第26話 煩悶
葵はその後何日も生死の境をさ迷った。西澤は淡々と仕事を続けながら、時々数時間仮眠室で眠ったが、絶対コロナ病棟から出なかった。さすがに周りのスタッフも、尋常でない西澤の様子に皆気づいたが、何も言わずただ見守ってくれていた。西澤にしても、むしろ仕事をしている方がまだしも救われた。何もする事が無いと、耐えられない程の後悔の念に
彼はなぜ葵が若いのに、これ程早く重症化したのかがひどく気になっていた。入院直前PCR検査場で猛烈働きまくり、疲労
そんな中ふとあることを思い出した。そういえば極端なほどの注射嫌いだから、何かトラウマになるような治療を受けたことがあるのかもしれない。彼は南看護師を急いで捕まえた。
「葵君が注射恐怖症になったのは、何か原因があるのか聞いたことがあるかい?」
「あります。昔、葵がまだ小さい頃長く入院したことがあって、その時物凄く痛い注射を何回もされてから、恐怖症になったと言ってました」
「何の病気だったか聞いたかい?」
「いえ、そのことは何も言いませんでしたので」
葵の年だと小さい頃と言っても、せいぜい二十数年前のことだ。もうその頃には子供に痛い注射を打つなんてことは殆どしなかったはずだ。飲み薬と点滴で大抵のことは対応できるようになっていたし、筋肉にダメージを残す可能性が指摘されたからだ。もし打ったとすれば余程特殊な検査や治療を必要とする病気だ。
「葵君が小さい頃は、この辺りに住んでいたと言っていたような気がしたが」
「はっきりどことは知らないですが、この近くだと言っていました」
だとすると、難しい病気なら、入院したのはこの病院かもしれない。西澤は急いで小児科に電話してみた。そこの藤田という医師は定年間近なのだが、物凄い記憶力の持ち主で、小児科の生き字引と言われている。昔の患者のことを実によく覚えていて、今までにも、総合診療科の患者で、子供の頃ここで治療したことがある人の病歴を詳しく知りたい時は、時々尋ねていた。それに小児科は必要上カルテを他の科より余程長く保存している。
幸運なことに藤田はすぐ捕まった。聞いてみると、カルテに頼るまでもなく、彼は何と葵のことを覚えていると言う。
「井上葵ちゃんね。良く覚えているよ。物凄くきれいな目をした子で、頭も良かった。やんちゃで活発な子だったから治療には手を焼いたけど、その分かわいかったな」
「何の病気だったんですか?」
「白血病だよ。急性リンパ性白血病だ」
西澤は、心の奥ではある程度予感していたのだが、それでも実際に聞くとやはり胸が痛んだ。
「幾つぐらいの頃ですか?」
「五、六歳の頃じゃなかったかな。詳しく知りたいなら、カルテを見せるよ。再発したのか?」
「いえ多分違うと思うのですが、良く分からないのです。重篤なコロナに罹って、入院中なのですが、まだ若いのに、急速に悪化したので、何か理由があるんじゃないかと気になって」
「再発してないなら、白血病の罹患歴とはあまり関係ないと思うがな。化学療法は順調だったし、経過観察していた間は再発もしていない。晩期合併症(病気が治ってから何年も経ってから、現れてくる後遺症)で特別免疫力が低かったということもなかったと思うな。確か十歳頃から消息不明になってしまったが」
「消息不明?」
「いや単純に定期検診に来なくなったというだけだ。そういう患者は結構いるよ。でも彼女の場合は、母親がそういうタイプには見えなかったんだがな。入院中はそりゃ必死になって看病してたし、退院後の検診にも熱心に来ていた。まあ便りがないのは元気な証拠というし、具合が悪くなったら、遠くに引っ越したとかじゃない限り、ここに戻ってきただろうと思うがね」
西澤はその後すぐ藤田が取り寄せてくれたカルテに素早く目を通した。彼が言ったように、経過は概ね順調だったようだ。もちろん白血病なのだから、治療は過酷で長期間に及んでいたが、寛解になったのも比較的早かったし、再発もしていない。
だが何回か骨髄検査や髄注(髄腔内に抗がん剤などを注入する治療)をやっているから、葵が注射恐怖症になったのも無理なかった。当時骨髄検査はまだ麻酔せずにやっていたかもしれない。
(まさかこのところの激務で、白血病が再発して、免疫力が極端に落ちたんじゃないだろうな? その可能性も絶対ないとはいえない)
西澤は蒼白になった。一緒に治験をしていた頃、葵は時々ひどく顔色が悪かった。もし再発しているのなら、今の状態では回復はほぼ絶望だろう。
急いで入院時の血液検査結果をもう一度詳細にチェックしてみる。ひどい感染症にかかっているのだから、当然白血球の値は高いが、それだけでははっきりしたことは分からない。血液腫瘍内科医としての経験から言えば、白血病の兆候はあまり見られないように思える。だが他の血液疾患の可能性もあるし、確定診断は骨髄検査をしてみなければ分からない。でも万が一再発が分かったとしても、今の状態では化学療法など始められるはずもなかった。結局検査しても、葵の身体に負担をかけるだけだ。
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