第18話 初めての思い

 病院の駐輪場に自転車を取りに行き、紙の手下げを二つ前かごに入れると、葵はぶらぶらと自転車を押しながらアパートのある方へと歩いて行った。

(まず家に寄ってバッグをウエストポーチに変えよう。コートも軽くてたっぷりしてる方

が楽だな。そう言えば今日の電車賃と食事代はあるんだろうか?)

 ふと気になって西澤が取って来てくれたショルダーバッグから財布を取り出し、中身をチェックしてみる。千円ちょっとしか入っていなかった。給料日は明後日だ。

(今日の分はあるけど、明日の食費が足りないか。それに電車賃ないからやっぱり自転車で行かなきゃ。別にそんなに肩に負担かからないから、スピード出さなきゃ大丈夫だよね。あの先生心配症だから…… 今晩はやっぱり智子のうちに転げ込むか、それとも例の手を使って大食いのただ飯をやるか…… そうだ、パンの耳をもらってくる手もあるな)

 近所にあるパン屋さんは顔なじみで、葵は時々サンドイッチ用に切り落としたパンの耳をもらってくる。袋に多量に入っているので、マヨネーズをつけたり油をかけてチンして砂糖をまぶすと、いよいよ困った時の腹ふさぎになる。ただパンの耳はいつもあるとは限らない。

(今月は仕事が忙しかったから、そんなにお金使ってないはずなんだけど、やっぱり足りなくなったなあ。まあどうせ毎月ギリギリなんだけど)

 のんびり歩きながらとりとめもない事をあれこれ考えているうちに、昨日のレストランでの食事の事を思い出した。

(昨日の食事は本当に美味しかったな。あんな料理食べたこともなかった。まさに別世界だ)

 そして火傷をした時の衝撃と、セーターを払おうとする葵の手を押さえて、水をかけ続けてくれた西澤の力強い手と、真剣な表情を思い出し、胸が熱くなった。

(あの先生は確かに医師としては物凄く優秀なんだ)

 その時突然葵は立ち止った。ふっと感じた自分の感情に愕然がくぜんとしたのだ。

(なんで今まで気づかなかったんだろう。私は西澤先生が好きなんだ。男の人なんて絶対好きにならないと思ってたのに……)

 今まで葵は男性を好きになったことも、いわんや恋をしたことも一度もなかった。

 一方で葵のことを本気で心配してくれた若い男性も一人もいなかった。だからそういう気遣いに、葵はまるで免疫がなかったのだ。それで西澤の優しさが、知らないうちに葵の心のバリアを崩してしまっていた。さらに智子から西澤が女嫌いだの恋愛拒否症だのと聞かされていたので、つい安心して警戒を緩めてしまっていた面もあった。

(だめ、これ以上好きになっちゃ。ろくなことにならないんだから) 

 いつのまにか下宿に着いていた。部屋に入ると薄暗く、よどんだ空気が鬱陶うっとうしい。自転車ならウエストポーチにする必要もないので、壁のフックに掛けてある相当くたびれたスタジアムジャンパーを羽織り、昨日帰る時持って帰ったリュックの中から、顕微鏡や文献を見る時に使う、あまり度の入っていない眼鏡を取り出してかけた。色付きレンズにはなっていないが、黒縁のデザインは、壊れてしまった眼鏡とそっくりだった。これで少しは気持ちが抑えられるかもしれない。

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