Ⅱ・凪
北の国の艦隊は、化石の国の海域に入る手前で船足をゆるめた。入江に停泊して、ここでマクセンス王からの返答をいったん待つのだ。
錨をおろした帆船の上甲板から、俺は波を隔てた陸地までの距離を恨めし気にはかった。
「岸まではさほど遠くない」
「泳いで逃げるなんてことを考えないでね、スカイ」
たとえ距離はたいしたことはなくとも、断崖絶壁に囲まれている上、こうも隙間なく敵船に囲まれていては陸を目指して泳いだとしてもすぐに捕まってしまうだろう。カティアを連れて海に飛び込もうかという案は、涙をのんで棄てるしかなかった。
帆船の周囲には、船底の浅いゼデミネンの船がまるで出走を待つ馬のように行儀よく整列して投錨している。大型帆船は俺たちの乗っているこの『ギマド』号と、そして隣りに停泊している御召艦だ。
御召艦。その名のとおり、あちらには北の国の王が乗っているのだ。
「まさか、本当に北の国の王が海に出られるとは」
「数年前から政の実務は嗣王子に任せておられるし、お年は召されていても根は武闘派だからじっとしていられないのでしょう」
本来ならばカティアも御召艦に招かれるところだが、御召艦には北の国の王とイグナツィオ・リュ・ゼデミネンが、そして姉妹艦の『ギマド』号には化石の国の俺たちという具合にふり分けられた。
「南の国の船と、海神の船を競争させたら、どちらが速いでしょうか」
「同じ横帆でも、漕ぎ手がいる分、海神の船では」
ゼデミネンの船を見もせずに俺の横からカティアが即答した。最初は丸木舟と同じに見えて頼りなく、すぐに転覆しそうにみえていたゼデミネンの海神の船だが、漕ぎ出すや否や、怖ろしい速度を出した。風をとらえた横帆が氷の上を滑る石のように細長い船体を押し出し、漕手の力が波を裂く。この沈まぬ船で世界のどんな荒波でもゼデミネン一族は超えていけたのだ。出航前、俺は大きな帆船に乗れたことでほっとしていたが、いざ船出してみると、高速の出る海神の船に比べて大型帆船はいかにも鈍重に、牛のように思えてくるほどだった。
「ずっと外にいると日焼けなさいますよ」
俺たちが乗っている帆船『ギマド』号のシツヤ艦長が、カザリクス船長と共に甲板を歩いてきた。シツヤ艦長はカティアに挨拶をした。
「南の国ほど太陽は強くはありませんが、膚を痛めることには変わりない。カルティウスシア姫、このあたりに日除けを出しましょう」
「ありがとう」
俺とカティアは帆や桁や、たくさんの静索や動索を見上げ、一つ一つについてシツヤ艦長とカザリクス船長に質問した。漁獲する時に使う網に似たものは、横桁や帆柱に登る時の梯子の代わりにするものだが、表ではなく裏側から、ほとんど逆さまのようになって水夫がすばやく登るのを目撃した時には背筋が寒くなってしまった。しかし、南風の神の島で俺が見舞ったマベッケも云っていたが、最初は怖くとも、そのうちどんなに高い帆の天辺に登ってもまるで平気になるそうだ。
「俺も」
「わたしも」
「あなたがたは駄目です」
するする登り降りしている船員を見ているとやってみたくなってしまうが、木登りをするのとはわけが違うとのことだった。
俺たちがはるか下に並んでいるゼデミネンの船を見ていることに気づいたシツヤ艦長は、
「古代、熟練の漕ぎ手を揃えて沿岸に攻め寄せていくゼデミネン一族の海神の船は、『蒼い狼』と呼ばれてひじょうに恐れられていたのです」と誇らしげに語り出した。艦長は眼下の船の中ではたらいている大勢の漕ぎ手を指した。
「それは現代でも変わりません。あの漕ぎ手たちは戦闘となれば勇猛な兵士と変わります。お気づきになりましたか、彼らはもとを辿れば、東の国の者なのですよ」
「そうなんですか」
俺は愕いた。肌が浅黒く髪が黒いのが東の国の民の特徴だが、海神の船の漕ぎ手たちは北欧の人間とまるで違わないように見えるが。
「東の国の開祖皇帝の時代、東の国と北の国が戦になったことがあるのです。その時に抑留された東の国の捕虜の子孫が彼らです。それが新しい伝説のはじまりというわけです」
