第22話 ひゃっ……ちょ、やめて……!

 悠人オレは息を呑んだ。


 恵が包丁を握りしめ、こちらへじりじりと近づいてくるからだ……!


「お、お兄ちゃん、危ないから逃げて!」


 莉音が大慌てでオレを見る。その顔は真っ青だ。


 さらにはエリナまで、切羽詰まった声を上げる。


「そうよ! ここにいたら、恵に何されるか分からないわよ!」


 その脇でしおりが全身を震わせながら固まっており、奈々海も険しい顔つきだった。


 そんなみんなにオレは言った。


「だけど……オレが逃げたら、恵がもっと暴走するかもしれない……!」


 逃げるなんて、そんな無責任な真似をしていいはずがない。今ここでオレが背を向けたら、いったい誰が恵を止めるんだ。


 ところが。


 オレのそばに立っていた奈々海が、すっと前に進んだ。表情こそ強張っているものの、声は妙に凛々しい。


「悠人、ここはわたしが食い止める!」


「はあっ!? な、奈々海!?」


「大丈夫! 恵はわたし達の幼馴染みなんだから、話せば分かるはず……だから悠人は早く逃げて!」


 まるでヒーローのように奈々海がそう叫ぶと、莉音やしおりがオレを扉のほうへ引っ張る。


 エリナも苦々しい顔でうなずきながらオレを促した。


「奈々海が止めてる間に逃げましょう。いったん外へ出て、落ち着いてから対策を考えるのよ」


「だ、だけど……」


 オレは奈々海を見た。奈々海は、言葉を噛みしめるように恵に話している。


「ねぇ恵、落ち着いて。包丁なんて振り回して、悠人を傷つけるつもり? わたしはそんなの──」


 ──その瞬間だった。


 恵は驚くほどの早さで間合いを詰め、一気に奈々海の背後に回り込む。


「……え?」


 間の抜けた声を出した奈々海の喉元に、恵は包丁の刃先をスッと沿わせた。


「ひっ……!」


 奈々海は息を詰まらせて硬直する。オレは思わず声を上げた。


「や、やめろ恵!? 本当に何してんだ!」


 だが恵は相変わらず無表情で、淡々と言い放つ。奈々海に向かって。


「両手を後ろに回しなさい」


「は、はひ……!」


 言われるがまま、奈々海が両腕を背中側へ動かすと、カチャリ、と手錠の金属音が響いた。


 さらに恵は、あっという間に奈々海の足にも錠を掛ける。


 だから奈々海はバランスを崩して床に倒れ込んだ。


 そんな状況に、オレは唖然とする。


「め、恵……手錠なんてどこで……」


 しかし恵は答えてくれない。


 転がるように倒れ込んだ奈々海に、恵は冷たい視線を向けた。


「あなたが悠人君と一緒になるなんて、絶対に許さない」


「べべべ、別に恵の許可なんて必要ないでしょ!?」


 虚勢を張る奈々海だが、手足を拘束されて明らかに狼狽えている。全身が思いっきりブルブルと震えていた。


「恵の許可なんてなくたって、悠人は、わたしを好きでいてくれるって言ったもん!」


 それを聞くと、恵が小さく鼻で笑った。


「なら、せいぜい足掻いて見せなさい」


「ひっ……!」


 奈々海に手を伸ばす恵に向かって、オレは叫ぶ。


「何をする気だ!? まさか刺す気じゃ……!?」


 恵はオレに視線だけを向け、表情を変えない。


「悠人君、見ていてくださいね。あなたが好きだなんてい言ったこの女が、どれほど情けない姿を晒すのかを」


 そういうと、恵は包丁を床に突き刺す。


 それを見ただけで、奈々海はもう泣き出しそうだった。


「な、何をするつもりだ……!?」


 床に突き刺さった包丁のほうが不気味で、オレは声を張り上げる。


 だが恵は答えることなく、奈々海に手を伸ばして──


 ──容赦なく奈々海の脇腹を……揉み始めた?


