陸 後先の勝敗
暑い夏にも関わらず涼しい風が吹き抜ける―ここは甲信国境付近の小淵沢
標高の高いこの地は夏でも気温が低く、快適だ
敗走する武田軍を追撃していた村上軍は余勢をかって甲斐の奥深くにまで攻め込むかに見えたが、流石に日も暮れてきたのでこの地に宿舎を構えて一晩明かす方針のようであった
村上軍はここまで思い描いた通りに事が進んでいるのですっかり戦勝に酔っており、この夜も就寝前に酒を酌み交わして泥酔する有様である
「貞祥殿、この度の勝利は貴殿の協力あってこそだ。ささ、呑み給え」
村上軍本陣でも重臣らが集まって酒が酌み交わされていたが、そこに招待されていたのは伴野貞祥だ
「有り難きお言葉にございます」
貞祥は武田に内通したふりをして実は村上の配下にあり、武田方に送った案内役こと間者からあらゆる情報を盗み、また武田の布陣を村上の思いのままに変えるように操っていたのだ
もちろん信虎に送った書状の中に書かれていた”大井氏との間の諍いに関する仲裁が不公平であった”などということも嘘であり、実際に大井氏との関係は悪く諍いはあったものの、義清の公平な裁定により解決していたものである
とはいえ、あくまでも伴野氏は外様である
今回の事案は村上方から諍いを仲裁した対価として要求されたものに過ぎず、諸勢力との間を渡り歩くような存在の伴野氏にとって武田を完全に敵に回すのは不本意であっただろう
だが、武田という選択肢を捨てるとの判断をさせるほど、村上の勢いが凄まじかったのは確かだ
「いささか酔いが回ったようだ。この辺でお開きにして寝るとしようではないか」
総大将である義清がすっかり酔ってきたところで解散となり、重臣らがふらついたその足で持ち場に帰ろうとした、その時である
「て、敵だーッ」
夜番の兵士の一人がそれに気づいて叫んだが、間もなく彼は突き殺された
「なんだ。今、叫び声がしなかったか」
義清はうつろな目を重臣の
すると、宴の際に酒を慎んでいた国則の顔が青ざめていた
「敵は油断しているぞッ」
「蹴散らせ蹴散らせッ」
「狙うは義清の首だーッ」
隙だらけの村上軍を襲撃したのは武田軍殿の馬場虎貞と山県虎清の両部隊である
実のところ、両者は撤退の最中に示し合わせて夜襲を計画しており、日没後に敵の斥候がいない間道を縫うように接近し、機を窺っていたのだ
出浦国則が声を上げる
「義清様ッ!我々は完全に不覚をとりました。もはや勝ち目はありませぬ。早く撤退の指示を!」
眼前で味方がなぎ倒されていく惨状に義清も酔いが醒めたようで、彼の号令により村上軍は撤退を始める
ただ、その様はほとんど軍団としての体を成さず、潰走と言って差し支えなかった
逃げる村上義清を山県虎清らが猛追したが、そこに出浦国則が立ちはだかる
「我は出浦国則なり!義清様を討たんとするならば、この国則がどこまでも立ちはだかろうぞッ」
山県隊と出浦隊はしばらく激闘を繰り広げ、後から馬場隊が加勢したが出浦隊が崩れることはなく、遂に両軍引き上げるに至った
武田軍としては義清の首こそ逃したものの挙げた首は数百に上り、まさに大勝利である
そして、武田本隊が帰還した翌日の夕刻に意気揚々と引き上げた訳だが…
「虎貞、そして虎清。こちらへ来てほしい」
信虎に呼ばれて奥の間へと招かれたので両者は特別な恩賞でも貰えるのかと思い、少し興奮を覚えながら信虎の後を追った
しかし、信虎と両者が座敷に座ると、信虎は怒りを露わにして叱りつける
「そなたらはわしに何の相談も無く勝手に戦を起こした。これで勝ったからまだ良かったようなもの。もし負けていたならば誰が責任を取るのかッ」
「え…」
予想外の激怒に言葉が出ない両者
信虎は構わず続ける
「これは明らかな軍規違反である。…よって、そなたらから重臣の座を剥奪し、陪臣からやり直してもらう。此度の事を深く反省し、もう一度正しく戦果を上げて重臣に戻ってくることを願う」
こうして、馬場虎貞と山県虎清の両者は侍大将を罷免され、与力からやり直すことになった
両者はすこぶる不満な表情でその場を去っていき、信虎としてもせっかくの勝利なので後味の悪いことはしたくなかった
しかし、重臣の楠浦昌勝の進言により、その決意が固まったものである
「軍規を乱しての勝利を黙認すれば、また同じことが繰り返されて予想外の大敗に繋がりましょう。ならば、不興をかってでも厳しい処分を下すべきです」
信虎は目先の勝利よりも後先の勝敗を重視して、その進言を採ったのだった―
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