5月編5話 私のダイアリー

▶︎▶︎  乃寿美のすみ高校横 酒屋



「本当にありがとうね、この子は飛びきり元気でね……捕まえるの大変だったでしょ?」


 迷子の仔猫の依頼主が、何度も私たちにお礼を言う。


 私は腕の中にいる仔猫を見つめる。仔猫はニャーンと一鳴きして目を細め、安心しきった顔でゴロゴロと喉を鳴らしていた。


 ただ立っていただけでこの子の方から私の腕に飛び込んで来たのだから、私はお礼を言われるようなことは何もしていない。


 けれど、心の片隅に熱い気持ちが込み上げているのは否定できない。そう、転校初日、ハムスターのラファエルを見つけた時と同じように。


──楽しそうに見えないか?俺は楽しいね!この毎日がどれほど充実しているか──


 私の横で満足そうな顔で依頼主の話を聞いている彼の言葉だ。


 その言葉を聞いた時、なぜあんな地味な活動で毎日が充実できるかがわからず、そしてうらやましくもあった。


 けれど、この仔猫を送り届け、依頼主や私の腕の中にいる仔猫の表情を見た今は……


「な?探偵って、面白いだろ?」


 彼は頬を紅潮させ、私の微かな表情を読み解くようにのぞき込んで顔中で笑う。


 彼につられて、思わず心の内から興奮と充実感があふれ出そうになり、私は慌てて無表情をよそおい、黙って頷く。


 そんな私に彼は呆れたような顔になる。


「嬉しい時は笑うものだろ!遠慮するなよ。さっきのお前の笑顔は……最高だったのにな」


「え……」


 そんな私たちの様子を見ていた依頼主は、ニッコリ微笑んで言った。


「本当にありがとう。またこの子たちに何かあった時は、ぜひ探偵のお2人にお願いしますね」


 依頼主の言葉に嬉しくなり、微笑みを返そうとしたその時、彼女は私に尋ねる。


「で、お嬢さんのお名前はなんていうの?」


「あ、はい、私はつば……」


──お名前……


 瞬間、胸にズキンと走る痛みに我に返る。


──わたしの名前?


