7月編2話 私のダイアリー ②
▶︎▶︎
放課を知らせるチャイムが校内に響き渡る。
私は、アニと共にプールサイドにいた。もちろん泳ぐためではなく、探偵部の活動のためだ。
縦25メートル横15メートルの標準的な大きさのプール。今週から体育の授業で水泳が始まり、ついさっきまで使われていた。
カルキの匂いが鼻をくすぐり、植込みの緑が風に揺れている。
「──お前ら、掃除してくれるのは助かるが、くれぐれもイタズラとかするなよ」
水泳部顧問の通称マイケルは、褐色に焼けた逆三角形のボディをムキムキと見せつけながら、掃除道具を渡す。
アニはヘラヘラと笑って見せ、受け取ったモップやデッキブラシをプールサイドの金網に立てかける。
「もちろんするわけないですよ。写真を撮らせてもらうかわりにしっかり掃除します」
「写真部のイメージ写真だったよな。俺の写真は撮らなくて良いのか?」
マイケルは盛り上がった大胸筋をプルプルと振るわせると、白い歯を見せてポーズをとる。
「あ、いえいえいえ、また今度お願いします。校内誌の締め切りがすぐなんで……」
「校内誌の表紙を飾っても良いんだぞ」
「あはは、じゃ来月号あたりで考えておきますよ」
「そうか……」
マイケルは少々残念そうにポーズを解くと、
「──そうそうお前ら。目の前のことも大事だが、でっかい夢を持てよ!」
得意の決めゼリフを吐き、手を振りながらプールから出て行った。
私たちはしばらくの間、黙ってマイケルの後ろ姿を見送っていた。カルキの匂いが辺りに漂い、プールの水を循環させる音がかすかに響いてくる。
アニがうーんと伸びをして呟く。
「でっかい夢か。マイケルも何て言うか、ハードボイルドだよな」
「あ、うん……そうだね」
「よし、じゃ、調査開始だな!」
アニは自身のカメラを首から下げ、いつでも写真が撮れるようにスタンバイしている。
私の二眼レフは先日の事件で水没させてしまい、カメラ屋さんで修理中だ。なので今日は、アニの助手と言うか付き添いだ。
「よし。それじゃもう一度おさらいしよう。今回の事件は──誰もいないプールで泳ぐ水音だけが聞こえる、という案件だ」
「それが、【見えないバタフライおじさん事件】?」
「そう、誰が呼び始めたかは知らないけどさ。そして、この話にはまだ続きがある」
「【バタフライおじさんの泳ぐ音を聞いた人は夢が叶う】っていうやつね?」
「そうらしい、それが噂になってね。実際に聞いたってヤツも何人かいるんだよ……夢が叶うなら、俺たちも聞いてみたいよな」
「……えっと、アニ。一つ質問して良い?」
私は小さく右手を挙げ、首を傾げて見せる。
「ん?何だよ?」
「誰も見てないのに、何でバタフライで、しかもおじさんだってわかったの?」
「え? あ、うん……だからさ」
「だから?」
「えっと……」
「不思議だよね?」
「うん、ま、そうだな……それも調べる対象だよなぁ。
ともかく、バタフライの音が聞こえるのは早朝か夕方らしい。ま、今日はとりあえず写真を撮るだけだよ」
プールサイドから空を仰ぎ見ると、抜けるような青空に、巨大な入道雲が太陽を浴びて輝いていた。
私はプールの踏切台に立ち、目を
「わぁ。アニ、夏の空だよ。夏がやっと来たね……」
思わず笑顔になりアニを見ると、彼もつられてぎこちなく手をかざし、眩しそうに空を仰ぐ。
「お、ほんとだな、夏の風景だ……ずっと雨ばかりだったから、やっとこんな空見られて嬉しいよな」
「この前の光るカカシの奇跡の光景も、感動したけどね」
「ああ、あの時はまるで宇宙にいるみたいだったよな」
「そうだね、今考えても夢のような気がして……宇宙か。うん、天の川の中だね」
「天の川か、この辺りの七夕は旧暦の8月なんだけどさ……確かにあれは天の川かもな」
アニの言葉にあの時の光景を思い出し、私は空を見上げる。
──あれが七夕で天の川なら、あの広大な田んぼのあぜ道で奇跡的に会えた私たちは……?
