6月編11話 俺と私のダイアリー ③

 私は玄関から飛び出した。


 たちまち全身が冷たく湿った空気に包まれる。


 傘は手に持っていたが、今の私には、それを開く余裕すらなかった。小雨がまだ、降り続いていた。


 先ほどアニといた田んぼまで、全速力で走る。頬に当たる雨粒が、少しずつ髪も濡らしていく。赤いフレームの眼鏡にも、小さな水滴が次々とついて、視界がじわりと曇っていった。


 舗道に残った水滴が路面に星を散らしたように光って見える。足もとでは水たまりが跳ね、吸い込んだ靴の中がじっとりと重くなっていく。


「ハァ…ハァ…」


 細い路地を駆け抜ける。肩越しに、小さな古い商店の軒先が後ろへと流れていく。


 揺れる提灯の赤、信号の青、そして電灯の白。雨の湿気を含んだ空気の中で、光の色彩がどこか滲んでいるようだった。


 乾ききらない道に響く足音。濡れた髪を振り乱し、次々と溢れる涙を拭いもせずに走り続ける私を、道ゆく人々が驚きの表情で振り返る。


──奇跡を望んでいたはずなのに……


 私が全てを諦めて家に帰った時、シャワーを浴び、ご飯を食べていた時、部屋で涙を流していた時も、アニは一人あそこにいた。


 彼は私のために、雨の中カメラを探してくれていたのだ。


「なんで?どうして?あなたには関係ないじゃない……」


 胸がきゅっと締めつけられる。

 先ほど、彼と別れた時の顔が脳裏に浮かぶ。


──だって、お父さんの形見なんだろ?


 私の心に温かいものが溢れ出した。ひび割れていた私の内側に、優しい温もりが染み込んでいく。


 彼は……奇跡を信じてくれていた!


 じれた根が勢いを失い、希望の種から再び芽が吹き出す。


──アニに会いたい。アニと奇跡を起こしたい!!


 私は走りながら携帯電話を取り出し、彼を呼び出す。しかし、その画面は冷たく、呼び出し音だけが鳴り続ける。


「!!」


 信号の赤に、危うい所で足を止めた。


 信号灯は小雨にぼうっとにじみ、まるで宙に浮かぶ赤い人魂のように揺れていた。


 湿ったその光が、静かに私の顔を照らす。乱れる呼吸。額に貼りついた前髪が、冷たく肌にまとわりつく。


 震える指先で急いでメールを打つ。じっと画面を見つめ返信を待つが、何も返ってこない。


 周囲には、サイレンの音が響き、雨の匂いとともに、不穏な気配が街に満ち始めていた。


 なにかが起こっている──そんな予感が、さらに胸を冷たく締めつけた。


「アニ……」


 その時。


 一羽の影が視界を横切った。


 すうっと空を切るような、鋭い身のこなし。一羽のつばめが目の前を横切り、まるで私を先導するかのようにゆるやかに田んぼの方へと舞っていく。


 信号は青。私は息を整えるのももどかしく、再び走り出す。燕の飛び去る、その先へ。


「……大丈夫だよね……?」


 ようやく、先ほどアニと別れた田んぼに辿り着いた。


 気がつくと雨は止んでいた。すっかり暗くなった空の下、遠くの山々のシルエットがぼんやりと浮かんでいる。


 用水路の向こうには、雨に濡れてどこまでも青々と広がる水田が、ぼんやりとした暗闇の中で浮かび上がっている。


 ──アニは、どこ……?


 私は息を切らしながら辺りを見回す。視界が揺れるたびに眼鏡のレンズに付いた水滴が邪魔をして、周囲の風景がぼやける。赤いフレームの眼鏡を外し、急いで手の甲でそれを拭う。


「アニ……?どこにいるの??」


 再び眼鏡をかけ直し、あぜ道を走る。かすれた声でアニの名前を呼んでも、ただ強く吹き抜ける風の音に掻き消されるばかり。


 ざわざわとした不安が胸を締めつける。まさか……アニに何かあったの?いや、そんなはずない──


 が、足元に流れる用水路の濁った水の勢いが、私の心をますます不安でいっぱいにさせていく。


「お願い……無事でいて……」


 再び視界の端が滲んできた。雨ではない。こらえ切れない涙が次々と頬を伝い、眼鏡のフレームを濡らしていく。


 必死にあぜ道を走り、見えないものを追い求めるように、辺りをぐるぐると見回し続ける。


「アニー!」


 叫んだ声が、夜の闇に吸い込まれる。辺りはますます暗くなり、薄闇に覆われた田んぼが、まるでどこまでも続く迷路のように思えてくる。


 ──アニ……どこにいるの?返事をして……。


 目の前の世界が、恐ろしいほど空虚に広がりをみせる。彼がいないこの広大な田んぼは、ただ冷たく暗いだけの場所だ。


 思わず立ち尽くし、震える肩を両手で抱きしめたその時──


 ふいに、目の前がぼうっと明るくなった。


 ──え?


