捌 必死の励まし

 身延山久遠寺みのぶさんくおんじから富士川を東岸へ渡り南下した位置にあるここ、大島


 集落と僅かばかりの耕地が痩せた粟や稗を実らせている寒村だが、この日ばかりは武田の将兵が陣を構えて軍馬はいななき、騒々しい雰囲気となっている


 「ご注進!今川勢の先鋒が内船うつぶなに達しました!」


 密偵百足組から逐一報告される敵の動きに信虎は大きく頷く


 内船は現在の山梨県南部町内船にあたり、大島からは3kmほど南になる

そして、この3kmの間は川沿いに山がせり出しており、極めて狭隘な道である


 (既に伏兵の準備は整っている。さぁ来い…)


 信虎は今川軍が狭隘な細道で伸びきるのを手ぐすねを引いて待っていたが、今川軍は内船からいっこうに動かず、夜を迎えた


 (なにゆえ来ぬ。やはり伏兵を疑っているのか)


 信虎は周りの武将が仮眠をとる中でも一人起きて思案していたが、遂に眠気に襲われて、


 (このまま一晩中起きていることは難しい。少し眠ろう)


 陣幕横の木の幹に腰掛けて仮眠を取ろうとした

その時である


 「ご注進ッ」


 密偵の一人が大声で報告をしてきたので眠りかけた信虎もハッと目を覚ます


 「どうした」


 「大変です。今川軍の別動隊数千が安倍峠を越えて下山城に襲来し、下山城代の岩間殿は討死。下山城が陥落致してございます!」


 「なに…」


 信虎はその急報を聞いて呆然と立ち尽くす


 今川軍別動隊は武田方が河内路を注目している最中、駿府すんぷ(現在の静岡県静岡市)から安倍川沿いを北上して急峻な山道である安倍峠を越え、身延に乱入し手薄になっていた下山城を陥落させた


 また、これと時を同じくして穴山信風の陣営に密書が届き、


 ”貴殿の居城である下山城を攻略した。このままでは武田軍は北と南から挟撃されて信虎はもちろん、穴山一族の命もないだろう。ただし、ここで我らが今川に帰属して武田本隊で反乱を起こすならば、助命して下山城を即返還するだろう”


 という内容が記されていた


 初め穴山信風は、


 (今川方の攪乱作戦であろう)


 と考えて信じなかったが、次第に武田本陣が慌ただしくなってきたのを見て、


 (これは本当のようだ)


 そう感じて急に慌てだしたものである


 (ここで野垂れ死ぬわけにはいかん。となれば方法は一つ、反乱を起こすことだ)


 信風の決断により、穴山勢は謀反を起こして武田兵に斬りかかる


 


 「御屋形様、大変ですぞ!穴山信風が裏切り、味方を攻撃しております!」


 重臣の飯田虎春が信虎のもとに駆けつけて状況を報告する


 「ああ。敵は四方に満ちている。もはや逃げられる道があるかどうか…」


 流石の信虎も戦死の二文字が脳裏に浮かび、諦めに近いものを感じていた

すると、弱気になっている信虎を虎春が強く励ました


 「御屋形様ッ!活路は初めから開いているのではなく、自らの手で開くものですぞ!御屋形様はこれまで幾度となくそれを体現してきたではありませぬか!」


 「う、うむ。確かにそうだが…」


 「ここで死んだら悲しむ者が大勢おられます。側室のお徳さまはもちろん、正室のお松さまは実家の大井家が叛いた中でも強い決意をもって御屋形様に尽くしてきています。その他重臣の多くもそうです。万が一甲斐国を守られてきた御屋形様を失うということになれば、甲斐国は今川に屈することになりましょう。これまで命がけで守ってきたのは何だったのかということになります。何より、これから生まれてくるご嫡男様に…」


 ここまで涙を堪えてきた虎春も遂に落涙する


 そう、虎春が言葉につまった部分…お松の方(大井夫人)はお腹に子どもを宿しているのだ

 それが男子か女子かは分からないが、皆はそれがご嫡男だろうと期待してその日を待っているし、この時代は何人もの子どもを産むというのが通例なため、早かれ遅かれ嫡男は生まれてくる


 「…ですから、御屋形様は生きなければならぬ存在なのです…っ」


 虎春の必死の励まし


 その中でも嫡男の箇所は信虎に生きる決意をもたらした


 「分かった。虎春の言う通りだ。活路は自分で開かねばならぬ。…よし、皆の者。躑躅ヶ崎館へ撤退し再起を図る。わしは必ず生きて還るから、皆と生きてまた会おうぞっ!」


 こうして武田軍は信虎を中心にして撤退を始める

通常退却戦は後方からのみ攻撃を受けるが、今回は前後から攻撃を受けるし、何より両側は山と川ばかりで逃げ道はない


 状況的には決死の退却戦とも言うべきだが、武田の将兵に悲愴感はなかった


 「わしらは生きて還るんだ。これでも喰らえッ」


 先陣を務めた飯田虎春が下山城周辺に満ちている今川軍別動隊に襲い掛かる

彼の勇猛ぶりに今川兵が後ずさりし、その分だけ武田軍は躑躅ヶ崎館へ進んでいく


 また、後方では今川軍の本隊が迫っていたが、ここでは殿軍を務める秋山信任あきやまのぶとうが敵を防ぐ

 その途中、危うく信任は死にかけたが、そこへ後陣の多田満頼ただみつよりが戻ってきて秋山信任に迫っていた敵兵を追い払う


 「信任殿、大事ないか!?」


 「満頼殿!助けていただき感謝する」


 「大したことではない。ここは一緒に防いで共に生還しようぞ!」


 先陣と殿軍の体力消耗は激しかったが息絶える者はほとんどおらず、彼らは意気揚々として立ち向かった


 そして遂に武田軍の前に立ちはだかっていた別動隊の陣形が崩れ始める


 「御屋形様ッ!右手に活路を開きましたぞ!」


 飯田虎春の活躍により今川軍の一部が瓦解

武田信虎は敵の穴に向かって馬を走らせた


 その途中、穴が開いたことに気づいた今川勢がそれを塞ぎに駆けつけてきて信虎と斬り合いになったが、


 「わしはここで死なぬぞッ」


 群がる敵兵を次々と葬り去って、信虎は血路を開いた


 敵の陣営から抜け出した信虎はひたすらに馬を走らせて躑躅ヶ崎館へと向かう

そして門の前に辿り着くと、そこには側室お徳の方と懐妊中の正室、お松の方が出迎えた


 「おお、そなたら…」


 「御屋形様、お帰りなさいませ。知らせを聞いて不安な時を過ごしていました。よくぞご無事で…」


 「いや、まだこれから今川軍を撃破しなくてはならぬ。泣くには早いぞ」


 お松の方は涙目であったが、一生懸命首を振って信虎に言う


 「ここを生き延びたのですから、天はあなた様を見捨ててはいないのです。なので、絶対に勝てます」


 「そうかもしれんな」


 信虎も思わず目頭が熱くなる


 その後、将兵らが続々と帰還してきた

足軽などには多少の死者が出ていると思われたが主だった者は皆生還し、再び信虎と顔を合わせた


 そして彼らの前で信虎は宣言する


 「我らは生きて還ってこられた。これは天が、そして人が、我らにまだ死ぬな、ということを言いたいのだと思う。だから、我らは戦う。そして断じて甲斐を守り抜くのだっ!」


 「おーッ!」


 信虎は強い決意のもと、重臣らと共に甲斐防衛の策を講じて必勝を誓うのであった―

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