第5話
淡雪がしんしんと降る2月19日、夜6時頃。
ホワイトのチェスターコートにホワイトのタートルネックニット、アイボリーのチェック柄ズボンと革ブーツを身にまとった冬心は、その洗練された装いで人々の視線を集めながら、ピースデパート17階の高級イタリアンレストラン『アモーレ』の入り口へと足を踏み入れた。
ほどなくして、気品漂う店員が姿を現し、丁寧に声をかけた。
「いらっしゃいませ。ご予約はございますか?」
「えっと……ジャンダ・ローゼさんにお会いしたくて……」
高級感に圧倒され、冬心は少し控えめな声で答えた。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
店員は優しく微笑みながら、丁寧に案内した。
店内には静穏なクラシック音楽が流れ、華やかでエレガントな空気が漂っていた。ホワイトとゴールドで統一されたヨーロッパ調のテーブルと椅子が、まるで宮殿のような華美さを醸し出していた。
水を飲んでいたジャンダ教授は、178センチの華奢な体躯に、さらさらとしたブロンドのくせ毛を肩まで伸ばし、グレー系のチェスターコートとワインカラーのスリーピースを纏っていた。くっきりとした二重瞼に縁取られたエメラルドブルーの瞳は、まるで澄んだ湖のように美しく、小さな顔立ちに鮮やかに映えていた。フランス人らしい洗練されたファッションセンスが、彼の存在感を一層際立たせていた。
「冬心、こちらだよ」
笑顔で手を振るジャンダ教授の姿を見て、冬心の緊張もすっと和らいだ。
「お待たせしました。遅くなってしまって、すみません」
「大丈夫。ちょうど6時だし、私も今着いたばかりだから」
冬心がジャンダ教授に新年の挨拶の電話をかけたときから、教授は「ぜひご馳走させてほしい」と何度も申し出ていた。ようやく二人の予定が合い、冬心のアルバイト先でもあるピースデパート内のこのレストランに決まったのだった。
高級レストランは初めての冬心を気遣い、ジャンダ教授は特別ディナーコースを二人分と、イタリア産の高級ノンアルコール赤ワイン『マッセート』を一本注文していた。気持ちよく些細な日常の話をしていると、多彩な野菜のアンティパストとマッセートワインが運ばれてきた。
「とっても美味しいです」
頬をふくらませて清爽に笑う冬心の美しい顔を見て、ジャンダ教授はふと、ポールとの子どもができたらこんな気持ちなのかもしれないと思い、胸がふわっと幸せに満たされた。
「いっぱい食べなさいね。ふふふ」
ジャンダ教授も微笑みながらアスパラガスを口に運ぶ。二人の優美なオメガには、夜空に煌めく星々のような魔法が宿っていた。誰もがその美しさに目を奪われるが、二人は人々の視線に慣れていて、気にも留めず、ただ静かに食事を楽しんでいる。
「冬心、アーラン教授からまた電話があってね。ぜひフランスに来て、一緒に討論したいとおっしゃっていたよ。3月1日から新学期が始まったら、交換留学の申請ができる。君の留学費用は大学が負担するから、心配しなくていい。フランスロイヤル大学で良い成績を取れば、昇級もできるし、早期卒業の利点もある。もう一度、考えてみてくれないか」
世界の大学では、ピース大学をはじめとして、1学期は3月から7月中旬まで、2学期は9月から12月中旬までと統一されており、大学間の行事や交流が活発に行われている。
「あ、ありがとうございます。実は、81歳のおばあさんのことが心配で、まだ決められずにいました」
「そうか、冬心。君の家庭の事情は理解しているよ。でも、君のような斬新で卓越した天才は、停滞した文壇に新たな波紋を広げる存在だ。できれば、君のおばあさんのことは私に任せてほしい。ヘルパーを雇って、一日中世話をしてもらうこともできる。学長にもすでに話を通してある」
「そんなにお世話になることはできません。今まで十分にお世話になっております。本当に恩に着ます」
