第12話 麗子と佐々木が結婚した

 嶋がカナダに赴任してから三年の歳月が流れた。

 晩秋の寒い日だった。一通の国際郵便が嶋の元へ届いた。それは麗子と佐々木が結婚したことを知らせる内容だった。差出人の名は佐々木良治と佐々木麗子だった。麗子の旧姓である中山の名はもう無かった。

 嶋の思いは複雑だった。麗子のことは確かにあの日佐々木に託しはした、が、二人が結婚するとまでは考えなかった。嶋にとっては麗子との恋は、謂わば、自分から手放したも同然のものだった。仕事の激烈さと心身の疲労困憊に紛れて便りどころか電話もメールもしなかった。麗子からの再三の音信にも返信すら出来なかった、否、出来なかったというのは言い訳にしか過ぎない、しなかっと言うべきだろう。今まで待っている訳が無いじゃないか・・・嶋は理屈ではよく解っていたが、心の片隅にはひょっとして未だ・・・との思いも無くは無かった。

 嶋の心の在り様は平静を欠いた。麗子への思いがどっと胸に蘇えって、それが溢れるほどに膨れ上がった。麗子の不在の大きさを今更ながらに思い知って、嶋は喪失感に打ちひしがれた。取り返しのつかない人生の大事なものを一つ失った気がした。


 嶋は酒に逃げた。

午前零時を回って雪が舞う寒い冷たい夜だった。

嶋は川に架かる橋の袂で蹲り、欄干を背に両足を前に投げ出してぐったりともたれかかっていた。見知らぬ男が屈みこんで嶋の両腕を掴み、ぐいっと引き起こした。嶋はどんより曇った鈍色の眼を開いたが、男には嶋が泣いているように見えた。

「おい、大丈夫か?」

男が英語で声をかけた。

「ああ、ああ、構わんで下さい」

嶋の声はくぐもって擦れ、眼も据わっていた。

「さあ、行こう。家まで送ってやるよ」

「放っといて下さいよ」

「こんなところに居たら凍え死んじゃうぞ!」

「放っといてくれと言っているんだよ!」

嶋は大きな声でぞんざいに怒鳴った。

だが、男が抱え起こすと、嶋は逆らわずに立ち上がった。が、ぐらっと前につんのめり、深く息を吸い込んで又、ぐらっとつんのめって橋の欄干に手をついた。

嶋は泥酔していた。それに苦渋と疲労に打ちひしがれてもいた。

 男がタクシーを止めて、半ば押し込むようにして嶋を乗せたが、住んでいる場所を尋ねられてもむっつりと押し黙って答えない。運転手は下呂でも吐かれるのではないかと気が気でない様子であった。男が、何かあったら自分が責任を持って始末するからと、車をスタートさせた。タクシーは雪の降り続く深夜の街路を疾走した。不意に嶋がタクシーを停車させて車から降りた。そして、男をちらっと見やってから、ふらふらと歩いて近くのマンションの戸口に立った。肩越しに振り向いてさっと正面に向き直った嶋が怒ったように言った。

「構わんでくれと言ったのが聞こえなかったのか?」

「いや、聞こえたよ」

「じゃ、放っといてくれよ!」

嶋は肩を落とし手で顔を覆うようにしてマンションの中へ入って行った。

 粉雪交じりの冷たい風が鋭く心をえぐって吹き抜けた今夜、千切れた男の愛の疼きや穢された男の純情の怒りを一人ぶっつけて、嶋は、暗い夜更けの街路に、立ち並ぶ高層ビルの谷間に、靴音を響かせて、呻くように歩きに歩いた。

そして、たどり着いたいつもの仄暗い酒場で、傷つけられた男の溢れる思いの痛みと踏みにじられた男の誠の憤りを、一人赤い酒に沈めて、無言で、拳を硬く握り締めながら嶋は苦いグラスを何杯も何杯も飲み干したのだった。たかが一人の女だ、なまじ涙は生命取りだ、と・・・

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