 私は仔猫を抱きしめたままうなだれた。


──そうだ。そうだった。


 これまで何度も経験してきた、無力感と絶望感。虚しく無意味な繰り返し。……もう、味わいたくない。


 だって次にこの子猫に何かあった時、私はたぶん……いや、間違いなくここの学校にはいないのだ。


 その時には、この依頼主も横にいる彼も、私の名前なんか覚えているはずがない。私がここにいたあかしなんて、誰の記憶にも残らない。


──ああ、少しだけ、この繋がりに深く入り込み過ぎたみたいだ。危ないところだった。


 私は首を振り大きく息を吐くと、抱いていた仔猫をそっと依頼主の腕の中に返す。


「ごめんなさい、そろそろ家の門限なので…私はこれで失礼します」


 一気に言うと、私はくるりときびすを返し、依頼主の店を後にした。


「え……?ちょっと……おい、待てよ…!」


 彼の声が追いかけてきたが、私は耳をふさぎ、そこから逃げ出すように走りだした。



▶︎▶︎  乃寿美高校横 正門近く


 私は体育館横の塀沿いを一人とぼとぼと歩いていた。


 腕時計を見るとそろそろ18時、空はすっかり茜色あかねいろに染まっている。家の門限には間に合うだろう。


 私の腕にはまだ仔猫の温かくふわふわした感触が残っている。そして依頼主の優しい微笑み、彼の満面の笑顔。


「──楽しかったな……」


 気持ちが自然に言葉となってこぼれた。


 胸に湧き上がる高揚感。あれは紛れもなく私のものだった……


 私は茜色の空を見上げ、ある想像を膨らませる。


 この学校の探偵部でずっと、今日みたいな日々が送れたら。


 今までずっとあきらめてきた沢山のこと。例えば友だちと放課後にファストフードやカフェに寄って、どうでもいい話で延々と長居して、お腹の底から笑って、そしてそして……


 それがこの学校で……もしできたなら。


 母の仕事のために繰り返してきた引っ越しが今回で最後になれば。


 もし、そうなれば……


 そうしたら私は──


 その時。


 携帯電話がメール着信のメロディを鳴らす。


 母からのメールだ。瞬間、心臓がドクンと大きく波打ち、足がすくんだ。


 私はうつむいてカバンから携帯電話を取り出す。携帯を持つ指が微かに震えている。


 息を止めて恐る恐るメールに視線を向ける。


──早く帰りなさい。


 いつもの定時連絡だった。


 私は目を閉じて深く息を吐く。安堵と、そしてあきらめのため息だ。


「まだ大丈夫…まだ、ここにいられる…」


 眼鏡にぽつりと涙が落ちた。


 私はカバンから眼鏡拭きを取り出すと、眼鏡を外し涙を拭く。いつものことなので手慣れたものだ。


「あれ……」


 地面にポタポタと涙が落ちる。私は大きく深呼吸をし、ハンカチで涙をおさえ下唇を噛む。


 その時、


「あー、いたいた」


 顔を真っ赤にした彼が、私の後を追いかけてきた。私は瞬時に背筋を伸ばし、何ごともなかったように平然と、拭き上げた眼鏡をかける。


「ここにいたのか。急に帰るなんて驚いたよ。門限か……親がうるさいのか?」


「──ごめんなさい。18時半が門限だから……」


「そっかそっか、それにしても18時半は早いよな。探偵的に言っても」


「……」


 彼は、私の顔をチラと見ると目をそらし、しどろもどろに言った。そうだ、考えてみれば急に依頼主の店から出てきてしまったのだ。


 彼には申し訳ないことをした。そしてあの依頼主の女性にも嫌な思いをさせたかもしれない。


 やっぱりこんな私がこれ以上、関わっても迷惑だろう……


 深く付き合えば付き合うほど、後で心の傷は大きくなる。


 名前で呼び合った時間が長ければ長いほど、後で虚しさに強く襲われるのだ。


 再び涙がこぼれ落ちそうになり、うつむいたその時──


 私の頬に冷たい何かが押し付けられた。


「ひゃっ??」


 私はその冷たい何かを手に取って眺めた。それは綺麗な緑色の透明なびんだった。


 母から強く禁止されている飲み物の一つ……


「ラムネ?」


 彼は嬉しそうに笑って、カバンから自分のらしいもう一本の瓶も取り出す。


「依頼主から迷子の仔猫探しの報酬だってさ。まぁ、ハードボイルドにはほど遠いけどな」


 彼は私の持っている瓶に、自分の瓶を軽く合わせる。キン、とかん高く澄んだ気持ちの良い音がした。


 私はその音に数回まばたきをする。


「お前は家で何かワケありなんだろうと思うけどさ、今日はさすがに楽しかったよな?」


 彼の言葉に、再び自然に言葉がこぼれる。


「──うん……」


「それじゃ、何も考えず今日の楽しさに乾杯!」


 彼は瓶の上部にあるビー玉を落とすと、ラムネを一気に半分ほどまでごくごく飲んでしまう。夕日に染まる彼の姿は、探偵と言うよりも無邪気な小学生のようだ。


 私はその姿に思わず吹き出した。


「なに笑ってるんだよ。って、お前も早く飲めよ」


 私はうなずく。急かされるように、彼の真似をしてラムネの瓶のビー玉を落とし、一気に飲もうとした。


 すると口元で炭酸が爆発し、びっくりした私は一気に吹き出してしまった。


「わっ!!」


「わぁ、ごめんなさい」


 私の吹き出したラムネの半分が、目の前にいた彼の白いワイシャツにかかった。


「あー。何やってるんだよ、全く!面白すぎるだろ」


 彼も再び一気にラムネを飲むと、口の中で炭酸が爆発して同じように吹き出す。


「えぇ?!」


 私の反応を見ると彼は笑いだし、同じことを繰り返した。


「──やだ、ちょっと汚いよ!」


「お前もやったもんな」


 彼が大笑いをすると、私もつられて久しぶりに歯を見せて笑う。お互いの眼鏡が夕日に反射してオレンジ色にキラキラと光っていた。


 私は胸の中でそっと呟く。


──ほんの少し。少しだけ、探偵部しても良いかな……


「!」


 その時、ふと良いアイディアが浮かんだ。


 これがあれば名前で呼び合う必要がなく、名前よりも軽いもの。


 いつ別れが来ても重くなく、忘れてもらっても諦めがつくもの……


 私は彼にそっと自分のハンカチを差し出す。


「はい……これ使って」


「お……おぅ。サンキュ」


 瞬きを何度か繰り返す彼に、私は一つの提案をする。


「あのね──」


「──ん、何だ?」


 彼は濡れたワイシャツを拭きながら首を傾げた。


「──探偵だったらさ、これからはお互いにコードネームで呼び合わない?」


 ……ラムネの瓶の中のビー玉がカランと鳴った。


 夕陽に顔を染めながら、彼はしばらくの間、不思議そうな顔をして私を見ていた。




 5月編6話 俺のダイアリー に続く。

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