第26話 ピーチャン・インザグリーン(7)

「……あった。御伽草子」


 ネコルは棚の前で呟き、上段から全集の一冊を抜き取った。

 分厚い苔色の書籍は、背表紙の日焼けに比べて中の紙質が新品同様だった。触れただけで切れそうな手触りからしても、ろくに触った人間がいないことが丸わかりだった。

 ぺらぺらと立ち読みをはじめて、すぐに顔が引きつっていくのを止められなかった。誰も手にとらないわけだ。いくつか注釈がついているものの、載っている文章自体は原文のみ。前を読んでも後ろを読んでも、現代語訳がどこにもない。ありをりはべりいまそかりの古文を一から読み下せということだ。


(勘弁してよほんとにこれしかないのか……?)


 絶望的な気分になりながらページをめくっていく。

 ふと――目にとまる挿し絵があった。

 それは一抱えはある大きな黒い漆の鉢を、すっぱり頭にかぶって、顔が半分見えなくなっている異形の姫の図。思わずなんじゃこりゃと言いたくなる絵である。


「これが……鉢かづき姫……?」


 まわりが絵巻物ぜんとした、鉤鼻に引き目の登場人物ばかりなだけに、余計に異様な風体が際だっている。

 この鉢の化け物が、ヒカリにそっくりだと?

 確かに言いえて妙だと思いつつ、釈然としない思いも消えなかった。あの人は、霧香は人の悪口めいたことを言わない人だ。ネコルはかなり迷った末、カウンターでその本を借りた。


(読めなかったら、先輩に聞くさ……)


 鞄を本でいっそう重くさせながら、図書室を出る。

 そのまま飼育小屋に顔を出すため、昇降口を出てから校舎裏に向かって歩きだす――と。途中で小日向祐子やルーシーのグループがたまっているのが見えた。

 花壇の端に集まり、やけに険しい顔をつきあわせている。


「──あ、ネコル君ネコル君!」


 向こうの方が、先にこちらに気づいた。小日向祐子が手招きしてくる。なぜかその両手にはヒマワリの造花が握られているが、無視をするわけにもいかない雰囲気だった。


「……それなんなの?」

「入場ゲートに飾る花。さっきまで教室で作ってたの。飾り付け係だから」


 ちゃきっと耳元に飾るポーズ。特に意味はないらしい。


「……なんかあったのか?」

「あったっていうか。あのねあのね、ヒカリっちがカマ松に捕まっちゃったのよ! ほらあっち!」


 ぎょっとしたどころの話ではない。

 ヒマワリ付きの小日向祐子に誘導されるまま、ネコルは目の前の花壇を登らされた。そこから見て取れるのは、向かいにある二十五メートルプールである。

 すだれと金網のフェンスの隙間から、中の様子がのぞき込めるというわけだ。

 プールには、なみなみと塩素入りの水が満たされていた。緑色のプールサイドには、紺色のスクール水着を着た女子が数名集まっている。その中から一人離れて、同じスクール水着姿の度会ヒカリが、飛び込み台の前にしゃがみこんでいた。

 あんな場所でも頭にツノを生やしてバイザーで顔を隠して、メカメカしているのはヒカリだけだ。


「一応、そう変な話じゃないんだけど」


 隣に上がってきたルーシーは、もう少し冷静なようだった。


「度会さん、ずっとプール授業休んでるから。補習に出ろって松旗先生に引っ張られてったわけ」

「でもルーシー! あの子水に入ったら動けなくなるって言ってたじゃない」

「それを聞いてくれる先生だけじゃないってことでしょう」

「なによそれえ。意味わかんなーい」 


 小日向祐子は吐き捨てるように言って、きめの細かいナチュラルメイクの頬をふくらませる。

 そうしている間も、Tシャツと競泳水着姿で指導中の松旗が、ヒカリに向かってしきりに説教を続けていた。手元の竹刀は、どう見ても威嚇用だろう。


「……たぶんカマ松って、度会には何度か恥かかされてるから……」

「やっぱりそう思うネコル君!? 意地になってるだけよねえ」


 こうして見ているだけでもわかる――松旗教師の勝ち誇った横顔は、ようやく優位に立てる状況に酔いしれているように見えた。

 竹刀がプールサイドを叩く。


「――ほらほら度会、どうした。タイムが測れていないのはお前だけだぞ? 他の生徒はみな終わった。私の授業で逃げ得は許さないからな!」


 度会ヒカリは、そこまで一方的に怒声を浴びせられても、うつむいたまま動かない。動けない。警戒警戒と騒ぐくせに、自分の身も守れないのかよ、ポンコツが――。

 その気になれば十万馬力で原付も投げる非常識女のくせに、いつもの口癖はどうしたんだと言いたくなるほど。白いヘッドギアからこぼれる黒髪が、重く湿って雫を垂らしていた。水着も上半身の色が変わっている。シャワーぐらいは、無理矢理浴びせられたのかもしれない。


「だめっ。見てらんない。ぜったい止めてあげなきゃ可哀想だって!」


 ここは断固として抗議するべきだと主張する小日向祐子と、様子見でためらうルーシーと。

 自分は──どうするべきだろう。

 相手はカマで理不尽でも、れっきとした教師だった。いつもの自分ならとっくに手を引いている。それをするだけの理由を、いくらでも積み上げて。ごまかして。


「さあ、さっさと入れ! 入るんだ! 度会ヒカリ!」


 ああそうだ。あの時だってそうだったのだ。

 怯えたぴーちゃんが、ネコルにしがみつくようにして言った。ねえネコルくん、いっしょににげてくれると。


***


「……はなれたくない。一緒にいたいよ。たすけてよ……」


 妖怪赤屋敷のぴーちゃんはひどく泣き虫だし、知らないことやできないことが多かったが、冗談だけは言わない子だった。

 だからわかった。これは本気の願いなのだと。

 ここで期待を裏切ることは、格好悪いことだということだけはわかった。実際、何度も自分で言ったのだ。困ったことがあれば助けてあげるし、ゲキレッドは弱い人間を見捨てない。彼女は言った通りにネコルを頼ってきた。それだけの話なのだ。

 それだけの話なのに。


「……でも」

「でも?」

「明日は、ゲキクーガが……」


 ぴーちゃんの眉が、ますます下がった。あわててネコルは口をつぐんだ。首を横に振った。

 どうしてこんな時にかぎって、凪が一緒にいないのだろう。恨んだところで答えは出てこない。ネコルは覚悟をきめて、うなずくしかなかった。


「……わかった。いこう。逃げようぴーちゃん」

「ほんと? ありがとう!」


 はじめての家出となった。

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