7月編8話 私のダイアリー ③

▶︎▶︎  乃寿美のすみ町 河川敷


 この町を縦断する河原の周辺は、青々と輝く田んぼに囲まれ、遠くには山々のシルエットが浮かんでいる。川のせせらぎと、吹き抜けていく心地よい風。


 私は一人、河原の土手にハンカチを敷き、白い日傘越しに川の流れを見つめていた。


 今日は午後の授業はない。いつもならアニと体育館のキャットウォークで、購買で買ったパンを食べながら、探偵部のことや他愛ない話で過ごしている頃だ。


 でも今日は……昨夜の母の言葉がショックで、足がどうしてもそこへ向かないのだ。


「そろそろ引っ越し……なんだ……」


 心の中は、まるで底のない穴が空いたように空っぽだ。


 淡く儚い夢や希望を日一日と、いつくしみながら大切に積み重ねてきたのに。母の一言で、それはあっさりと崩れ去ってしまった……


 5月に編入して2ヶ月。たった2ヶ月なのに、ここには信じられないほど、今までの転校生活にはなかったたくさんの思い出がある。


 探偵部でのハムスターに子猫探しから始まり、消えたダビデ像事件、光るカカシ事件での奇跡のような光景に、見えないバタフライおじさん事件。


 何気ない昼休みのキャットウォークやポラリスでのひととき、そして紫陽花あじさいの咲く教会でのひと時。


 そこにはいつも必ず、アニの笑顔があった。アニといれば、きっと奇跡が起こると信じられた。


 でも……奇跡は起こらなかった──


 ぽたりと、眼鏡に涙が落ちる。


──なぎの海のように、何も起こらず何にも絡まず、ただ静かに次の転校まで時をやり過ごせますように──


 この学校で編入手続きを終えた時、校舎に向かってこう願った。


 あの時の自分から、ずいぶんと遠くまで来たような気がしていた。


 だけどこうなってみれば、やっぱり、今まで通りに全てに距離を置いていた方が良かったのかもしれない……


 きっとアニも──私がいなくなってしまえば、きっと私のことなんかすぐに忘れてしまうだろう──


 胸がぎゅっと鷲掴わしづかみにされたように痛み、涙が後から後から込み上げてくる。


 眼鏡を外しカバンからメガネ拭きを取り出して水滴を拭き取る。


「あ……」


 地面にポタポタと涙が落ちる。私は呼吸を整えながら、ハンカチで涙を抑え下唇を噛む。


──その時。


「おぅ、何しているんだ?」


 ハッとして後ろを振り向くと、担任の松田まつだ先生がいつもの赤いジャージ姿で立っていた。


 先生は泣き腫らした私の顔を見ると、驚き慌てた表情を見せる。


「えっと、あっと……と、取り込み中か……?」


 私は涙をハンカチで拭いて鼻をすすり上げる。そして、目を合わせないようにしながら黙って首を横に振った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「そうか……喧嘩の挙げ句、お母さんが引っ越しの話をな……」


 松田先生はコンビニで買って来たアイスジャスミン茶の缶を私に渡すと、自身はフルーツの炭酸飲料の缶を空けて美味しそうに飲み始める。


「やっぱりこの季節は炭酸が良いなぁ、本当はビールといきたい所だけどな」


 そう言うと、コンビニでもらった団扇うちわで顔を扇ぎ、ハハハと豪快な笑い声をあげた。


「──で、引っ越しの日にちは決まっているのか?確か、いつも前日に突然言われるとか言ってたよな?」


 私は、握りしめたジャスミン茶の缶を見つめながら黙って首を振る。喋るとまた泣き出してしまいそうで、途切れ途切れにしか声を出せない。


「いえ……何も……」


 その言葉に松田先生は、首をコキコキと鳴らしながら、なるほどねぇと呟いた。


「お前さ……」


「はい」


「それって、あれかもな。あれ」


「?」


「あれだよ……その、なんだ?」


「……売り言葉に買い言葉?」


「おぅ、それだ。お前は頭が良いよな」


 先生は再び、ハハハと笑うと炭酸ジュースを飲み干した。


「私……売ってもないし、買ってもないです」


 あぁ、先生に対しても我ながら可愛くないなと思う。ただ、母がいつも理不尽に服従を強いてくること、そして私が悪くないことだけはわかって欲しい。


「おぉ、いつものお前らしくなって来たな」


「……」


「まぁ、何とも言えないけどな……俺はこう思う。一度聞いてみると良いと思うよ、引っ越しの大体の予定日」


「──予定日……?」


「いつもは突然なんだろう?今回はちょっと変じゃないか?聞いてみてお母さんの目を見れば、引っ越しが本当なのかどうか、何かわかるだろ」


「目……ですか」


「目は口ほどに物を言うってな。お前さ、何だっけ?探偵部なんだろう」


「──あ、はい。一応」


「まぁ、聞きにくいか?お前さえ良ければ、お母さんにそれとなく連絡して探ってやるよ」


「──ありがとう……ございます」


 先生は私の言葉を聞くと、嬉しそうに頷き、団扇でパタパタと私を扇ぐ。


「なんかちょっとワクワクするな……俺も探偵部に入るかなぁ……」


──そうそう、あなたの学校から連絡があったの──


 ふと昨夜の母の言葉を思い出す。学校から、母に何の話があったのだろう?


「あの……」


「何だ?」


「先生から……母に何か連絡しました?」


 先生は少し考えるように間を置くと、私の目を覗き込み、ニヤっと口角を上げて見せる。


「するわけないだろう?お前の目がずっと、連絡するなって言ってたんだから」


「……」


「お前はさ、もうちょっと人を頼った方が良いと先生は思うなぁ。あ、これは独り言だけどな」


「……頼る?」


 先生は前を向いたまま静かに笑った。


「いつも、私は1人で生きてます、って肩肘張ってる。そりゃハードル高過ぎだ」


 そう言うと、よっこらしょとかけ声をかけて松田先生は立ち上がる。


一期一会いちごいちえにも価値はあるんだ。もっと人を頼れ。先生でも良いし、探偵部の……あの眼鏡でも良いしな」


「いちご……いちえ」


「たとえ人生の中の一瞬でも、たとえ名前は忘れても……縁があって出会った人は、お互いの人生に何かを残すもんだ。それが出逢いの価値だよ。人は1人じゃ生られないさ、1人はそりゃシンドイだろ……」


 一期一会にも価値はある……その言葉が私の胸に染みわたり、ゆっくりと心の空洞を満たしていった。


「じゃ、先生はこれから見廻りだ。お前みたいなのが沢山いるからなぁ。ちゃんと真っ直ぐ帰れよ」


 私は立ち上がった松田先生を見上げる。


 片手を上げて見せ、飄々ひょうひょうと団扇を扇ぎながら河川敷を歩き出す先生の赤ジャージの後ろ姿。


 「出逢いの、価値──」


 私はそのまま空を見上げる。


 抜けるように青い空には、先日のプールでアニと見たような、巨大な入道雲が輝いていた。

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