7月編5話 俺のダイアリー ③
▶︎▶︎
夏の長い一日の終わりを告げるような、穏やかでやや蒸し暑い空気がプールサイドを包んでいる。
空はオレンジ色からすでに藍色へと変わりつつあり、その色彩が水面に映し出されている。静かな水面には時折、わずかな波紋が夕日の残照にきらめいていた。
アイツと俺は、プールサイドにある見学用のベンチの裏に隠れて、辺りの様子を
──あの後、怖気づく
暗くてよくは見えないが、耳をすませばプールの外の草むらから、恋愛成就を願うらしき数組のカップルの囁き声が聞こえてくる。
見えないバタフライおじさんの噂は、メジャーになる一歩手前という感じだろうか?
男女のどちらかが、相手を何かの口実でここに呼び出しバタフライの音を聞かせるという、姑息な手段が使えるのも今のうちである…
いや、もちろん俺は、そんな不純な動機でここに来たのではないが……うん。
「──で、水泳部だった
アイツは、落ち着きなく俺の陰に隠れるようにしてしゃがみ込み、細い声で囁く。
「あぁ、嶋咲の話だと、バタフライで将来を有望視されてた先輩でさ、当時オリンピックも狙える実力者だったらしい。マイケルも一緒に夢を追ってたって」
「それが不慮の事故で?」
「そう、心臓発作らしいけど原因は不明なんだと」
「……その轟先輩が……見えないバタフライおじさんの正体?」
「ああ……もともと水泳部では、見えない轟先輩伝説として語り継がれてきたんだけどな」
「見えない轟先輩の伝説?」
「そう、轟先輩のバタフライの音をこのプールで聞くと、先輩のようになれるってことだよ。新入部員歓迎会で、毎年マイケルがその話をするのが、水泳部の伝統らしい」
「そっか、先輩のように泳ぎが早くなるってことだよね?」
「そう。これが水泳部から学校全体へと噂が伝わるに連れて、見えないバタフライおじさんの話へと変わっていったらしい……結果、今はなぜか恋愛成就にね」
アイツは俯いて何か考え込んでいたかと思うと、ふいに俺の腰の辺りのシャツを掴む。
「……それって……本当に轟先輩の幽霊なのかな?」
「さぁ?でも、
「ちょっと、やめてよ……!」
彼女は俺の腕をぎゅっと握りしめた。腕にほんのりと心地良い体温を感じ、顔に血がのぼる。
俺は声が裏返らないように、慎重に低音ボイスを装って尋ねる。
「怖いのか?」
「こ、怖くないよ……そろそろ門限の時間かなって……」
気が付けば陽はすっかり沈み、辺りは薄暗くなっていた。アイツは携帯電話の光を手で覆いながら時計に目をやる。
──その時。
プールの踏切台の前を黒い影が横切ったような気がした。
「何か動いた!」
俺の声に彼女はビクッとして飛び上がった。
「ひゃっ!!」
俺は咄嗟にアイツの口を塞ぎ、静かにというジェスチャーをする。彼女は口を塞がれたまま目を見開き、コクコクと頷く。
俺はそっと辺りを窺う。
ホッとしたその時、塞いだ彼女の吐息が手に伝わり、慌てて手を離す。
「あ、いや。ゴメン」
幸い塞いだ手のことは気にしていないようだったが、アイツは微かに震えた声で呟く。
「ア、アニ……何か聞こえない?」
俺は耳を澄ませた。水の波紋が生む微細な音。
そう、これは──まさしく誰かがバタフライで泳ぐ音だ。水を切る音と波の音が静かな空間に響き渡る。
「ば、バタフライ……?!まさか……」
「本物……?!本当に泳いでいるみたいな音だけど…」
彼女の声には恐怖心と好奇心が入り交じっていた。
「……待てよ、でも何かが変じゃないか?」
俺たちは慎重にベンチの裏から立ち上がり、音の源を探し始めた。辺りはかなり暗く、ほんのわずかな照明がプールの水面に反射していた。
「アニ……あ、あそこ!」
アイツが指さす方向に、黒い影が動いているのが見えた。それは人の形をしているようだ。
「なにぃ、轟先輩か?!」
「ちょっと、怖いよアニ」
俺が小さく叫ぶと、アイツは俺の腕にしがみつく。
