第48話 カミングアウト
葵は話を聞きながら、ある意味紗也佳さんの事が猛烈羨ましかった。
(これ程家族みんなに愛され、大切に思われていたなら、たとえ道半ばで病に倒れても、私なら本望だったんじゃないだろうか)
葵は、いくら望んでも決して親の愛を得られなくなった、自分の子供時代のことを思った。
「余計悲しませちゃったかしら? そんなつもりじゃなかったのだけど」
「いえ、そうじゃないんです。ただ紗也佳さんの事が羨ましかったから」
「えっ?」
綾子さんは驚いた顔をした。
葵はハッとした。思わず言ってしまった言葉に激しく動揺した。家族のことは絶対誰にも知られたくなかったのに、今何も言わないでいると変に思われそうだった。それに葵自身家族のことを何も話さないでいるのが、だんだん辛くなってきていた。わざわざ娘さんの話までして、こんなにも親身になって心配してくれているのに……
散々ためらったあげく、葵はやっとの思いで言った。
「紗也佳さんが、私と違って、ご家族みんなに愛されて、大切に思われていたから…… 私の存在はみんなを不幸にしたのに……」
「そんな訳ないわ。どうしてそう思うの?」
「それが事実だからです」
綾子さんは黙って葵のことをじっと見ていたが、やがてきっぱりといった。
「全部話してごらんなさい。きっとその方がいいわ」
「でもすごく嫌な話だし、話すのが怖い」
「あのね。辛くても嫌な話ほど誰かに話してしまう方がいいの。私は誰にも言ったりしないから」
それでも葵は暫く
けれど葵はふっと、急に綾子さんに話してしまいたい衝動に駆られた。自分で全てを心の奥に抱え込んでいるのは、堪らなく辛い。ふいに何か強烈なエネルギーが湧いてきて、全てを吐きださせたがっている気がしたのだ。
気が付くと葵は話し始めていた。
「……私の父と母は共通の友人を通じて知り合って、大恋愛の末結ばれたそうです。父は大きな会社のサラリーマンで、結構かっこいい人でしたし、母は奇麗で優しい人で、父のことをそれは愛していました。母は私の事もとても可愛がってくれていたので、小さい頃は幸せだったと思います。
ところが私が五、六歳の頃病気になって、長期入院しなくてはならなくなったんです。母はずっと病院に泊まり込んで付き添ってくれました。入院は八か月も続いたのですが、治療が辛かったし、私は一人っ子で、紗也佳さんのように我慢強くもなかったから、母は病院から殆ど離れられなくて凄く大変だったと思います。
退院後は一見平穏な日々だったのですが、私が九才の時、父はある日唐突に母と私を捨てて、出て行ってしまいました。他に好きな人ができたからだと言ってました。
母がなぜなのかと訊ねると、『お前は葵が病気になって以来、ただの愚かな母親になり下がった。髪振り乱して子供の世話に汲々とする。身だしなみも構わない、料理はいい加減、家の中は散らかり放題。女としての魅力も何もない。俺が働いてお前らを養ってやってるのに、何様のつもりだ』と。私の目の前で二人は言い争いを始めて……母はヒステリックに泣いていました。
尤もその頃には私はすっかり元気になっていたし、家もきれいに片付いていて、料理もおいしかったし、それに母は十分綺麗だったんですけど。
確かに退院した後も、しょっちゅう検査や診察があったし、母は心配性だったから私が風邪ひいて熱出したりすると、大騒ぎして入院してた病院に行ったり…… だから父の言ったことも、あながちでたらめばかりじゃなかったんですけど…… 多分父の心が母から離れてしまったのは、私が入院していた間なんだと思います。
でも言われた母は物凄くショックだったみたいで、父の出て行った家を気が狂ったように掃除したり、やたらにお化粧してみたり、おしゃれしたり…… でも父はたまに荷物を取りに帰ってくると、そんな母を馬鹿にしたように眺めていただけでした。
一番辛かったのは、母がだんだん情緒不安定になってきて、私に向かってヒステリックに怒ってばかりいるようになった事です。母はよく『あんたのおかげで私はお父さんに捨てられた。あんたなんか産むんじゃなかった』って言いながら泣いてました」
葵の声はだんだん震えを帯びてきた。それでも葵は何とか続けた。
「それからひと月ぐらい経ったある晩、父が一枚の紙きれを持ってやってきて、『俺はこんなことを続けるつもりはない、離婚するから書類を書け』って、離婚届を母に渡したんです。母は渡された途端それをびりびりに破いて、『あなたと離婚するくらいなら今ここで死にます』って言ったんです。父はせせら笑って、『お前にそんなことができる訳ないだろう。意気地なしのくせに』って言ったんです。そうしたら母は逆上してしまって、いきなりベランダに出るなり手すりを乗り越えて、マンションの四階から飛び下りちゃったんです」
震える声でそこまで話すと、突然あの時の光景が
そんな葵を見て、綾子さんはショックを受けた。まるで彼女の心の壁にパックリ亀裂が入り、そこからドクドクと血が吹き出てくるようだった。これ程の苦しみを目の当たりにしたのは、いつのことだろう。娘の最期をみとった時以来だ。あの時の夫の顔が忘れられない。
綾子さんは急いで葵のそばに行くと、黙って葵を抱きしめた。
「止められなかった。時間はあったのに……」
葵は絞り出すようにそう言うと、綾子さんにしがみついた。
葵は心の痛みに必死で耐えながら、綾子さんが優しく抱きしめてくれるのを感じた。
(あの時のサチ姉と同じだ。温かい)
そうして暫く無言のままじっとしていると、漸く葵も少し落ち着いて来たので、綾子さんは葵を居間のソファーに連れていき、そこで並んで座ると葵の肩を抱いたまま言った。
「辛い話だったわね。もうこれ以上話さなくてもいいのよ」
でも葵は漸く落ち着いてくると、首を左右に振って何とか自分を取り戻した。
「いえ、もう大丈夫です。お願い、最後まで話させてください」
綾子さんは葵をじっと見ていたが、やがてうなずいた。
「お母様、どうなったの?」
「母は頸椎損傷で下半身マヒになったし、頭を強打して脳挫傷と頭がい骨骨折で手術したんですけど、まるで子供のようになってしまって、記憶も、思考力もほんのわずかしか残らなかったんです。いつもぽかんとして幼児のように泣いたり笑ったり駄々をこねたり。でも不思議な事に、父の事だけは最後まで覚えていて、お見舞いに行くといつも、『もうじき良くなったらお父さんが迎えに来てくれるの。だから早く良くならなきゃ』と言ってました。私の事はけが以来一度も娘として認識できなかったのですけど」
葵はため息をついた。亡くなった今でも、娘を全く認識出来なくなった母親の話をするのは辛かった。綾子さんは暫く黙って葵の肩を抱いていたが、やがて言った。
「お母様はその後どうされたの?」
「母は療養型の介護施設に入りました。ついこの間亡くなるまでおよそ二十年間ずっとそこで暮らしたんです」
「そう」
綾子さんにはそれ以上言葉が見つからなかった。
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