「冬心、私は今年で50歳になるよ。若い頃は文学に浸っていて、本当に楽しかった。ありがたいことに、外交官だった父のおかげで、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、ドバイ、韓国、中国と、さまざまな国で暮らし、多様な人々と出会い、豊かな文学に触れることができたんだ。恋にも落ちて、甘い喜びも、別れの苦さも経験したよ。今は一人だけれど、文学の研究に没頭する日々は、とても充実している。 そして、冬心。君に出会ってから、もっと意欲が湧いて、毎日が楽しくなったんだ。一緒に、古代から現代までのフランス文学を研究してみないか。君となら、もっと深く、もっと自由に文学を旅できる気がするんだ」
ジャンダ教授は、白く細い薬指にポールとお揃いのピンクゴールドのリングを光らせながら、美しい手を伸ばし、冬心の手をそっと優しく握った。
楽しい食事を終えた後、ジャンダ教授は「買いたい本がある」と言い、二人はエレベーターで7階のピース書店へ向かった。ブロンドの髪が光る美しいジャンダ教授と、ホワイトで飾られた清楚な冬心は、人々の目を釘付けにしていた。しかし、二人は周囲の視線を気にすることなく、最近出版された『偽りの歴史』という本について熱心に語り合っている。
冬心は珍しくマスクをつけず、素顔のままでジャンダ教授と書店内を歩いていた。通り過ぎる人々も振り返って冬心の美しい顔に見入った。ブロンドのジャンダ教授と並んでいると、栗皮色の髪の冬心もまるで外国人のように見えるのだった。
ジャンダ教授は英文学コーナーに足を運び、棚からモード・モンゴメリーの『深遠なる隣の宇宙(The Sober-minded Neighbor Universe)』を取り出して冬心に手渡した。
「これは、昨年ブッカー賞とゴンクール賞にノミネートされた本だよ。冬心がまだ読んでいないと聞いたから、プレゼントしたくてね。あ、気にしないで。これは冬心の誕生日プレゼントだ。1月8日だったね。ちょうどスイスのセミナーと重なってしまって、用意できなかったんだ。今なら、受け取ってくれるかな。この本はイギリス文学の異端と呼ばれているんだ」
「はい、ありがとうございます。本当に読みたかった本です。とても嬉しいです」
ジャンダ教授と一緒にいる冬心を見つけて、同じバイトの陽気な加奈ちゃんが声をかけてきた。
「こんばんは、冬心!」
「加奈ちゃん、こんばんは」
加奈ちゃんはジャンダ教授を見て、目を丸くする。
「えっ、誰?その美人さん!」
「あ、大学の先生だよ」
「わぁ……やっぱり綺麗な人の周りには綺麗な人が集まるんだね。羨ましい~」
ジャンダ教授は穏やかな笑みを浮かべ、丁寧に挨拶した。
「初めまして。ジャンダ・ローゼと申します。冬心がはいつもお世話になっております」
顔を真っ赤に染めながら、松島さんが挨拶を返した。
「はじめまして。松島加奈です。こちらこそ、生意気なことを言ってしまって、すみません」
「いえいえ、大丈夫です」
「じゃあ、ごゆっくり。冬心、また明日ね。さよなら」
加奈ちゃんは笑顔を残して、雑誌コーナーへと軽やかな足取りで向かっていった。
「明るくて、優しい方だね」
「はい。ここで10年も働いている大先輩なんですけど、“松島さん”って呼ぶと嫌がるので、いつも“加奈ちゃん”って呼んでいます。若く見えますが、実は二人のお子さんがいる元気なお母さんなんですよ。いつも親切にしてくれて、大好きです」
「冬心の周りに、そんな素敵な人がいてくれて嬉しいよ」
日本純文学批評雑誌を含む計7冊を購入したジャンダ教授は、冬心を家まで車で送ると言い、二人はエレベーターへと向かった。 地下3階の駐車場までの間、ジャンダ教授のボランティア活動について話が弾む。教授は児童支援施設でギターを弾きながら、物語を歌で伝える活動をしている。冬心は昨年8月の夏休みに一度同行し、その様子を見学した。ジャンダ教授の柔らかな歌声は心地よく、深く心に染みる美声だった。
教授は教育者としてだけでなく、児童文学作家としても活躍しており、毎年収入のほとんどを児童施設や障害者支援施設に寄付している。 その姿勢に、冬心は心の底から敬意を抱いている。
ジャンダ教授の父方の実家は、由緒ある政界の貴族家系であり、母方はローゼホテルとローゼデパートを所有する裕福な名家である。 3歳年上の兄は優性アルファで、若くして政界入りし、現在は社会党の代表として来年の大統領選挙を目指している。 4歳年下の妹はベータで、ローゼホテルの専務として活躍している。兄妹の仲は非常に良く、ジャンダ教授は3人の甥と2人の姪を溺愛している。