俺は怖がるアイツの手を取り、そっとその影に近づいて目を凝らす。
──影はよく見ると、暗闇の中で小さなリモコンのようなものを操作しているように見える。
さらに見渡すと、プールサイドに置いてあるのは小さなスピーカー。
「何だこれは?……って……あれは──!!」
シルエットになっていた顔がようやく見えた。
それは──
「マイケル…!!」
水泳部の顧問、マイケルだった。
彼は立ち尽くしたまま、ひとりで何かをブツブツとつぶやいていた。
「轟くん……君がよく言っていた【夢を持つ素晴らしさ】……今日も後輩に教えてあげような……」
彼の声は静かで、そして哀愁に満ちていた。
「……マイケルは、一体何を……?」
──その時。
アイツが持っていた携帯電話が突然光った。
「あっ!!」
その光に気づき、マイケルが叫んでこちらを振り向く。
一瞬、俺たちと彼の目が合った──と思った瞬間、マイケルは踵を返し、驚くばかりの速さで逃げて行った。
気づけば、草むらに潜んでいたカップルたちもいつの間にか消え失せている。
──アイツと俺は、唖然としてその場に立ち尽くした。
「……バタフライおじさんの正体は、轟先輩じゃなくてマイケルだった──?」
「ごめんねアニ、母からの定時連絡で……」
謝るアイツの携帯の液晶の光で、ふと足元に何かが落ちているのに気づく。
「なんだこれ?……写真?」
拾い上げてみるとそれは、職員室のマイケルの机に飾ってあった男子生徒の写真だった。
「やっぱりこれが、轟先輩──」
部室で嶋咲が話していた内容を思い出す。
──マイケルは当時、轟先輩の才能にすべてを賭けていたらしい。熱い先生だからな……轟先輩が突然この世から消えた時はもう、ガックリきちゃって大変だったみたいだ──
俺の中で何かが一致した。つまりはそういうことか──
マイケルは、轟先輩の夢、ひいては水泳部のみんなの夢のために、轟先輩の伝承を作り上げ、それを代々部員に伝えていった。
それが校内に広まるうち、いつしかバタフライおじさんの伝承に変わっていった……
マイケルの願いの込められたバタフライの水音が、スピーカーからしんとしたプールサイドに響き続けている。
マイケルの願い──それはただ純粋に、教え子たちに夢を持ってほしいというものだったのだろう。
その音は、まるで轟先輩の遺志を受け継いで、新たな夢を泳いでいるかのようだった。
──全てがわかった今となっては悲哀に満ちたその音に、俺は敬意を持って耳を傾ける。
「みんな、希望を求めていたんだな……そのせいで、スピーカーからの水音でもリアルなものに聞こえてしまった……」
俺はひとりごちた後、目を閉じてヤレヤレといったポーズを決めた。
見えないバタフライおじさん事件は、このまま──うやむやなままそっとしておくのが一番かもしれない……
その時、携帯電話のメッセージを不安気な顔で見ていたアイツが大きく息を吐いた。
「もう帰らないと。お母さん、かなり怒ってる」
「おぉ、もうこんな時間か。お前の母ちゃん怖そうだもんな、付き合わせてゴメン」
「いいよ、アニのおかげで今日も楽しかった……でも帰らないと」
彼女の言葉に頷き、俺は、水音を流し続けるスピーカーのスイッチを切ろうと側に寄った。
「……あれ……?」
俺は呟く。
「どうしたの?アニ」
アイツが不安そうな目で俺を見る。
「──いや、なんでもない」
俺は無理やり笑顔を作る。アイツはホッとしたようにナチュラルな笑みを返し、歩き始める。
「なんでもないさ……うん」
俺たちは、並んで足早にプールを後にした。
──スピーカーの電源コードが抜けていたことは……彼女には内緒にしておこう──
この見えないバタフライおじさん事件は、次の予期せぬ出来事への入口だったことを、俺たちは後になって知ることになる。
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