 驚いてその光の方を振り向く。そこには、一体のカカシがいた。


 その体全体が淡い黄緑色の光を放ち、静かにゆっくりと点滅をしていた。


 「え……カカシ?」


 濡れた土や水面がその光に照らし出され、キラキラと反射している。


 私はその光に目を奪われた。眼鏡を外し手の甲で涙を拭きながら、それを見つめる。


「これって……もしかして……?」


 眼鏡を掛け直し辺りをよく見ると、広い田んぼのあちこちで、同じようにぼんやりと光り始めるカカシが見えた。さらにもう一つ……。


 その無数の光はお互いに会話するかのように、静かに優しい点滅を繰り返している。


「信じられない……こんな、奇跡みたいな光景……」


 その光景に息を呑んだ瞬間──


「……!」


 遠くから、聞き覚えのある声。心臓が飛び上がる。間違いない、あの声は──


「アニ!!」


 私は声のする方向へ駆け出す。湿った土が跳ねて足に飛び散る。


 すると、田んぼのあちこちで優しく光っていたカカシがフワッと浮かび上がった。


 私の中に、新しい感情が沸き上がる。見えない何かが、私の心を強く引っ張っていた。


「アニ……アニ!!」


 声が嗚咽に変わるのも構わず、光るカカシたちの間を縫うように駆け抜ける。彼の姿はまだ見えない。けれど、その声が確かにそこにあった。


「……!」


 見上げると、全天を覆っていた分厚い雲が、ゆっくりと裂けていく。


 金色に輝く三日月が、そっと顔を出した。


 私の足元を月の光が照らし出し、カカシに灯る淡い黄緑色の光が、私をアニへと導く。


 そして──


 見えた。


 黄緑色の光に、輪郭だけが照らし出されたその影。


 私と同じように、泥に濡れ、息を切らし、こちらへ向かってくる。


 吐息が白くなる。胸の奥が、痛いほど高鳴る。


 彼だ。 間違いない。


 もう少し、あと少し──


 彼に手が届きそうになった、その瞬間——


「アニ!!」


 その瞬間──足がぬかるみに取られた。


「あっ……!」


「わぁ!!」


 ずぶ濡れの土の上に、アニと私はもつれるように重なり合って倒れ込んだ。


 冷たい泥の感触。でも、それすら嬉しかった。


「イタタっ……大丈夫か?」


 アニが頭を擦りながら、私の手を取って起こしてくれる。


 その手の温かさに、堰を切ったように涙が溢れた。


「無事で……無事で良かった…」


 アニの顔を見た途端、私の瞳には再び次々と涙が溢れて止まらなくなる。


「よく戻って来たよな……ほら、これ」


 アニは私の目の前に、泥まみれの二眼カメラをそっと差し出した。


「見つけてくれたの……?!カメラ……」


 彼は少しはにかむような笑顔を見せた。


「おまえの父さんの、大切なカメラだもんな」


「ありがとうアニ……本当にありがとう」


 私は泥まみれのカメラを胸に抱きしめ、声を上げて泣き続けた。彼が優しく微笑んでいるのを感じたが、涙で視界がぼやけて見えない。


「え?あ……おぃ」


 彼がそっと空を指差した。その瞬間、私は顔を上げ、あの光の向こうに広がる、無数の小さな光の粒が、空中を舞うのを見た。


「え?」


「あれは、光るカカシ……」


 私は泥まみれで座り込んだまま、アニの指差す方を振り返る。


 カカシがフワッと浮いたように見えた一瞬ののち、それは形を変えて淡く優しい光を放ちながらゆっくりと浮遊する。


「あれは……」


 アニの顔を見ると、小さな黄緑色の光を放つ光源が一つ、彼の鼻にふわっと止まった。


「ホタル……」


 私はアニの鼻に止まった光源を優しく人差し指に移す。


「光るカカシの正体は……キミたちだったのね……」


 やがて無数の淡い黄緑色の光が田んぼから一斉に飛び立ち、静かにダンスをするように舞い始めた。


 私たちは泥の中に座り込んだまま、その光景に目を奪われた。人差し指に止まっていた光もいつしかふわっと飛び立ち、仲間に加わった。


 儚く健気な瞬き、共鳴し合う光。それはまるで、暗闇を照らす希望の道しるべのようであった。


 私の心に、彼らの奏でる優しい音楽が聴こえる。


「これは、ノストラダムスの影響……?」


 眼鏡を掛け直しアニが呟く。


 「──いや違う、これは、奇跡だな……」


 私も眼鏡を掛け直し、アニの言葉に頷く。


「うん、奇跡だよ……」


 父の形見のカメラを救いだしてくれたアニと、この奇跡のような光景を共有している。


──奇跡はここにあった。


 私の胸に温かいものが溢れ、いっぱいに満たしてゆく。


 アニが私を見て言った。


「うん、その笑顔だよ……カメラを探した甲斐があった……」


 彼は照れたように笑って私を見つめる。その顔が、全てを受け止めてくれた父の笑顔と重なった。


「私も、アニの笑顔が見たかった……ごめんね、こんなに泥だらけにさせて」


 アニは再び曲がった眼鏡を掛け直し、ゆっくり首を振った。彼のレンズには、空を飛び交う無数の黄緑色の光が映っていた。


「その笑顔を守るのがハードボイルドさ、お前が笑えば俺も笑顔になれる……」


 私はクスッと笑い、目を閉じて首を軽く傾げた。


「……今のちょっと探偵っぽかったね」


「ったくさ、探偵なんだよ、ほんとに」


 思わず私は吹き出した。もちろん嬉しくて、とても嬉しくて……


「なんだよ!」


「──うん、期待してるね、頼りになる探偵のボスのアニ」


 私たちは、銀河の星々のような煌めきを並んでいつまでも見つめていた。


 手も繋がず肩も抱かず、ただ、お互いの心が完璧に重なり合うのを感じながら──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る