選択肢【エイラス】月夜が照らすのは<祝勝会後>
「トニー」
浮かれた肩を誰かが叩いた。そこに立っていたのはエイラスだった。
「こんばんは」
エイラスは少し落ち着いたトーンで話しかけた。トニーの浮ついた歩調が止まり、注目がエイラスに向かう。
「何で今さら挨拶して……さっきまで一緒に食堂にいただろ」
「そうですけど、あまりお話できませんでしたから。ちゃんと挨拶しておきたかったんです」
トニーが首を傾げると、胸元に抱えられた酒瓶の中身がちゃぷんと小さく音を立てた。
「これ、どうしたんです?」
エイラスが瓶を指し示すと、トニーは片付けの礼で貰ったのだと返した。
「素敵ですね。あぁ、でも。それだと……すぐに帰って飲みたいですよね?」
伏せた顔に影が落ちる。エイラスの白金のまつ毛がゆっくりと瞬き、肩が落ちた。明らかに、がっかりしている。それでもトニーが酒好きなことを尊重して遠慮しているようだった。
「いや、少しだけなら」
思わずトニーは声に出してしまった。いつもはぐいぐい近づいてくるエイラスがあまりにもしょんぼりと肩を落とすものだから、断りを入れるのが忍びなくなってしまった。
「いいんですか?」
ぱっとエイラスが顔を上げた。
「あぁ、別にい……」
「じゃあ、いきましょう」
言葉を遮って、エイラスはトニーの手を取って歩き出した。髪を揺らしながら歩くエイラスの後ろ姿には、先程までのしょぼくれた淋しげな雰囲気はまったくない。
ーーこいつ……。
トニーが憎らしく思っても遅かった。ずんずんと進むエイラスに引っ張られ、トニーはいつもより大きい歩幅で歩かされる羽目になった。
到着したのは中庭だった。
しっかりと整備され、昼間の模擬戦の跡は既にない。本省の壁のひび割れ以外は。
エイラスはベンチに座ろうとするトニーを止め、座面にかかった砂埃を払った後で、どうぞと声をかけた。女性にするような丁寧なエスコートに若干の気まずさを滲ませながらトニーは座った。
「ちょっと待っててください」
隣に座ったかと思うと、エイラスは立ち上がり、生活棟の方へ向かった。小さな頭と長い手足が少しずつ遠くなり、数分も経たずに、また髪を揺らしながら戻ってくる。少し息を切らしたエイラスの手には円筒状のミニグラスが二つ握られていた。
「食堂から借りました。どうぞ」
「なんでそんなこと……」
トニーは大人しく受け取りつつ、一応理由を聞くことにした。エイラスの言動にはいつも含みがあるように見える。風に流れる髪でさえも、じんわりと湿気を帯び始めた夜に小走りでグラスを取りに行く様子も、ただの優しさとは思えない。
エイラスの目が細められる。少し長めの瞬きの後、白い歯を覗かせた。
「俺が声を掛ける前、窓から中庭を見てましたよね? だから中庭で飲みたいんだろうなと思ったんです」
話しながらエイラスはグラスに酒を注いだ。量は三分の一程度。貴族らしい余裕を持った注ぎ方だ。炭酸の入っていない琥珀色の酒は、糖度が高く、ゆっくりとグラスを満たして言った。
「月夜に」
エイラスはグラスをトニー側に傾ける。琥珀色の酒もトニーの乾杯を促すようにグラスの中で揺れた。
乾杯を待つエイラスに対して、トニーは硬い表情をしてグラスを持った腕を下げた。
「いや……俺にはそんなカッコつけたことは言えない」
トニーの正直な拒否にエイラスは大きく笑った。くしゃりと笑うその姿は年相応の青年に見える。だがその破顔は刹那的だった。すぐさま陰を含んだ笑みを湛える。
「そうですか。……では、神秘に」
「……」
眉を顰めるトニーを無視して、エイラスはグラスをくっつける動作をしてからグラスを呷った。彼の大きな手は円筒グラスを摘まむように持っているが、野蛮な雰囲気はなく、繊細でそろった指先が優雅だった。
「嫌味な言い方だな」
トニーもグラスを傾ける。ナッツのような甘く香ばしい香りが口に広がる。
「大陸の上層部は、皆、貴方を欲しがっていますよ。お披露目会に行くようなことがあれば、こんな乾杯の音頭になるはずですから慣れたほうがいいのでは?」
ーー皮肉交じりの回答。
トニーはグラスを持った腕を膝に置き、縁を流れる水滴を見つめた。
エイラスは人を揺さぶって反応を見る節がある。ガヨに言わせれば底意地の悪い性格だそうだが、カタファに言わせれば立派な処世術の一つ、らしい。どちらにしろ、良い印象を与えるものではないなとトニーが改めてグラスを口に近づけると、大きな手が伸びてきた。
驚くほど自然にその手はトニーからグラスを奪いーー持ち主がグラスに口を浸け、酒を飲んだ。
「……失礼なのは承知していますが、あんまり美味しくないですね」
酒を奪っていったのに文句まで言うエイラスは、口の端を指先で拭っている。自身のグラスはーーベンチの端に置かれていた。
「おい、自分の酒を飲めよ」
トニーがグラスを取り返そうとするも、エイラスは体を引いて腕を高々と上げた。彼の指の先にあるグラスに小柄なトニーは触れることもできない。それでもトニーが背を伸ばしていると、エイラスの片一方の腕に引き寄せられた。
「貴方が口をつけたお酒だから飲んでるんです。分かってます?」
エイラスの胸に飛び込んだ形になったトニーは、更に抱きすくめられて身動きが取れなくなった。髪にエイラスの息がかかる。
