第28話 葵の秘密
結局葵は入院七日目に漸く人工呼吸器を外すことができた。少しずつ麻酔薬を減らし、意識を取り戻しつつあった彼女に、西澤は丁寧に手順を説明し、呼吸を合わせると一気に抜管した。葵は最初せき込んで喘いでいたが、すぐに酸素マスクをつけられると徐々に落ち着き、何とか自発呼吸に移行することができた。息を呑んで見守っていた西澤も他のスタッフも、それでやっとホッと安堵したのだった。
入院以来初めて意識を取り戻した葵は、西澤が優しい眼差しでじっと見守っているのに気付いた。
「落ち着いたかい? 気分はどうかな?」
そう言ってそっと手袋をした手で額の前髪をかきあげてやると、葵は美しい目を瞠っていたが、やがてそのまぶたを閉じると、大粒の涙をはらはらと流し始めた。
「泣かないで、もう大丈夫なんだから。呼吸が乱れるぞ」
西澤がそう言いながら、涙を指で拭ってやると、葵はますます止めどもなく涙をこぼし続けた。
「もう暫く眠りなさい。とにかく何も考えないで、良くなることだけを意識するんだぞ」
西澤の言葉にただうなずいた葵は、その一瞬、ずっとこのままでもいいと思うほど幸せだった。
一方西澤は葵の涙を見て決心した。南智子の所へ行くと、時間がある時話がしたいと告げた。智子の方もある程度予測していたようで、何も聞かずに今晩なら非番なので時間があると答えた。
今はちょうどコロナの第一波が落ち着き、少しゆとりのある時期だったので、西澤はうなずいて了承した。ずっと葵の事が気になって、シフトも何も無視してコロナ病棟に居続け、たまに仮眠室で睡眠を取る以外勤務しっぱなしだったので、回りの連中に頼めば、少しの時間の調整はしてもらえるだろうと思った。
その夜二人は病院の中庭にある、ベンチとテーブルが置かれているスペースの一角に陣取り、西澤が近所のパン屋から取り寄せたサンドイッチとサラダとコーヒーで夕食を摂った。殆ど話もせずとにかくまず食べたのは、お互い激務なのでチャンスのある時に食べておかないと、身が持たないのが分かっていたからだ。
やがて食べ終わると、二人はマスクをして、漸く話す体制になった。
「さあ話って?」
智子が切り出した。察しはついているくせにと西澤は思ったが、顔には出さず言った。
「葵君の事、何もかも全てだ。君の知っていることはみんな知りたい。もう二度とこんなことは御免だ」
「じゃあ覚悟はできたの?」
「そうだ。」
西澤はきっぱりと答えた。智子もうなずくと、つぶやくように言った。
「長い話になりそう。どこから話したらいいかな」
智子はちょっと考えをまとめるように黙った。
「私と葵は、高校の時も同級生だったんですけど、実は小学校も暫く一緒だったんです。二年生から四年生まで三年近く。たまたま二人とも同じ団地の隣同士の棟に、ほぼ同時に引っ越してきた転校生だったのもあって、最初にクラスが同じになった時から凄く気が合って、私たちすぐ友達になったんです。家もとても近かったから、しょっちゅうお互いの家に遊びに行ってたし、お母さんとも親しくなった。彼女かわいくて頭も良かったけど、相当おてんばで性格も天然だったから、クラスでは結構人気者だった。でも私たちは特別に仲良くなったんです。
彼女のお母さんは、ちょっと憂いを含んだような凄くきれいな人で、優しくてお料理も上手だったし、私が遊びに行くとよく美味しいお菓子を作ってくれて、三人で一緒にお茶したりしたんです。楽しかったな。
ところが小学校四年の一月頃から急に葵の様子が変わってきて、彼女突然すごく暗くなって、全く笑わなくなったし、時々ぼんやり考え込んでいたり、私が放課後うちに誘っても、全然来なくなった。それに私が彼女の家に行くのを極端に嫌がるようにもなったんです。
そんな様子が一ヶ月近く続いて、私も訳が分からなくて凄く落ち込んだのだけど、ある日決定的な出来事が起きて謎が解けたんです。
彼女の家とうちは狭い道路を挟んでちょうど向かい合わせの棟の三階と四階だったのだけど、ある日向かいの棟から激しく言い争っている声が響いて来て、何を言っているのかは窓が閉まっていたから良く分からなかったけど、物凄い喧嘩をしているのは分かった。
最初は何だかわからなくて何を外で騒いでいるのだろうと窓を開けて見ていたら、葵が家から走り出て外へ飛び出していくのを偶然目撃したんです。
私何も考えずに大急ぎで後を追いかけたんです。そしたら彼女団地の中の公園のベンチに座って顔を両手で覆ってた。私が追い付いて声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げたけれど、諦めたのか逃げたりはしなかった。側まで行くと、葵はしがみついてきて泣きじゃくりながら言ったんです。
『お父さん別の人が好きになったから、お母さんと私を置いて出ていっちゃったの。
お母さんが、出ていくお父さんに私のどこが気に入らないのかって聞いたら、お前は葵が病気になって以来、ただのつまらない母親になり下がった。男から見れば魅力も何もないって言った。それでたまにお父さんが荷物を取りに帰ってくると二人で喧嘩ばかりしてるの』って言ったんです。
良くあるパターンですよね。自分勝手な男の典型だと思う。だけどお母さんの方は、心底ご主人に惚れ込んでいたみたいなんです。ご主人は一、二度会ったことあるけどハンサムで背が高くてかっこいい人だったから。
私ならあんな男こっちから願い下げだけど、彼女のお母さんは諦められなくて、必死にご主人にしがみつこうとしたみたいです。
それでだんだん不安定になってきて、ヒステリックに葵に当たり散らすようになったんです。
『あんたのおかげで、私はお父さんに捨てられた。あんたなんか産むんじゃなかった』ってしょっちゅう言われてるって言ってました。ひどい話でしょう?
