Ⅴ・人質(後)

 

 肖像画を前にして、しばらく俺はぽかんとしていた。これは誰なのだ。アリステラさまと同じくらいの歳だが、まったくの別人の女の画だ。

 あの時、アリステラさまは隠居屋敷で、「肖像画をいただきました」とイグナツィオから届けられた彼の肖像画を俺に見せてくれた。そして隣室からイグナツィオへの返事として、ご自分の肖像画を取ってきて、俺に託されたはずだ。

 肖像画が見知らぬ女のものと入れ替わっている。いったい、いつの間に。

「わたしが取り換えたのではないわ」

 カティアは書簡筒を見せた。

「スカイから渡された画を、衣の中にしまい、その後、室に戻っていつものこの書簡筒に入れて持っていたのだから」

「カティアさまを疑ってはおりませんが、しかしこれは一体」

「間違えて別人の肖像画を渡した可能性もあるわ」

「いえ。俺の見ている前で、アリステラさまは丸めてあった画を開いて、確認してからそれを再度、巻き直して封をされておられました」

 そうだ、封蝋だ。手紙は、他の者が開封すればそのことが分かるように、色付きの蝋を垂らして封をする。そこに捺す印璽いんじをみれば。

 俺は急いで肖像画を裏返して封蝋の痕を確認した。開封したことで砕けてはいるが、残されている破片の痕跡を調べると、それは確かにアリステラさまが使っている印璽だった。

 きつねに抓まれたような気分で、俺は肖像画の裏表をひっくり返した。薄紙に描かれた若い女の肖像画。美しい女だったが、これはアリステラさまではない。では、アリステラさまが間違えたのだろうか。

 しかし確かに、アリステラさまは画を確認し、俺の見ている前でこの紙を丸めて封蝋をされておられた。

 何とかして辻褄を合わせようと俺は頭をひねった。

「もしかしたら、イグナツィオさまと最初から何かの約束があって、この女の肖像画を渡すことになっていたのかもしれません。これが誰かは分かりませんが、それまでのやりとりの中で、この女性の絵を渡すことを決めておられたのでは」

 云ってはみたが、その推理はいかにも不自然だ。

 しかしこれは誰の肖像なのだろう。歳の頃はアリステラさまと同じだが、いったい?

「その様子では、隠居屋敷の侍女ではなさそうね」

「はい。まったく知らない女です」

 なんだかすごく怖い。この肖像画に描かれた女は誰なのだ。いつ、アリステラさまの肖像画と入れ替わってしまったのだ。見たところ、そんなに古い画でもないようだ。見知らぬ若い女の画は、忽然とそこに現れていた。

「俺にはさっぱり」

 知りたければこれを描いた画家に訊くしかない。

「他に、誰か心当たりはない、スカイ」

「誰か……」

 

 ユナ。

 

 唐突にその名が頭に閃いた。でも俺は即座にそれを打ち消した。イグナツィオとユナは離宮で逢っているかもしれないのだが、彼の手に渡るはずの画だからといって、それではあまりにも飛躍しすぎだ。

「手紙が添えられていたらよかったのだけど」

 ミリューン語で書かれた手紙であっても、カティアならば手紙が読める。しかし今回は手紙がないのだ。

「もちろん、恋人同士が交わす私信を盗み見る趣味はないわ。いつもは封をした状態のものをそのまま渡していることは、スカイだって知ってるでしょう」

「もちろんです」

「海賊と闘ったりしているうちに海水をかぶったものだから、中身が無事か確かめようとして取り出してみたら、封蝋が外れていたのよ。この画が何なのか確かめる方法は他にもあるわ」

「それは何ですか」

「わたしたちが見ている前で、イグナツィオにこの肖像画を渡すのよ」

 丁寧にカティアは肖像画を巻きなおした。

「その時の彼の反応でこの画が何か分かるかもしれない」

 それはそうだ。これはアリステラさまからイグナツィオへ差し出したものには違いないのだから。

 しかしそれは、失敗だった。南国臨時特務大使を任じられるだけのことはあり、イグナツィオ・リュ・ゼデミネンは流石というか、一筋縄ではいかぬというか、俺たちが考える以上に、老獪だったのだ。

 

 毎朝、イグナツィオはカティアのご機嫌伺いに小宮殿に現れる。それには、逃亡などを考えていないかどうかを探る目的もあったのだろうが、彼に裏切られた我々の冷たい態度などものともせずに、律儀に挨拶に訪れる。想えば、そこからして特務大使のイグナツィオと俺たちとでは、場数が違ったのだ。

