第10話

 橘という新任教師が、クラス以外の部分でもやたらに結希を気にしている――という話を彼女から聞いたのは数日前のこと。

 「家出問題を解決しなきゃ」「親ときちんと話すべき」という教師ならではの情熱を持っているらしく、結希は「正直、放っておいてほしい」と思いながらも、まったく耳を貸さないわけにもいかず戸惑っているようだった。


 残業を終えてマンションへ帰る頃、天気はすでに荒れ気味だった。暗雲が立ち込めて雷鳴がときどき響き、空気がじっとり湿っている。

 八畳のワンルームのドアを開けると、結希がテーブルでノートを広げていた。部屋着に着替えて、少しだけ硬い表情を浮かべている。


「ただいま。……荒れてるな、外」

「おかえりなさい。……うん、雷が鳴ってるみたいで、ちょっと怖いです」


 小さな電気スタンドの下で教材を眺める彼女を見ながら、ふと橘のことを思い出して訊く。


「例の先生、橘って人……今日は何か言ってきた?」

「ううん、今日は直接は何も。正直、面倒ですね……」


 そう言って、結希はテーブルに肘を突いて眉をひそめる。心中で(どうにかならないのか)と嘆いているのがわかる。雷鳴がズシンと鳴り響くのに合わせるように、彼女の肩がかすかに震える。


 俺がスーツの上着を脱いでハンガーにかけていると、外から大きなゴロゴロという低い唸りと、閃光が窓越しに走った。


「……わ、近いな。雷嫌い?」

「正直、ちょっと苦手……」


 結希がパーカーの袖を握りしめた途端、部屋の照明がパチッと音を立て、一瞬で真っ暗になった。どうやら停電らしい。


「え、嘘……停電?」

「マジか……」


 八畳の空間が急に闇に沈む。テレビや冷蔵庫の音も止まり、遠くから住人の動揺する声が聞こえる。

 結希はソファから立ち上がろうとして、何かにつまずいたのか「きゃっ……!」と短い悲鳴。


 俺は慌てて「大丈夫か?」と手を伸ばすが、視界がないに等しい闇の中で、思いきり彼女の身体にぶつかる形になった。

 すると結希はよろめきながら、俺の胸に倒れ込む形になり、ぎゅっと抱き留める形になってしまう。小柄な彼女の身体が軽く、息遣いまで感じるほど至近距離だ。


「わ……ご、ごめん……」


 俺も動揺で声が上ずる。彼女も「あ……あの……」と戸惑いながら、咄嗟に腕を掴んでくる。暗闇だからこそ、触れ合う体温がやけにリアルだ。

 外から雷の音が再び響き、結希はビクリと身体を強張らせる。


「怖い……雷、嫌いで……」

「大丈夫、落ち着いて。……ここにいるから……」


 つい自然に、頭をそっと撫でるような動きになってしまう。揺れる鼓動が二人の間で跳ね合うように感じられる。


 そのまましばらく、明かりは戻らない。結希は「すみません……私、本当に苦手で……」とか弱々しく呟きながらも、実際は雷鳴に怯えて動けずにいるらしい。

 俺は腕の中で震える彼女を感じながら、「なんだこの状況……」と内心思うが、離れられない。むしろ守ってやりたい気持ちが溢れてくる。


(そんなに嫌いなんだ、雷……)


 普段気丈に見える結希が、こうして弱い部分をさらけ出すのは珍しい。すっかり闇に目が慣れてきて、彼女の輪郭がぼんやり見える。頭頂部から漂うシャンプーの匂い、華奢な肩の震え――こんなに近いとは思っていなかった。


 しばらくして、雷が鳴り止むと、結希が小さな声で切り出す。


「……ね、あの、慎さん……って呼んでもいいですか。ずっと“お兄さん”とか言ってたけど、少し変だし……」


 何も見えない暗闇の中で突き刺さるその提案。いつの間にか彼女は俺の名前を覚えていて、“呼びたい”と思ってくれたらしい。


「俺の名前……あ、うん。いいよ……」


 思わず答えながらも、自分でも顔が熱くなっているのがわかる。


「私のことも、結希でいいです……」

「わかった……じゃあ、結希って、俺も呼んでいい?」

「……はい……」


 まるで雷の恐怖を上回る緊張感が走る。たかが名前の呼び方が、ここまでドキドキするなんて。

 俺は闇の中、さらに強く彼女を支え、「結希……もうちょっとしたら停電も直るよ。大丈夫だから」と小さく囁く。結希は「うん」とかすかに頷く。


 その後、少しそうしていると、部屋の照明が急に点いた。テレビや冷蔵庫が一斉に動き出し、狭い部屋が元の喧騒を取り戻す。

 明るさに慣れず、俺たちは目を瞬きさせて距離を取る。結希は「ご……ごめん!」と真っ赤な顔でパーカーを整える。

 昨日まで「お兄さん」なんて呼んでいた彼女が、“慎さん”なんて口にしそうで、頭が追いつかない。だけど、確かにそう呼ばれた。


「結希……その、無事でよかった。怪我してない?」

「うん、平気。……ありがとう、慎さん……」


 もう一度名前を呼ぶ結希の声が聞こえた瞬間、心臓がはねる。雷鳴が消えたけど、この胸の騒ぎはしばらく治まらないだろう。


 停電が直り、日常が戻ると一気に気恥ずかしさが襲う。結希はテーブルに戻ってノートを広げているが、ほとんど上の空のようだ。

 俺もソファに腰かけてスマホを確認しながら(さっきのは何だったんだ……?)と内心思う。雷の恐怖を共有したというだけじゃ説明できない胸の高鳴りが残る。


「……あ、そういえば橘先生、どうするんだろう……」


 結希が思い出したように呟く。普段なら鬱陶しい話題に感じるのに、今は俺も不思議な余裕がある。


「さあ……また近々動くとか言ってるみたいだし、何かあったら教えてくれればいい。結希が無理しない範囲で」

「……うん、ありがとう、慎さん」


 “慎さん”と呼ばれるたびに、思わず顔が火照るが、嫌な感じはしない。

 いつもと同じ八畳の部屋。だけど、この名前呼びの変化と雷の夜が、二人の距離を大きく進めたと感じるのは間違いない。


 結希は軽く伸びをして、「怖かったけど……慎さんがいてくれたから乗り越えられた」と小さく笑う。

 「良かった。俺も、結希が無事で良かった」と返し、何だか甘い空気が流れる。

 雷の音がもう聞こえない夜、狭い部屋の中で「慎さん」「結希」という新しい呼び方が溶け合い、ほのかなときめきが確かな形になり始めていた。


 そんな中、橘の動向は影を潜めているが、今夜だけは、部屋を包む温かい安堵感に身を委ねてもいい――そんな想いで、俺は小さく息をつき、彼女の隣で夜を過ごすのだった。

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