でもそれがむしろ逆効果だったんです。御主人はますます図に乗ってしまって、ある日お母さんに離婚を迫ったんですって。お母さんは激怒して、離婚するくらいなら死んだ方がましだと言ったらしいです。そうしたらお父さんが、そんなことできるものかってあざ笑ったものだから、お母さんは逆上してしまって、葵の目の前でベランダに出るなり、そのままベランダの柵を乗り越えて本当に飛び下りちゃったんです」
西澤はハッとした。何とむごたらしい話だろう。しかもそれを葵の目の前でやったのか。
智子は淡々と続けた。
「飛び下りたのがマンションの四階だったので、ひどい結果になって、お母さんは命も危うくなってしまったんです。
うちの母が、葵を救急車の後から車で病院に連れて行って、ERの外で待ってる間ずっと付き添っていたんですけど、葵はうつむいて震えながら、『何で止められなかったんだろう』って時々発作的に言うんですって。その度に母は『そんなこと大人でも無理だったのよ』って慰めたのだけど、葵は首を横に振って顔を両手で覆ってしまって、可哀そうで見てられなかったって言ってました。
お母さんは命は助かったのですけど、頸椎損傷で下半身マヒになって歩けなくなったし、脳の損傷もひどくて、手術を受けたけれど結局まともに考えたり記憶したりが出来なくなって、まるで小さい子供のようになってしまったんです。
葵はそれが分かった途端ショックでボーっとなってしまって、暫くまともな反応を何もしなくなってしまったんです。
随分後になってから一度だけ本人から聞いたことがあるんですけど、その時彼女は真っ白な霧の中にいるような気がしたんだそうです。まともには何も聞こえないし、何も見えてなかったって言っていました」
(一種の急性ストレス障害かな)と西澤は心の中でつぶやいた。取り敢えずやっと白い霧の正体が分かった。
「葵のそんな状態は一日以上続いて、何にも飲み食いしないので、母が心配して病院で点滴してもらったりしたんですけど、痛いとも何とも言わなかったんですよ。私葵がもう二度と現実の世界には戻ってこないんじゃないかと思ったくらいです。
けれど二日目に葵のお母さんの妹に当たる叔母さんが、病院から連絡を受けて
葵は事件の後暫くずっとうちに泊まっていたんですけど、しょっちゅう悪夢にうなされてました。でも結局お母さんがもう治らないと分かったら、児童相談所の職員の人が来て、葵を養護施設に連れて行きました。」
「父親はどうしたんだ?」
「事件の当初は警察の事情聴取とか受けていたらしいんですけど、結局無罪放免になって、その後暫くしてどさくさに紛れて、勝手にお母さんの分まで離婚届に判を押して、さっさと離婚しちゃったらしいです。あんな騒ぎになって、驚いて逃げ出したのだろうと母は言ってました。葵はあの自殺未遂事件以来一度も会ってないし、今どこにどうしているかも知らないと言ってます」
西澤はテーブルの上でぐっと握ったこぶしが、怒りのため微かに震えているのに気が付いた。
「彼女はその後どうしたんだ。ずっと養護施設で育ったのか? それともお祖父さんお祖母さんの所とか?」
「いえ彼女の母方のお祖父さんお祖母さんはどちらも彼女が小さい時事故で亡くなっていて、もういなかったんです」
「父方の方は?」
「葵のお父さんの家庭は複雑で、お父さんが小さい頃両親が離婚して、母親は家を出たらしいです。お父さんは父親の実家でお祖父さんお祖母さんに育てられたそうですが、葵の両親が結婚したころは、どちらももう亡くなっていて、葵はお父さんの実家とは殆ど付き合いがないと言っています」
葵の父親の自己中は、年寄りに甘やかされて育ったせいかもしれないなと、ふと西澤は思った。
「葵は暫く養護施設にいたのですが、四ヶ月後くらいに叔母さんが引き取りに来てくれて、それから大学一年まで一緒に暮らしていました。
叔母さんという人はお母さんより十歳近くも若くて、両親の事故の後は暫く葵の家に同居していたくらいで、葵は本当になついていたんです」
智子はため息をついて暫く黙った。
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