「ご機嫌よう、カルティウスシア姫」

「ご機嫌よう、イグナツィオさま」

「何かご不自由なことはございませんか」

「ご親切に」

「お部屋を飾る花はこれでよいかと、生け花担当が訊いております」

「これで結構ですとお返事ください」

 毎日同じやりとりをしている。毎日、判でついたように。完全に暗記してしまったカティアはその先を早口で続けた。

「花もドレスも寝床も食事も茶の銘柄も風呂の湯の温度も、すべて満足しております」

「それは結構です。カルティウスシア姫、本日は散策に出かけられますか」

「わたくしが歩ける範囲は宮殿の中庭だけですが、そのつもりです」

「しかし生憎と曇天模様のようです」

「天候までは変えられませんね、イグナツィオさま」

「まことに」

「他になにか。イグナツィオさま」

「御用がなければ、これにて失礼いたします」

「ご機嫌よう」

「ご機嫌よう」

 傍で見てると身体中を掻きむしりたくなるほど、たらたらした応酬だ。どうやらカティアは頭にくると素っ気ないほど儀礼的になるようで、そのせいで貴婦人然としているのが余計に長ったらしい様式美のやりとりを生んでいる。しかしその日、カティアはイグナツィオを呼び止めた。

「そうだったわ」

 いかにも今日まで失念していたかのように、カティアは丸めた肖像画を取り出した。

「それは何でしょうか」

「お渡しするのを忘れておりました。化石の国から船出をする前、南の国行きの船を捕まえて母上への手紙を預けるつもりだったのです。生憎と、頼めるに足る適当な船がありませんでした」

「南の国」

 イグナツィオの声は弾んだ。

「もしや、あの御方からの手紙ですか」

「わたくしたちをこんな目に遭わせたあなたに意地悪をしてお渡ししないという途もあります」

「まさか、お手紙を人質になさるおつもりですか」

「しかしそれは出来ません。これはわたしの手紙ではありませんから。それにしても、その上で、こちらをイグナツィオさまにお届けするのは躊躇われます」

「理由をお伺いしてもよろしいですか」

「濡れておりますの」

 カティアはいかにも遺憾であるという顔をつくった。本当は昨夜、水差しの水をぶっかけたのだ。

「海賊と闘っている時に書簡筒が浸かりました」

「分かります」

 理解を示してイグナツィオは頷いた。

「船の近くに砲弾が落ちると水しぶきが甲板にも滝のように落ちてくるものです」

「それで濡れてしまいました。その折に封蝋も紙から外れて壊れております。もちろんアリステラ姫からのお手紙ですので、中を読んではおりません。ただし文字が滲んでいるかもしれません」

「たいしたことではありません」

 イグナツィオは身を乗り出した。いまにも手紙を奪いそうだった。

「南国に運ばれるはずの手紙が今ここにあるのも、すべてカルティウスシア姫のお蔭です」

「ご確認下さい」

 カティアは肖像画をイグナツィオに差し出した。

 室の隅に控えている俺は固唾をのんでそれを見守った。イグナツィオからは逆光になる位置をとり、そこから貴公子の表情を凝視していた。真正面にいるカティアも俺と同じく、さり気ない顔をしながらもイグナツィオの顔の変化を見逃すまいとしていた。

 期待に顔をかがやかせてイグナツィオは肖像画を両手で開いた。沈黙が流れた。僅かな間。

「……なるほど」

 にっこりと、イグナツィオは優しい笑顔をみせた。そして、俺とカティアが事前に期待し、また、予想したあらゆる反応を完全に外した申し分ないほどの態度で、

「素晴らしい贈り物をありがとうございました」

 貴公子は手の中で画を丸め直して微笑んだ。おいおい。

「中身は無事でしたか」

 カティアは悩ましげな顔を作った。

「紙の端にある濡れた痕をみればお分かりになるとおり、海賊船に襲撃されている間に」

「まったく何も問題ありません。ではこれにて失礼いたします」

 もう一度、優雅に一礼すると、肖像画を手にした貴公子は小宮殿から立ち去った。


 

 肩透かしされた失望感で、俺とカティアはしばらくの間、元気が出なかった。

「やはり、食えない男でしたね」

「スカイはどちらだったと想う」

 カティアは額に指をあてて考え込んだ。

「肖像画がアリステラ姫ではないと気づきながら、知らん顔をして受け取ったのか。それとも、あれは望み通りのものを入手した笑みだったのか」

「イグナツィオさまとアリステラさまの間でどのようなやりとりがあったのか分からないことには、何とも」

「彼がアリステラ姫に送ったのは彼自身の肖像画なのよ。だったらアリステラ姫の方からも、自身の肖像画を贈り返すのが自然だわ」

 しかしイグナツィオは、これは誰の肖像画なのかとも、べつの手紙とお間違えではとも、何とも云わなかったのだ。イグナツィオはただ笑って、謎の女の肖像画をそのまま持ち帰ってしまった。

 俺とカティアが出した結論として、「悪戯と想われたのでは」ということになった。

「なるほど。アリステラ姫からの文と見せかけて、関係ない女の肖像画を渡すことで、彼をぬか喜びさせようとしたと」

 それであれば、イグナツィオのあの微笑みにも説明がつく。俺たちにからかわれたと知った笑みなのだ。

 カティアは茶を運ばせた。召使が行ってしまうのを待って、

「彼の立場ならば、わたしもそう考えるわ」と溜息をついた。

 それでも謎は残った。アリステラ姫が俺に渡したあの画の女は誰なのだ。



 俺たちが北の国に捕まっている間も、化石の国と北の国の間では外交的なやりとりが行き交っていた。カティアは、云われるままに何通かの手紙を兄マクセンス王に書き、それを北の国の船が化石の国へと運んでいった。

