骨と心のある場所
秋色
〈前編〉
子どもの頃は、兄二人の後に生まれた一人娘として、みんなに可愛がられて育った。田舎の町で兄達と外で遊び回っては生傷を作っていた少女時代、家族から大事にされ、辛い思い出は殆どない。そんな自分にある、ほんのちょっぴり苦い思い出。
それは七才の頃の話。家の前を走る道は車も人通りもあまりなかった。ある夕方、母親が夕食の準備をしている間、暇だったので、家の前に出て、道の左右をキョロキョロ見回していた。
すると何かカフェオレ色の物体が視界の端に入ってくる。思わず目で追うと、十メートル先の家の前に座っている小さな猫だった。その家の前には、花が植えられている細長いプランターがあって、その影に隠れるようにネコは座っていた。「鈴のような眼」というのか、まん丸でかわいい眼をした愛くるしい生き物。
家で動物を飼った事がなく、珍しかった私は、好奇心と可愛さで、「ねこちゃん、ねこちゃん」と呼びかけながら近付いた。
猫は、警戒しながら立ち上がったものの、立ち去るわけでもなく、微妙に私の動きを見つめていた。でも私が母親を呼びに家の中に入り、出て来た時には、もうその姿はなかった。
そんな小さな動物の愛くるしい姿が心の中の甘い記憶となって数日後、子猫はまたも現れた。その時は、期待を込めてそっと家を出て外をうかがった私の眼に飛び込んできた。カフェオレ色の子猫は、またもじっと私の方を見ている。かと思うと飽きたのか、今度はわが家のプランターの中のチコリに興味を持ったみたいで、その澄んだ青い花をくんくんと嗅いでいる。近くで見るとその瞳は、宝石のような緑色だった。首輪がない所を見ると飼い猫ではないらしい。
日曜日の午後くつろいでいる両親をそっと手招きした。兄二人は、野球のリトルリーグに所属していて、その日はいなくてラッキーだった。兄二人がいたら乱暴に近付いて猫を驚かせただろうから。
父は「あの動きからすると、野良だろうな」と言い、母は「でもあんな綺麗なんだから、野良じゃないんじゃない?」と反対意見をとなえる。父は間を取るように「きっと半野良だ」と決めつけた。
私が「あのねこちゃんに何かお菓子をあげる」と言うと、それには両親とも反対で一致した。
父は言った。「猫にエサをやると居付くようになる。一度やると猫はエサを期待するようになるものなんだ。次からやらないと猫は混乱するし、猫にとってかえってかわいそうな結果になるんだ」
*
父の言葉に何とはなく納得し、それでも結果的には、カフェオレ猫に食べ物をあげる事になった。
そのいきさつはこうだ。
翌日の夕方、例の猫が今度はおそるおそる、今度はわが家の近くまでやって来た。
「お腹空いてるんだよ、きっと」とカフェオレ猫を初めて見た下の兄。
「あんなに痩せっぽっちだもん」と私。
そんな子ども達の言葉が母を動かした。母は子猫をそのままにするのは無責任だと感じたようだ。台所へ行き、夕食の煮魚の尻尾の部分を持ってきた。それを猫の少し前に置いたものの、警戒した猫は、魚の尻尾と私達を何度も見比べながら、食べ物に手を付けようとしない。
「見てると食べないもの」
母はそう言って私と兄の手を引いて家の中へ入った。
そしてその言葉は正しかった。しばらくして家の前に見に行くと、魚の尻尾は消えていたから。
それ以来、二、三日ごとに訪れるカフェオレ猫にわが家では、魚の切れ端をあげるようになった。海が近く、祖父母と同居のわが家では、肉より魚が食卓に並ぶ事が多く、当時は常に何かしらの魚が家にあった気がする。
カフェオレ猫には、私の独断で「ミミ」と名前が付けられた。
ちっぽけだったミミが少し大きくなると、魚も尻尾や切れ端ではなく、ちょっとした切り身や小魚になった。
ミミは相変わらず私達の前で食べる事をしなかった。私達が姿を消し、自分独りになってから口をつける。そして食べ物の残骸も残していなかった。
