玖 荻の声

 秋を表す季語の一つに”荻の声”というものがある


 それは秋の始まりに荻の葉が風に吹かれて揺れる際に立つ音のことであり、古の人々はその”さやさや”という音に神の声を感じたのだという


 時は天文4年(1535年)秋


 信虎の軍師である荻原常陸介は病に倒れ、死を覚っていた


 彼は齢七十を過ぎてもなお主君たる信虎と共に戦場に出て武田軍に多大なる貢献を果たしていたが、その無理がたたった感じだろうか


 荻原常陸介は臥せていたが、目を閉じることはなくただ静かに天井の一点を見つめ、ある男の来訪を待ちわびていた


 聞こえ始めた足音が次第に大きくなっていく


 「常陸介、常陸介ッ」


 慌てながら入室してきたのは武田信虎だ

常陸介の主君である信虎こそ、彼が待ちわびていた人物である


 「常陸介、病状はどうだ。急に倒れたと聞いたから、飛んできたぞ」


 「御屋形様…」


 常陸介はここで初めて目を閉じる

その重なった瞼から涙が出かかっているのを信虎は見逃さなかった


 「常陸介…まさか、まさか、、」


 「はい。もう先は長くありません。侍医が一生懸命励ましてくださってますが、死期くらい自分でもわかります」


 「そうか… そうか…   」


 信虎も彼には生きていて欲しかったが、無理に励ます気にはなれなかった


 「常陸介。わしは悪いことをした。そなたのような忠節の士に一片の恐怖を感じて以前よりも遠ざけてしまっていた― でも、そなたの涙を見て確信できた。常陸介は誰よりもわしの為に尽くしてくれていたのだ、と」


 信虎は常陸介の並外れた智謀に恐怖を抱いていた事実を語り、彼に謝る

すると常陸介は微かに首を振る


 「いいえ、御屋形様の判断は正しかったです。一人の軍師が全てを担うようでは危険ですし、こうして亡くなってしまった際には大きな穴が開いてしまいます。だから、私は却って安心しました。それに恐怖を感じながらも軍師の一員として認めてくださっていたことに私は万感の思いです」


 「常陸介…」


 「御屋形様…」


 常陸介は目を細める

そのまま死んでしまいそうな感じであったが、急にカッと目を見開く


 「最期に…この常陸介、御屋形様に一つ大切なことをお伝えしたい」


 「お、う、うむ。じっくり聞こうではないか」


 常陸介は顔を信虎の方へ傾けると、ゆっくり口を開く


 「孫子の兵法に、疾きこと風の如く―から始まる一節があるのを覚えていらっしゃいますか」


 「ああ。覚えている。確か”はやきこと風の如く、しずかなること林の如く、侵掠しんりゃくすること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆らいていの如し”であったかな」


 「はい。その通りです。これは軍を動かす際の心得として書かれたものですが、私が考えるにこれは人生にも繋がっていると思うのです」


 「人生とな」


 「そうです。人生にも戦と同じく機があります。風のように早く、また雷のように力強く動くべき時もあれば火のように猛烈に勝負するべき時もある。ただ、機ではない時は林のように静かに、そして山のようにじっとして次の機を窺うべきでしょう」


 ここまで信虎はあまり喋らず、常陸介の話を聞いていたがここである質問をする


 「…では、その場合”知り難きこと陰の如く”とはなんなのだ」


 「御屋形様なら聞いてくださると思ってました」


 常陸介は人生における陰について話そうとして、大きく咳き込む


 「大丈夫か、常陸介…ッ」


 「お、御屋形様…。無念ですが…お別れです。どうかお元気で…」


 「常陸介ッ!」


 ここに常陸介は人生の陰について伝えることが叶わず、息を引き取った

屋敷の中庭に作られた小さな池の畔には、荻が植えられている


 常陸介が息を引き取った際に屋敷内を秋風が吹き抜け、その荻の葉が微かな音を立てて揺れた


 (常陸介は最期に重要な何かを伝えたかったはずだ。一体、何を伝えたかったのか…)


 信虎は聞くことのできなかった荻原常陸介の声を荻の声に聞こうとするのであった―


 

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