アニは少しの間無言で空を見上げていたが、やがて思い出したようにカメラを手に取り、辺りの風景に向けてシャッターを切り始める。
私は踏切台にハンカチを敷いてそのまま座り、アニの姿を静かに眺めていた。
彼の顔は太陽とプールの水からの光に照らされ、眼鏡には雲や木々の緑、そしてプールの青が映り込んでいた。
プールに水が補充される水音、蝉の鳴き声、そして校庭では、早々に甲子園予選敗退の決まった野球部が、来年に向けて金属バットの音を響かせている。
そして……アニが切るシャッターの音。
すべての音が優しく、心地よかった。
──この心地よい時間そのものが、今の私にとっての奇跡かもしれない──そう思った。
「あ、そういえばさ……」
アニは写真を撮り終えると、金網に立て掛けてあったデッキブラシを取り上げ、バケツでプールの水を汲み始めた。
「えっ……あっ、なに?」
ボーッとアニを眺めていた私は、突然の声にハッと我にかえる。
「……寝てた?」
「寝てないよ、目開いてるでしょ」
「そっか。──お前、コードネーム決めてないままだよな?」
「コード……ネーム?」
「コード……ネーム?じゃないよ、お前が呼び合おうって言ったんじゃないか」
アニは濡れたデッキブラシでプールサイドをゴシゴシやりながら一周し始めた。アニが遠ざかるごとに、少しずつ彼の声が小さくなっていく。
「あ、コードネームね。アニが付けてくれるものだと思っていたんだけど」
「え?そうだった?」
「お前に似合うの考えないとなっ!って、言ってたよね?」
「……あー、確かに、そんなこと言ったような気がする」
「このままだと、私のコードネームは【お前】だよね……まぁそれでも良いけど」
私は踏切台に座ったまま足をぶらぶらさせながら、足元のプールの水を見つめる。
その水面はキラキラと光を反射し、波紋が太陽の光を受けて幾千の小さな輝きを映し出していた。
時折吹く風にプールの水が波立ち、その輝きがさらにきらきらと増していく。
──転校後すぐに忘れられてしまう本名より、コードネームの方が重くなくて良いと、最初は思った。
だけど、このひと月呼び続けたアニという名前が、変わりたいと願う私の中で、彼の本名よりも大切なものになっていく。
私のコードネームも決まってしまったら、彼に呼ばれるたび、それは自分の中でかけがえのない大切なものになってしまうだろう。
──ふいに、昨夜、私の部屋の入り口に立っていた母の顔を思い出す。その途端
もし、もしも。奇跡が起こらず別れが来て、アニが私のコードネームを忘れてしまったら……
結局、名前と同じじゃない……
──それなら名前もコードネームも必要ない……【お前】で十分だ。
私は大きく首を横に振る。
その時、25メートル先のプールサイドを曲がり、デッキブラシをゴシゴシやりながらこちらに向かっていたアニが、立ち止まって叫んだ。
「思い付いたぞ!」
「え?……なに?!」
「お前のコードネームは……ジャクリーンだ!!」
……相変わらず命名のセンスはゼロのようだ。
「却下!学校でそんな名前で呼ばれたくないよ」
「それじゃ、フランソワーズ」
「却下!アニ、センスを疑うよ」
「それじゃ、えっと……オノノイモコ」
「苗字も名前も却下、だいたいそれ男だし」
「あー。うーんもう、今度考える……」
しょんぼりした彼の頭には、相変わらず寝ぐせが風を受けて可愛く踊っていた。
私は小さくクスッと笑うと、踏切台を降りてアニに近寄りながら右手を差し出す。
「お疲れさまでした、お掃除もう一周は私がやるね」
アニは頬を赤らめ、デッキブラシを私に渡そうとした。
2人の手がデッキブラシの柄を握ったその時。
「ひゃっ!」
私はプールサイドの水溜まりで派手に足を滑らせた。
「あ、おい!!」
アニは私を受け止めようと手を差し出すが、同じブラシの柄を掴んでいたため間に合わず──大きな波飛沫とともに、2人してプールに落ちた。
突然のことに水中で一瞬パニックになりそうな私を、アニが背中を抱えて支える。
「大丈夫か?」
「あー!ごめん、ごめんねっ。足を滑らせて……」
「……おえっ!また水飲んだ」
「水?大丈夫?!」
「あぁ、大丈夫!大丈夫。ちょっとだから」
「あぁ、良かった」
「まだ、水が冷たいよな」
「うんうん……また田んぼの時みたいにずぶ濡れだよね……」
「ははは……なんだかハードボイルドには遠く及ばないな」
不意に、すぐ近くで背中を支えているアニの体温に気づき、私は頬が熱くなるのを感じる。
「あ……もう大丈夫。ありがとう」
呟いて、そそくさと彼から少し距離をとる。
「お、おぅ。良かったよな……」
しばらくの沈黙の後。私たちは奇跡的に外れないでいた眼鏡を同時に外し、レンズの水滴を振り払ってそれをかけてから、再び顔を見合わせた。
「アニ……」
「なんだよ」
「水に濡れて寝ぐせが直ったね」
「えー?」
慌てて頭をあちこち撫で付けるアニも、やがて私につられて笑い出す。冷たいプールの水とは対照的に、私の心の中が優しく
水面からの反射光を浴びながら、私はそのまま空を見上げる。夏の空は青く深く、まるで海のようにどこまでも広がっていた。
「ね、アニ……」
「ん?」
「あれ、あの雲、船に見えない?」
「え、どれのことだ?」
「ほら、あの真っ白い巨大な入道雲……」
「ああ……本当だな」
「希望の船だね……大海原で漂流して……絶望した時に突然現れた、希望の船──」
最後の方はアニに聞こえないように小さく呟き、私は彼の横顔をそっと盗み見た。
透明な夏の陽射しが水の揺らぎに合わせてきらめき、アニの日焼けした頬にも小さな光の粒を投げかけていた。
──お前ら、目の前のことも大事だが、でっかい夢を持てよ!──
先ほどのマイケルの声がよみがえる。
「大きい夢……」
──このまま、あの船にアニと2人で乗って、どこか遠くへ行きたい。
何も決まっていなくていい。
行き先も、未来も、ぜんぶ白紙のままで構わないから──
プールの水にアニと肩を並べて浸かったまま、私はふとそう強く願った。
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