復縁はあり得ない。彼女は俺の性格も分かってる。そんな不貞を許すはずないと。だったら、諦めそうなもんだ。
口を開けば大号泣や過呼吸で彼女から何も言葉は伝わってこない。でも、今日が最後なのだから俺はできる限り話を聞くことにした。
10分休憩のあと、話し合いは再開された。妻からは「ごめんなさい」が連呼された。
「なにか伝えたいことがあるのではないですか? 旦那様は今日はきちんとお話を聞くために来られています」
弁護士はできるだけ話しやすい雰囲気を作るように優しく言った。俺ははっきり言って言葉が出ない。話し合いに第三者を入れる必要性が初めて分かった。
「店長との関係は……いつも……ホテルでした。今まで……7回行きました」
泣きながら妻が話し始めた。しゃべりが引っかかるとお義母さんが「しっかり白状しなさい」と喝を入れてた。
俺の心の中はもう空っぽだった。だって妻の不倫は確実で、本人も認めてる。回数だって白状した。探偵事務所が準備した資料はその7回のうち4回分のものだった。本当はもっとあるのかもしれない。
俺が好きだったあの女はどこに行ったのか……。いや、そもそもいなかったと思ったら、自分の見る目の無さを呪うばかりだった。
もう終わりだ。後はその後について話すだけ。これ以上妻になにかを言わせたり、泣かせたり、過呼吸にさせるのは可哀想なだけ。見ていられない。
俺は手元の紙に「その後の条件についてお願いします」と書き、横の弁護士の前に机の上でスライドさせて希望を伝えた。
「不倫をお認めになったということで、今後についてお話ししたいと思います」
弁護士は俺の指示通り話を切り替えた。
「財産分与について、旦那様はローン残債があるマンション、現金について全ての権利放棄を希望されています。慰謝料なし、親権放棄でお考えです。お子さんは風間さんのお子さんではありませんので、養育費もなしです」
妻としては大勝利の条件を出した。これは事前に弁護士に伝えていたこと。主婦でも100万円から200万円は取れると聞いていたけど、店長の方からもらった損害賠償金の報酬を上乗せするので、妻にはこの全面降伏の条件で行ってほしいと伝えたのだ。
お金を取る方向の交渉は相手が抵抗するのでこじれることがある。弁護士としては受けるかどうか考えるだろう。ところが、今回は真逆で全面降伏するのだから簡単なのだ。俺は別のところで費用も払うと言っているのだから、弁護士は断る理由はなかった。
「待ってください!」
そこでお義母さんが動いた。俺はなんて言われても怖いものなんてなかった。もう、全部終わっているのだから。
「こっ、これっ! 見てください!」
カバンから慌てて封筒を取り出した。手なんか震えていて、お義母さんは必至なのだと伝わった。でも、現状をひっくり返すような物などこの世には存在しない。
断りを言って弁護士が封筒を受け取り、中身を検めた。驚いた表情で俺の前に2枚の紙を並べた。
『私的DNA親子鑑定結果報告書』
タイトルには、2枚ともそう書かれていた。1枚目は『従って、被験者同士に親子関係は認められないと判断されます』と書かれている。その確率は0%。
知ってた。あの子は俺の子じゃない。
血が繋がってないのだから、親子のはずがない。
義両親は納得しないと思ったから、俺は事前にDNA採取キットを送っていた。俺が結果だけを持って行ったら信じてもらえないかもしれないから、俺のDNA採取が終わったキットを同封して義両親の家に送っていたのだ。
後は娘の口の中に綿棒を当てて擦ったものを合わせて検査機関に送れば親子鑑定をしてくれる。今の判定確率は99.99%以上なのだとか。今更こんなもの見せられても……。
「そっちは、あのスーパーの店長との結果です」
お義母さんが言った。へー、そうなのか。あの子の親は店長とは別だったか。つまり、嫁の浮気は2つになったってこと? その意図が分からない。賠償金を減らせってこと? そもそも、もらわないからこれ以上減らせないよ?
「見てほしいのはもう一枚の方! 風間さんとの方!」
もう一枚の方は『被験者同士に親子関係が認められる』とあった。その確率は99.999……と9が並んでいた。どういうこと?
俺はわけが分からなくなって顔を上げた。
お義母さんは、追加で母子手帳と数枚の紙を取り出した。今度は俺が受け取り見てみる。
母子手帳は娘のもの。以前、俺が見たあれだ。その母子手帳には、娘の血液型は「O型」と記載がある。以前見たそのままだ。
もう一枚の紙には、血液検査の結果。娘の名前で「A型」と書いてあった。日付からいってあの日……、俺が娘を病院に連れて行ったときのもののようだ。
「いや……これは……」
ちょっと意味が分からない。最後の一枚の紙は、娘がお世話になった産婦人科からの手紙だった。病院の名前の判が打たれている。
その内容は「産まれた直後は血液の抗体反応が弱くて違う血液型に判定されることがある」というもの。その確率とか書かれているけど全く頭に入って来ない。そのため、最近では産後すぐの血液検査は行わないところが増えていて、その産婦人科でも今では出産直後の血液検査はおこなっていないのだとか。
たしかに、血液型は判定に2つの検査を行う。Aの抗体検査とBの抗体検査。血に検査薬を垂らすと固まる場合と固まらない場合がある。Aの検査薬で固まったらAの要素を持つ。Bの検査薬で固まったらBの要素。Aだけ持つのがA型、Bだけ持つのがB型、両方持つのがAB型。両方持たないのがO型。
産後反応が悪いとAの検査薬で血が固まらない。そしたら、「O型」と判定されてしまうらしいのだ。3年くらいすると安定してくるので、今の娘の血液検査をしたら100回中100回ちゃんと正しく「A型」と出るらしい。
そんな話は小説では読んだことがある。でも、まさか自分の身に起こるなんて……。しかも、DNA鑑定ではほぼ100%俺と娘は親子との判定。
俺は焦った。汗が止まらない。額や首元だけじゃなくて、頭皮からも汗が吹き出してきていた。
「娘が不貞を働いていたことには変わりはありません。でも、あの子は……花音ちゃんは、風間さんの娘に間違いありません。それだけは信じてあげてください!」
お義母さんがテーブルに額を押し付けてお願いしてきた。俺は技術畑の人間だ。こんな検査結果を見せられたら信じる。信じざるを得ない。データの重要性はこれまても何度も感じてきた。自分が期待した結果でなくても、データは嘘をつかないのだ。
俺は妻にも妻実家にも「あの子は俺の子じゃない」と手紙に書いていた。その理由として、母子手帳に記載のある娘の血液型が俺達夫婦からは生まれない血液型であることも記載していた。しかし、それは間違いだったらしい。あの子は俺の子だったか。
俺は少し困ったことになったと感じていた。
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