「蒼い狼の第二章というわけですな」
横合いからカザリクス船長がシツヤ艦長に捕捉した。母国は異なれど海の男同士はすぐに話が通じるようで、カザリクス船長と北の国の艦隊を率いるシツヤ艦長はすっかり旧来の友人のようだ。
「北の国が東の国を押し戻して戦争が終わった後も、捕虜は北の国に拘留されたまま残されました。彼らは船の漕ぎ手として港に送られたのです」
五ツ谷の者たちが弓矢海軍に投げ込まれたのと同じような話だ。
「北欧が世界を制覇していた時代の船の漕ぎ手は神に選ばれた戦士として尊ばれておりましたが、その頃の北の国における漕ぎ手の地位は決して高いものではなかった。そこで東の国の者たちは、二代、三代と故郷に帰れぬまま代を重ねるうちに、優れた船乗りとして尊敬される地位を彼ら自身の手で獲得していったのです」
シツヤ艦長は「実は、わたしもその一人なのです」と告白した。
「祖先が東の国なのですか」
「そうです。わたしには東の国の血が混じっております」
そう云われても、外観からはまったく分からない。
「分からないのも無理はない。何百年も前の話です。東の国に戻れなくなった祖先は、北の国に帰順し、同化し、馬を棄てて船に乗り換えたのです。そしてゼデミネンの後継者として、ついには、現在の名誉階級と誉れを勝ち得たのです」
海神の船を眺めるシツヤ艦長の声が誇らしげなのも道理だった。
「もしもこの先、北の国と東の国が戦争になったとしても、我らはもちろん北の国のために戦うでしょう」
東の国の捕虜の子孫はよどみなく応えた。シツヤ艦長のその薄い色をした眸は、カティアとアリステラさまの人質交換の交渉がもつれて北の国と化石の国が戦争になったなら、東の国に助力を求めるつもりでいる俺たちの心積もりをまるで見透かしているようだった。
「戦争捕虜として東の国から北の国に連行された祖先たちが話し合ったことが今も伝えられています。これより我らは活路を海に見出そう。海にいる限り、騎馬民族の同胞と戦うことはない。血を分かつ兄弟との戦いを避けるためにも陸の戦士であることを棄て、今より海の戦士となって生きていこうと」
シツヤ艦長は髭をひねった。
「ゼデミネンの時代が過ぎ去った後、低迷していた北欧の艦隊が『蒼い狼』の再来としてふたたび近隣諸国に名を轟かせるようになったのは、氷の国に骨を埋める覚悟が東の国の男たちの胸にあったからなのです」
先祖たちの苦労をしのぶように、シツヤ艦長は帆船を取り囲む海神の船を眺めていた。
ではと会釈してシツヤ艦長とカザリクス船長が行ってしまうと、カティアと俺は水夫が張ってくれた日除けの下でふたたび話し始めた。
「兄上は使者に何と返答するかしら」
北の国の王がマクセンス王に差し向けた使者は、北の国の聖職者だ。戦になりかねない難しい交渉ごとには聖職者が使者として選ばれる。使者には、ルジウス伯も同行している。
「通常ならば数日返事を待たせるところだけど、わたしがここまで来ていると知ったならば、兄上のご性格ならば、すぐに返事を持たせて返すわ」
北の国の王は、まず、場所は港で構わぬから生きているアリステラさまに逢わせよと要求した。『ギマド』号の隣りに停泊している御召艦の船内では、北の国の王が苛々とその返事を待っていることだろう。
「もし要求が呑まれぬ場合は、生きたわたしに逢えぬぞと、暗に兄上を脅したのよ」
「はるばる北の国からやって来たのですから、父娘の対面くらいは叶うといいですね」
しかし、マクセンス王がこうも長いあいだアリステラさまを化石の国に留め置いていた理由は何なのだろう。
「やはり、『密約書』が関係しているのかも」
「五ツ谷の無実を晴らすかもしれぬあれですか」
「もしその密約書が五ツ谷で見つかった大量の武器に関するもので、北の国と取り交わしたものならば、五ツ谷は北の国と手を組んでいたことになる」