ジャンダ教授は、ピース大学のある木槿丘町に暮らしているが、冬心のために家とは反対方向へ車を走らせた。 外では吹雪が綿々と降り続き、真っ白な幻想的な冬景色が広がっていた。二人は本の話に花を咲かせながら、笑い合っている。 銀河水公営アパートの前に到着すると、ジャンダ教授はパリで購入したサラ・ムーンの写真集が入った袋を取り出し、冬心に手渡した。
「こんなにたくさんは、申し訳ないです」
冬心は手を振りながら、慌てて言った。
「いいのよ。冬心は、私にとって息子のような存在だから。つい嬉しくなって、ウキウキしながら買っちゃった。受け取ってくれるよね? それに、12月の私の誕生日に、私の絵を描いてくれたでしょう?あれには本当に感動したよ」
「では、ご厚意に甘えさせていただきます。本当にありがとうございます」
木槿丘のピースタワーマンションに戻ったジャンダ教授は、ブリティッシュショートヘアのポールを呼んだ。
「ポール、ただいま。ママ、帰ってきたよ」
鳴き声が聞こえなかったので、ジャンダ教授はリビングルームのキャットタワーを覗いてみた。そこには、猫のポールがスヤスヤと眠っていた。 教授は微笑みながら、そっとポールの頭を撫でる。 6年前、恋人のポールが飛行機事故で亡くなったとき、深い悲しみに沈んでいた教授に、妹のソフィアが慰めとして一匹の子猫を贈った。 その子猫は、ポールの死亡日時である9月11日午前8時46分に生まれたという。教授はそれを“ポールの最後の贈り物”と感じ、すぐに受け取った。そして、名前もポールと名付けた。
シャワーを浴び終えた教授は、アンバーホワイトのソファに腰を下ろし、温かいミントティーを片手に、日本純文学批評雑誌のページを静かにめくった。
星空町にあるオメガ支援施設では、朝7時からの掃除で活気に満ちている。冬心の祖母、知加子は甲斐甲斐しく働いており、10人のアルバイトの中で最年長だ。 掃除が終わると、9時の開館に合わせて人々がぞろぞろと入ってくる。関東では、東京の星空町にのみこの施設があり、オメガの生態や保存への理解を促すためのプログラムが実施されている。
施設は6階建てで、1階にはオメガ生活支援センター、2階に医療支援センター、3階に図書館、4階に視聴覚室、5階にコンサートホール、6階に支援課事務所があり、地下1・2階には駐車場が設けられている。
知加子は月・水・金・土の朝7時から11時まで勤務しており、ここで働くスタッフの多くは家族や親族にオメガを持ち、相談経験がある人々だ。11時になると、知加子は掃除用具を片付けてロッカールームへ向かい、ユニフォームを脱ぐ。そして同僚に挨拶をして、軽やかな足取りで家路についた。
知加子は家に帰ると、熱い湯船に浸かって疲れを癒した。その後、暖かいお茶を淹れ、冬心がジャンダ教授からいただいたカイエチョコレートの箱を開ける。そのとき、ピンポンとインターホンが鳴った。
時刻はちょうど午後2時。「誰かしら」と思いながらインターホンモニターを覗くと、そこにはとても美しい外国人が立っていた。
「どなたですか?」
「初めまして。私、冬心の大学教授でジャンダ・ローゼと申します。少しお話がしたくて、お邪魔しました」
「はい、初めまして。どうぞ」
ドアを開けると、すらりとした美人が現れた。ブロンドのくせ毛はセミディで、さらさらと波打ち、薄いエメラルドブルーの瞳が優しさを湛えていた。
「これ、つまらないものですが、どうぞ」
ジャンダ教授は虎屋の梅羊羹セットを差し入れとして知加子に手渡した。
「そんな、気を遣わなくてもよかったのに……ありがとうございます。どうぞ、入って、こちらにどうぞ」
知加子は申し訳なさそうに受け取り、キッチンへ向かい湯飲みを持ってきて急須で丁寧にお茶を注ぐ。
「急に訪れてしまい、申し訳ありません」
「まあまあ、そんな……いつも冬心が先生のお話を嬉しそうに聞かせてくれるんですよ。ほんとうに、いつもお世話になっております」
知加子は煎餅も添えて「どうぞ、召し上がってください」と微笑んだ。
ジャンダ教授は白を基調とした清潔感のあるリビングルームに目を向け、冬心の美的感覚を味わう。ブラウン系のレザーソファと木製のテーブルだけのシンプルな空間なのに、洗練された雰囲気が漂っている。壁には二枚の大きな絵画が掛かっていた。一枚は不思議な宇宙を描いた油絵、もう一枚は野生の花々を繊細に描いた水彩画で、どちらもジャンダ教授の目を引いた。
