第54話 晩期合併症は

 だがふと葵は、白血病のことは智子にも話したことがないのに気付いた。 

「先生はなぜ白血病のことご存じなんですか?」

 西澤はニヤッと笑った。

「僕はシャーロックホームズばりの推理力を持ってるからね。君のコロナの重症化のスピードがあまりにも早かったから、何か原因があるんじゃないかと心配になって、いろいろ調べたんだ。何しろ君はプライベートなことは一切話さなくて、僕は何も知らなかったからね。

 君が極端な注射嫌いだったところから、足が付いたのさ。君の子供の頃には、もう余程の事がない限り、子供にトラウマになるような痛い注射なんかしないようになっていたはずなんだ。だから何か理由があるんじゃないかと思った。それで南君に聞いたら、小さい頃入院した時の経験のせいだと教えてくれた。

 君がその頃ここら辺に住んでいたことも分かっていたから、もしかしたら入院したのは東都大学病院かもしれないと思って、小児科の藤田先生に聞いてみたんだ。彼は小児科の生き字引と言われるくらい、記憶力がいいからね。そうしたら何と大当たりだった。彼は君のことをちゃんと覚えていたよ。病名も教えてくれた」

 葵は驚いた。なんという推理力だろう。

 だがその後でふと青ざめた。常日頃白血病のことを考えるとき、葵は自分自身の罹った病気としてより、ついそれがもたらした母の悲劇の方を思い出してしまう。だが白血病に罹ったという事実を西澤に知られてしまったと分かった途端、昔医学部の講義で聞いたあることを思い出したのだ。 

 それは男性不信とは別に、葵が恋愛や結婚にひどく消極的な理由にもなっていた。 

「先生は……あの……病名を聞いた時ショックじゃなかったんですか?」

 西澤はちらっと葵を見た。そして青ざめて思いつめた表情が物語る、葵の不安の原因が何なのかを、すぐ見抜いた。だが彼はまず違うことから話し始めた。

「もちろんショックだったさ。僕は血液腫瘍内科医だからね、君が小さい時どれほど辛い治療を受けたかよく分かる。それに君は一緒に治験をやってた頃、しょっちゅう顔色がひどく悪かったから、再発やその他の血液疾患の可能性も完全には否定できなかった。もし再発していたのなら回復は殆ど不可能だっただろうからね、ショックどころじゃない、まさに凍り付いたよ。

 あの状態では、骨髄検査なんか到底できなかったし、暫らくはまともにものを考えることすらできなかった。同僚がアドバイスしてくれて、君の三年前の肺炎の既往歴にたどり着けなかったら、心配のあまりどうかなっていたかもしれない。寿命が縮んだ。

 だけど君が言いたいのは、そのことじゃないんだろう? 白血病の晩期合併症のことじゃないのかい?」

 西澤の洞察力は本当に凄い。ずばりと葵の不安の核心を突いてくる。葵が恥ずかしそうにうなずくと、

「あの時藤田先生にカルテを見せてもらって、治療経過も詳しく見た。君の治療は極めて順調だったし、再発もしていない。造血幹細胞移植もしなくて済んでる。だから今まで問題なく過ごしてきたのなら大丈夫だよ。

君は医科の講義を殆ど聴講したと荻野教授が言っていたから、晩期合併症のことも詳しく知ってるんだね? だけど自分が子供の頃、どういう治療を受けたかは分からなかった。だから不安だったんだろう? 

 だけど多分君が一番気にしてるだろう不妊のことも、君程度のレベルの治療なら、最近の統計では一般の人と殆ど変わらないと言われているんだ。

 それに今のご時世、不妊を心配するカップルは三組に一組もいると言われているぐらいなんだから、誰にでも起こり得ることなんだよ。僕はね、子供のことはどっちでもいいと思っている。本当だよ。

 とにかく当分の間は、目の素晴らしく綺麗な、無茶ばかりして放っておくとすぐ病気になる、天才的な研究者の面倒を見るのに忙しくて、子供まではとても手が回りそうもないからね。調べたら、君の前科がぞろぞろ出てきた。南君がみんなバラしたからね。全くとんだ凶状持きょうじょうもちだよ」

 葵は返事をすることができなかった。長い間心の奥深くでくすぶっていた不安が、こんな形で一気に解消するとは思ってもいなかったのだ。だから西澤の言葉が心底嬉しかった。

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