その場合は第一王子の転落死についても北の国は限りなく黒だ。しかし、そうとも云い切れないのだ。あれさえあれば五ツ谷を救えると邑長が云い遺したのだから。死に際に長はこう云ったのだ。密約書だ。あれがあれば五ツ谷を救える。ユナに預けてあるあれさえあれば。もし北の国と通じていたのならそんなことを云うはずがない。
海鳥が帆柱の上に並んでとまっている。密約書とともに離宮から姿を消したユナ。ユナが殺されたとして、密約書は今、誰の手にあるのだろう。
人質生活が三年を過ぎた頃、「まだアリステラ姫を北の国にお返しにはならないのか」と国の内外から批難が高まった一時期があったのだそうだ。それでもマクセンス王はアリステラ姫を北の国には戻さなかった。
「しかし、花嫁として化石の国に嫁いだアリステラ姫のお立場が危うくなるようなことを、あの北の国の王がやるでしょうか」
隣りに停泊している御召艦に掲げられた王旗を俺は見つめた。
「ご自身でこうして出向いてくるほどです。城で拝見しても、娘の身の上を長年案じている感じでしたが」
「わたしに云わせたら娘への愛情半分、残り半分は、王としての面子ね」
「カティアさまはあの王が、娘を犠牲にしても第一王子を殺し、娘の嫁ぎ先への侵攻を謀ったとお考えですか」
「霊視王と呼ばれたわたしの父上を惑わしていた怪僧は、東の国の出身だった。東の国と北の国は犬猿の仲よ。怪僧をとおして、化石の国が東の国に侵食されていくことを北の国が懸念し、国の混乱に乗じようとしていた可能性は十分に考えられるわ」
「では、その東の国が第一王子を殺した可能性は」
「北の国との結びつきを邪魔しようとして?」
「はい」
「その場合は怪僧が父上を操って、大兄上とアリステラ姫の結婚自体を反故にしようとするのでは。父上は怪僧のいいなりだったのだから」
「そうですね」
国土全土に白いもくもくを流行らせた怪僧が、第一王子の婚儀について口を出して反対していたという話は伝わっていない。
五ツ谷を最初に襲った覆面部隊のこともある。邑を燃やして武器を川に棄てたのは何者だったのか。証拠の隠滅だったのか。いったい誰の命でそれをやったのか。
だらだらしている間に、水平線に今日の夕陽が溶け落ちていった。ぬるい風に吹かれてカティアと俺は船縁に坐っていた。宵空に海鳥が舞っている。
「一隻、戻ってきたようです」
ザジとコロンバノが伝えにきた。彼らの言葉どおり、檣楼にいる兵が「僚艦です」と高らかに告げた。
シツヤ艦長が小舟で御召艦に行き、本日の交渉の結果をきいて、また『ギマド』号に戻ってきた。俺たちはそれを夕食の席できいた。
「入港の許可は出ましたが上陸は許されておりません。王への親書を渡した後、使者を乗せた船は港に残って停泊中です」
カティアが早めに届くと予告したとおり、マクセンス王からの返事は翌日の朝に届いた。交渉役の聖職者が王の返事を持ち帰ってきた。今度は北の国の王と昼食を共にするために、カティアとシツヤ艦長とカザリクス船長が御召艦に招かれて、それに従者のザジとコロンバノがついた。俺は小舟には乗れず留守番だった。
『ギマド』号で待っていると、カティアたちがまた小舟で戻ってきた。本来なら女は縄梯子ではなく、樽のようなものに入ってもらい、それを上から引き揚げるのだが、カティアはさっさと縄梯子で乗り降りするので、そこは面倒がなかった。
「どうでしたか」
「化石の国の港にて、急遽、北の国の王との会見の席が設けられることになったわ。明日。兄上と、アリステラ姫が港までおいでになるそうよ」
「本当ですか」
数えるほどしか隠居屋敷から外に出たことのないアリステラさまが、父王に逢うために港まで出てくるのか。掛け持ち従者の俺はこういう時にこそアリステラさまの役に立つためにお傍にいなくてはならないのだが。
「せっかくの機会です、出来れば帆船ではなく海神の船に乗せてもらって化石の国に戻りたいものですな」
カザリクス船長が冗談を云った。
》Ⅲ
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