「ひゃっ……ちょ、やめて……! はは、やめ、ひぃ! わ、わたしそこ弱い──あははははは!」


 奈々海の体が大きく跳ねた。


 そんな光景を、オレは呆然と眺め、つぶやく。


「え、くすぐり……?」


 莉音も呆気にとられた声を出す。


「た、確かに……お姉ちゃん、くすぐりには弱いけど……」


「ははっ、や、やめ……あはは、ひぃ……!」


 奈々海は必死に体をよじらせるが、手足を拘束されているので逃げようがない。


 恵は相変わらず静かな目で、奈々海にマウントを取って、いよいよ本格的にくすぐり始める。


 なんというか……


 とても、シュールだった……!


 そんな絵面に、しおりが唖然としながらも言ってくる。


「よ、よく分かりませんけど……とにかく命の危険はなさそう……です、よね……?」


「あははは!? あははは!? やめて、ひぃ……!」


 だがエリナが、なぜか頬を紅潮させながら言った。


「でもくすぐりって……やられ続けるのは、拷問に等しいって話よ?」


「うひゃひゃ!? ひぃひぃ、うひゃひゃひゃひゃ……!」


 いやエリナ……なんでそんなマニアックなことを知ってるんだ?


 でも……刃物を突きつけられるよりはマシだと思うが……あと、なんで羨ましそうなのマジで?


 とはいえ、このまま奈々海が笑い悶え続けるのも相当きつそうだ。


「ひゃははは……! やめ……も、もうやめてぇ……!」


 奈々海が涙目になりながら叫んでも、恵は容赦なく指を動かす。


「………………」


 まるで無心で作業をこなすかのように、淡々とくすぐりを続ける。


「ね、ねぇ! ほんとにたんま……! わ、わたし、ちょっとおトイレに行きたくなってきたから……!」


 奈々海の声はどんどん悲痛さを増し、表情も限界が近い。恵はぴくりとも動揺を見せずに、ただくすぐりを続けていた。


「や、やばいから!? 本当に漏らしちゃう!?」


 奈々海が恐怖まじりの笑い声をあげると、恵は冷たく言い放つ。


「いいですよ? そのまま、悠人さんに醜態を晒したらいいでしょう?」


「い、いやぁ……!? ひゃははははっ!」


 オレはその光景を目の当たりにしながら、どうすればいいのか分からず、完全に固まってしまった。


 包丁を振り回されるよりはマシだが、精神的ダメージは相当だろう。


 奈々海が笑い泣きしながら、オレに視線を向けてくる。


「ゆ、悠人……! こ、これ以上……こんな恥ずかしいわたしを、見ないでぇ!?」


 言われてようやく、我に返った。


 た、確かに……


 オレがこのままリビングにいたら、奈々海はくすぐられっぱなしだろう。さらに、オレがいなくなったら恵は追いかけてくるはずで、くすぐりも終わるし、奈々海が刺される可能性も低いはず。


「奈々海、悪い……! あとで絶対に助けるから!」


 そう言い残して、オレは莉音やエリナ、しおりとともにリビングの扉へと走った。


「ひゃっ、ひゃはははは!? し、死ぬ!? 漏れちゃう!! うひゃひゃひゃ──」


 奈々海の悶絶を背中に受け止めながら、オレ達はリビングを後にする……!


 しかし、オレの足は震えっぱなしだった。


 突拍子もない恵の行動がかえって怖い。こういう暴走は、いつどんな形でエスカレートするかわからない。


 それでも、奈々海の命が脅かされていないだけ、まだマシだ。


 まずはオレ達が距離を取って状況を整理する。そうしなければ誰も助けられないだろう。


(奈々海、ほんと悪い……!)


 オレは祈るような気持ちで、みんなとともにリビングを後にした。

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