「トニー。貴方はもっと神秘保持者としての自覚を持った方がいい。貴方自身の毛髪や体液だけではなく、こうして一時的に口を付けたものだって。神秘を金にしたい者からしたら喉から手が出る程欲しい遺物なんですよ」
打って変わって落ち着いたトーンで話しかけるエイラスに、トニーは何も言えなかった。エイラスの言っていることは正しい
トニーが具体的な恐怖に遭ったことがないのは、騎士団に所属し、国の所有の延長線上にいるからだ。本来、大陸法で守られるのは神秘の内容だけで、慣例通りならトニーの指名や顔写真、来歴に至るまで大陸中に発布されるーーただ、彼が数百年ぶりの自然偶発的な、平民の神秘保持者だからーーヒューラ国王の支配が及ぶ騎士団にいる勢力下にいることで例外とされているだけ。
世間一般に向けての公表がないだけで、勢力のトップや限られたわずかな人員にはトニーの神秘が知られている。情報を知っている彼らすべてが聖人君子ーーなわけはない。
黙り込んだトニーに柔らかな声が降ってきた。
「すみません、意地悪なことして。……でも正しく怖れて欲しいんです」
エイラスの体が離れ、細い親指がトニーの乾いた唇を撫でた。赤子を見るような優しい目つきをトニーに向けている。
「この大陸はぐちゃぐちゃですよ。経済的な戦争と休戦。寄付ばかり募る修道院。どの勢力も拡大を目論んでいます。その拡大の起爆剤として新しい神秘の力を求めています。アステア王国も、ノルウワ諸国も、修道院も。トップ層はトニーを引き入れようと空中戦を起こし始めてますよ……このヒューラ王国の内部だって一枚岩ではありません」
トニーは訝しげな眼でエイラスを睨んだ。
「何でそんなことを知ってる」
エイラスは余裕たっぷりに髪を耳に掛け、口角を上げた。
「誰しも、ベッドの上だと多弁になってしまうものですよ。それは国王であっても同じです」
咄嗟にトニーは顔を伏せた。あっけらかんと話すエイラスにどういう顔をしたらいいのか分からない。ただ、嘘ではないだろうと思った。少なくとも御伽噺や陰謀論よりは現実味がある。
夏が近づきつつある夜。ぬるい風が抱き合った彼らの頬を拭っていく。中庭の周りの植樹は生き生きと葉を伸ばし、擦れて、サラサラと音を立てた。
「……ちょっと、暑いですね」
エイラスは寄せた体を離し、ベンチに座り直した。トニーも座り直して誰もいない中庭を見つめる。
環境音しかしない空間に、二人ぼっち。
日常に忘れ去られてしまうような感覚がトニーにはあった。
「色々言いましたけど、何かあったら俺を頼ってくれたら嬉しいです」
トニーの視界にグラスが差し出される。
「俺は性格が良いとは言えませんが……いい性格をしているとは思いますよ。国王の遠縁の侯爵家ながら、ヒューラ王の”お気に入り”で、周りの勢力にもある程度、牽制が利きます。葦よりは頼りになりますよ。何より……」
「何より?」
聞き返すと、エイラスの形の良い唇が薄く開いた。月に照らされた白金の髪は絹のようで、淡い新緑色の瞳は儚げだ。発光するような白い肌も非常に美しかった。トニーは月見酒のような感覚で、受け取ったグラスを傾けた。
「顔がいい」
ぶふっと、トニーが口から酒を噴き出した。慌てて袖でそこらを拭いながら、エイラスに苦言を呈す。
「……お前、自分でそれ言ってて恥ずかしくないのか?」
「いえ? 別に。むしろ俺のこの容姿で謙遜して自分を卑下する方が嫌味じゃないですか?」
「まあ……」
確かに。とトニーは言わなかった。余裕たっぷりの生意気な年下の口車に乗る義理もない。実は一瞬納得しそうになったのが悔しかったからーーというわけでは、絶対にない。
トニーは鼻を啜る。噴き出したときに喉奥から鼻に逆流したようで、粘膜に染みてきていた。
「そろそろ解散しよう。エイラスはグラスを持ってきてくれたから、片づけは俺がやる」
「ありがとうございます。どうせなら部屋まで送っていきますよ?」
エイラスの提案にトニーは首を左右に振った。
「王の”お気に入り”が浮気したと思われたら、面倒だろう。俺も国王に睨まれるのはごめんだ」
そう言って酒瓶を小脇に抱えたトニーは去っていった。
地味でぱっとしない、茶色い髪が淡く光った魔法灯のアーチを潜って生活棟に入っていくのを見守る。
ーー羨ましい。
ふと、エイラスは思った。トニーには神秘がある一方で、エイラスに向けられる評価は相対的なものでしかない。世間より優れた容姿、平均より高い身長、数いる愛妾の中での”お気に入り”という立ち位置。
個人としての絶対的な力は、ない。
ーーその違いがトニーを支配したくなる理由なんだろうか。共感されて、喜ぶよりも先に負けたような感覚に陥るのも、無性に目で追ってしまうのも。
エイラスは、ぼうっと夜空を見上げた。
「飲みすぎましたかね……」
柄にもなく、今晩はひどく感傷的だ。
何となくエイラスは、小難しいことを考えず、先ほどまであった平凡で地味なぬくもりから離れたくなくて、面白くもない美しいだけの月を見つめていた。
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