第15話 眼鏡

智子は救急患者用の作務衣さむえ風のパジャマと毛布を棚から出してきて、葵が着替えるのを手伝った。

「このセーター、超気に入ってたのに」

 葵が切り刻まれたセーターの残骸ざんがいを悲しそうに眺めているので、智子は笑いながら慰めた。

「大丈夫、また同じようなのを買ってあげるから。さあこれでよし。今日は急患用の三階の十号室にベッドの空きがあるって。あの痛み止めは鎮静効果もあるから、きっとぐっすり眠れるわよ」

「でも血液検査のデータを精査してないから、明日治験者の所を回る時困るな」

「一日ぐらいお休みしても大丈夫よ。うまくいってるんでしょう?」 

「うん、思った以上に」

「良かったわね。今までの苦労が実を結んで」

「うん、患者が回復してきたのが、一番嬉しい。夢みたい」

「なら大丈夫、西澤先生がちゃんと事情を説明してくださるから、安心して今晩はお休みなさい」

「ん、ありがとう」

 葵は歩けると言ったが、智子は用心して車椅子を持ってきてそれに葵を乗せ、上から毛布を掛けた。

 二人は処置室を出て、廊下を行き、エレベーターで三階に上がると十号室に入った。そこは一人部屋なので、遅い時間でも他の患者に気を使わなくて大丈夫なので助かった。葵は何だか物凄く疲れてしまったので、大人しくベッドにもぐりこんだ。

「火傷の所がベッドに触っても大丈夫かな?」

「大丈夫よ。包帯をきっちり巻いてあるし、水膨れの所は多分ちょうどこすれない所だから。まだ痛む?」

 智子は布団をかけながら聞いた。

「少し、でもそれより寒い」

「じゃ、毛布を追加するわ。今持ってくるから」 

「ありがとう、智子」

 部屋を出ようとしている智子に、葵はそっと声をかけた。智子は軽く手を上げて答えると、部屋を出ていった。

 リネン室に行き、毛布を持って部屋に戻ってくると、葵はもう寝入っていた。薬が効いて来たのだろう。そっと毛布を掛けると、智子は明かりを消して部屋を出た。

 もうすぐ十時だ。救急処置室に戻ってみると、スタッフが何人か戻っていた。交代の看護師もいる。葵の後、急患は来てないと言う。智子がいない間は、暫く西澤がカバーに入ってくれていたようだが、今は総合診療科の診察室の方にいると聞かされた。

 それで智子は連絡事項を引き継ぐと、皆に断って今日は上がらせてもらった。ロッカールームで急いで着替え、そんなに離れていない総合診療科の診察室に急ぐ。

 近付くとそこだけ明かりがついていて、西澤が何やら横文字の文献を読んでいた。智子がノックして入って行くと、顔を上げた。

「お待たせしました」

「いや、疲れている所をすまない。とにかく掛けてくれ。葵君は寝たかね」

「はい、あっという間でした。彼女ああいう類いの薬は凄く良く効くんです。アルコール類も超弱いし」

「それは本人からも聞いたことがある」

 智子は落ち着かない様子で患者用の椅子に座った。

「なんだか診断を聞く患者か、失敗して叱られに来た看護師みたいな気分です。聞きたい事ってなんですか?」

「まあそんなに構えないでくれ。取って食いやしないから」

 そう言いながら智子に自販機で買った麦茶を差し出した。そういえば南君が駆け出しのER看護師の頃は、良く叱ったっけと思い出して西澤は苦笑した。

「実は葵君の眼鏡の事なんだ。今日レストランで大騒ぎしている間にすっ飛んだらしくて、気付いたらなくなっていた。さっきレストランに電話したんだが、まだ見つかってないと言っていた。あれは医療用なのかい? 別に本人まぶしいとも良く見えないとも言わなかったんだが。というより、眼鏡をしてない事そのものに、気付いてないようだった。まあ火傷の痛みで相当動揺してたから、ある程度は分かるんだが、それにしても何らかの目の病気なら気付くはずじゃないかと思ったものでね」

 智子は困ったような表情をしてうつむいてしまった。あまり話したくなさそうだ。

「君はそもそも彼女とはどういう知り合いなんだ?」

「友達です。学生時代からの」

「それなら知ってるだろう? 彼女は目の病気なのか?」

 智子は暫くうつむいていたが、断固とした西澤の態度に、これに関しては答えないわけにもいかないと思い、仕方なく答えた。

「いえ違います。軽い近視ですが」

「なぜあんな眼鏡をかけているのか聞いても、答えてくれそうもないな」

「はあ、彼女のプライバシーですから」

 智子は麦茶のふたを開けながら答えた。やはりそうだろうなと西澤は思った。

「彼女はいわゆるLGBTQじゃないんだろう?」

 それを聞いて智子は飲みかけていた麦茶にむせてしまった。暫く苦しそうに咳込んでいたが、収まると漸く言った。

「先生、それは考えすぎです」

「だが最初彼女に会った時、私は男性かと思ったんだぞ」

 智子は一瞬呆気にとられていたが、そのうち笑い出した。そうしたら止まらなくなったらしくて笑い転げている。西澤はムッとしたような顔をしていた。智子はやっと笑いが収まると、不意に立ち上がった。

「彼女にそう言っておきます。他にご質問がなければ、私はもう帰らせて頂いてもよろしいでしょうか?」

「いや、言わなくていいから……」

 西澤はまだ聞きたいことが山ほどあったが、どうせ聞いても答えてくれそうもないと悟って諦めた。

 智子は憮然ぶぜんとしている西澤が、ちょっと気の毒になったが、その思いを振り切って診察室を出て行った。

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