ミミがわが家のあげる魚だけで生きながらえているとは思えず、他の家でも食べ物をもらっている可能性は高かった。
また、ミミは家族を識別していた。ミミのいちばん気になるのは、母だった。食べ物を自分に持って来てくれるキーパーソンだからだろう。荒っぽい兄達には警戒していた。
そして私には、中途半端な感情が向けられていた。
最初にミミに食べ物をあげたいと言ったのは私だけど、それより実際に食べ物を持ってきてくれる母に感謝の意を評しているよう、ミミの視線から感じられる。私には、そこにいてもよいという承認みたいなものはあるけど、そして私が「みゃーお」と鳴き声を真似ると、「ミャ」くらいの反応をするけど、それだけ。
一度は無理に仲良くなろうと、じっと座っているミミに自分の手を近くまで差し伸べた事がある。すると、まるでガードするみたいに前足で軽いネコパンチをしてきて、本当に軽くだったのに私の指に血が滲んだ。ミミが悪者になったら、もう遊ぶのを禁止されるかもしれないので、これは自分だけの秘密にした。
私はミミに会うたび心がはずむものの、そんなわけで何だか心にいつもちょっとしたざわざわがあった。もっと仲良くしたいのにこっちを見てくれない、みたいな。
かと言って、もういいやと距離を置こうとすると、ミミは逆に近づいて来て、そのまん丸な瞳で、こちらが目をそらせないくらいにじっと愛くるしく切なく見つめてくる。
ある日、ミミは私のピンクの髪飾りのポンポンに興味を持ち、座っている私にはい上がって来そうになった。初めてなつかれた気がした。髪から髪飾りを外して眼の前の花壇の縁に置くと、前足でコロコロ転がしたり口にくわえてみたり、すごくこのポンポンにハマった。結果、自分のものにし、以来この私のお気に入りだった髪飾りは行方不明。ミミはまた、元のツンデレ猫に戻った。
もう「ミミなんかどうでもいい!」とすて鉢になって、これからは好きなお絵描きをして毎日を心静かに過ごそうと決めたところでまた、ミミにデレデレされスタート地点に戻るのだ。ミミは女のコの猫だった。ある意味、小悪魔タイプ、魔性の女だ。
それでもやっぱり学校から家に帰ると真っ先に外にミミを探しに行ってしまう。ミミのいる生活は張り合いがあって、幸せだった。
本当は家の中でちゃんと飼いたかったけど、親に反対されたし、それ以前にミミは決して家の中に入って来そうになかった。自分で自分の領域を決め、大好きな門の近くやプランターの横のラインを越えては近付いて来なかった。
それにミミにはミミの交友関係があったのだ。ある日、同じクラスの友達と隣町の公園に行った時の事。そこにミミが、仲間のもう少し大きい猫と一緒に居たのだ。その日は、「ミミ」と呼ぶ事もせず、ただ遠くから見るだけで通り過ぎた。
それからだんだんミミがわが家を訪れる頻度は少なくなり、やがて全く姿を見せなくなった。近所を歩いている時にどこかでミミを見かけるかと期待するも、全く別の猫で、がっかりする事がよくあった。
こうして、私に誰かを好きになる事のこの上ない幸せとちょっぴりのざわざわした哀しみを教えてくれたカフェオレ色の猫は、現れたのと同じくらい突然に、私の人生から去っていった。
時折ミミの思い出を口にする私は、上の兄から厳し目に言われた。「美紀、ウチは中途半端に食べ物をあげてたたんだから、ツンデレ猫がウチから離れていっても仕方ないよ。何が何でもここで守り抜くみたいな気持ちがあったら、あいつも違ったかもしれないな。結局、無責任だったんだ」
家族の誰もが口にしなかったけど、私達はミミがもうこの世にいないのではないかと心のどこかで感じていた。
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