「助けてと直接書くわけではないのよ」

 つまらなさそうな顔をしながら、さらさらとカティアは定型文を書いていた。

「北の国にいること、好待遇であること。帰国すれば兄上にまっ先にお目にかかります、こんなところよ」

「何も心配なさることはありません、カルティウスシア姫。マクセンス王は人質交換に応じるでしょう」

 あれから一度もあの肖像画については何も触れることなく、イグナツィオは上機嫌だった。イグナツィオが俺たちを裏切って、化石の国ではなく北の国に送りつけた理由についても、今はもう、俺たちにも分かるところとなっていた。

「人質交換でアリステラ姫が北の国に戻ってくれば、イグナツィオは北の国の王から、アリステラ姫を妻としてもらうつもりなのだろう」

「もともと、北の国の王家からは何人もの姫がゼデミネン家に嫁いでいるからな。愛娘を取り戻したい北の国の王とイグナツィオの利害が一致したというわけだ」

「くそ。そういうことか。やりますね」

 俺たちを海賊船から助け、カティアがそこにいるのを知った時から、アリステラ姫と釣り合う人質としてカルティウスシア姫を北の国に引っ張っていく計画を想いついて実行したのならば、恋する男の一念とはいえ、あっぱれというものだ。

「この手紙がマクセンス王の許に届けば、アリステラ姫と交換で、すぐに化石の国に帰ることが出来ますよ」

 俺たちは露骨に彼を無視していたが、イグナツィオはものともせずに、

「北の国の王からもお許しをもらっております。せっかくですから、北欧観光にお連れしましょう」

 勝手に四泊五日の行程を決めてしまった。


 イグナツィオはしばしば自前の船で気まぐれに北の国を訪問しており、船自体も何隻も北の国に係留しているようで、主要な景勝地だけでなく、あまり人が訪れぬ穴場にも詳しかった。

「うわー。綺麗だなぁ」

 彼の船に乗せられて連れまわされる俺たちも、最初は渋々だったが、七色に変わる温泉だの、流れ落ちる途中で凍結している瀑布だの、見たこともない動物が生きたままの姿で閉じ込められている氷の洞穴だのをイグナツィオの案内で見物するうちに、多少は気が晴れてきた。とくに俺は化石の国の田舎者なので、見るもの全てが目新しかった。

「まあ、考えてみればそんなに事態が悪いということもありませんからな」

 ゼデミネン家の船の操舵を任されたカザリクス船長も、船狂い同士らしくイグナツィオと会話が弾んでいた。経験を積んだ船乗りはどんな帆船に乗っても、ひと目みるだけでどの索がどの帆を操るものか分かるというのは本当だった。俺の眼にはぐちゃっとした線のかたまりにしか見えない索を、船に乗り込むなり、ひょいひょいと船乗りたちは操った。カティアと一緒に北国に連行されてきた『いるかの渡る虹』号と『貝がらの兜』号の乗組員たちも、久方ぶりに海に戻れて元気を取り戻していた。

「隠居屋敷で人質となっておられるアリステラ姫がこれでお国に戻れるのならば、かえって良かったかもしれませんな」

 五ツ谷の脱走兵たちも、「王に頼んで悪いようにはしない」と云ったカティアの言葉を信じて、今は黙々とカザリクス船長に従っている。彼らにあの肖像画を見せたら、あの肖像画の女がユナかどうかの判別がつくのだろうが、肝心の肖像画がイグナツィオの手に渡ってしまった今となっては時遅しだ。


 俺たちが観光から戻ってくるとマクセンス王の返事を携えた化石の国の使者が城に到着していた。使節はルジウス伯だった。

 城の広間に俺たちは集められた。誰もがやれやれという顔をしていた。遠回りをしたが、これでようやく帰国が叶うのだ。

「ルジウス伯」

「おお、カルティウスシア姫。よくぞご無事で」

 カティアに再会したルジウス伯の眼は潤んだが、務めにすぐ立ち戻り、王座の間で北の国の王に書簡筒を差し出した。

「マクセンス王からの返事ではないではないか」

 北の国は眉を寄せた。どうやら王から王への親書は見た目にそれと分かるようになっているらしい。

「仰るとおりです。印璽をご覧ください」

 そう伝えるルジウス伯の声には、緊張があった。

「マクセンス王はそれをもって、返答とされるとのことでございます。そちらはご息女アリステラ姫からのお手紙でございます」

「おお、アリステラ姫からの」

 それをきくなり、北の国の王は表情をゆるませ、娘から届いた手紙を開いた。印璽つきの封蝋が破られる。

 俺たちは待った。いったいどうしたのだろう。一読するなり北の国の王はぱらりとその手紙を膝に落としたのだ。

「残念であった。カルティウスシア姫よ」

 北の国の王の視線がカティアをとらえ、カティアの顔を見つめた。

「アリステラ姫は本人の意志で、北の国への帰国を拒否するそうだ」

 王座の間はしんと静まり返った。




》第五章

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