「この絵、素敵ですね」
「この宇宙の抽象画はね、冬心が高校1年のときに描いたものでしてね。ありがたいことに、高校生の全国美術大会で優勝をいただいたんですよ。隣の水彩画は、まだ小学4年生の頃に描いたものでして……小学生の全国美術大会で賞をいただきましたよ」
「さすがですね。冬心は絵も上手で、何でもできる天才ですね」
その言葉に、知加子は嬉しさを隠しきれず、華やかな笑顔を浮かべた。
「この部屋にもね、冬心が中学2年のときに描いてくれた、私の絵が飾ってあるんですよ。ありがたいことに、全国大会で賞をいただいたんです。よろしければ、どうぞご覧になってください」
ジャンダ教授は、冬心の祖母のきれいに整理された部屋に足を踏み入れた。
「これは傑作ですね……本当に素晴らしい。冬心は画家になるべきです」
ベージュ色のタリアトーレンポロコートに茶色のチェックスーツをお洒落に着こなしたジャンダ教授から、たくさんの誉め言葉を受けた知加子は、嬉しさのあまり有頂天になった。
リビングルームに戻り、ジャンダ教授は温かいお茶を口にしながら、冬心の交換留学について話を切り出した。知加子は静かにお茶を飲みながら耳を傾けていたが、しばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「先生、私はひとりでも大丈夫ですから、どうか冬心を行かせてあげてください。あの子の両親も、とても優秀な方たちでした。 お父さんは劣性アルファで、大学で脳の研究をしておりましてね。お母さんは優性オメガで、心理学の博士課程におりました。冬心が10歳のときに、ふたりとも事故で亡くなってしまいましたが、それからは私が育ててきました。 あの子は2歳で字を書き始めて、3歳には小学生の教科書も読んでいたんですよ。ほんとうに、すごい子です。あら、ちょっと冬心の部屋で見ていただきたいものがあるんです。どうぞ、こちらへ」
奇麗に整えられた冬心の部屋に入ると、ジャンダ教授の目に大きな木製の本棚が映った。 本棚には、日本語、韓国語、中国語、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語と、実に多様な言語で書かれた本がぎっしりと並んでいた。ジャンルも幅広く、まるで知の宝庫のようで、ジャンダ教授は思わず目を見張った。
「ほとんどは、あの子の両親が残した本なんですけどね……亡くなってからは、冬心がずっと大切に読んでおります。 信じられないかもしれませんけど、あの子、この原書を全部読んでしまったんですよ。 あっ、これですわ。冬心の作文なんですけど……いろいろ書いてますけど、私には読めない外国語ばかりでしてね」
知加子は木製の机の下から、大きな白いボックスを取り出した。蓋を開けると、中にはぎっしりとノートが詰まっていた。ジャンダ教授がふと分厚い一冊を手に取り、そっとページをめくると、そこには冬心が7歳から小学2年生までに書いた詩が並んでいた。日本語をはじめ、英語、韓国語、フランス語で綴られた詩は、ジャンダ教授の胸に深く刺さった。教授は静かに息を整え、じっくりと作文に目を通してから、ようやく口を開いた。
「これはすごい宝物ですね。ぜひ、世の中に出版されるべき傑作です」
目を輝かせながら喜びを語るジャンダ教授に、知加子は静かに微笑んで言った。
「中学生になってからは、ノートパソコンで詩を書いているようなんですよ。先生、どうか冬心の才能が花開くように、導いてあげてください。私はもう81歳ですから、いつ何があってもおかしくない年寄りです。冬心は、私がいなくなったら、ひとりぼっちになってしまいます。それが何より心配で……。 財産なんて残してあげられませんけど、せめてあの子が安心して暮らせるように、どうかその才能を活かしてあげてください。どうぞ、よろしくお願いいたします」
ジャンダ教授は、細く白い美しい手をそっと伸ばし、知加子のしわだらけの荒れた手を優しく包み込んだ。
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