誰がために鐘は鳴る-5-

 公平が意識を失いかけている頃、久太郎は後頭部をさすりながら目を覚ました。

「痛てて、ちくしょー、一体どうなってんだ」

 瞬きを繰り返すと居心地の悪さに気づいた。さっきまでオムニパイの中にいたはずだが、今は生身のまま床に転がっている。

「あれ? ちょっと、これ、どういうことなんだよ」久太郎は後頭部にできたコブのことも忘れ、すぐさま立ち上がった。

 オムニパイは厚手のウレタン素材という保温性の高い素材で、しかも発熱しやすい電子機器を搭載しているため、起動中は内部の温度がかなり高くなる。これに備えて久太郎はトランクス一枚でもって入っていたのだ。気づけば、公衆の面前でパンツ一丁という姿にうろたえないはずがなかった。

「えー! なんでなんで?」

 幸い辺りは停電のせいで暗闇に包まれていた。目を慣らそうとキョロキョロしていると次第に記憶のモヤが晴れてきた。公平のDJ後に会場の照明が消えると同時に、久太郎はオムニパイの暗視装置を起動させ、エレベータホールに駆けつけたのだ。

「えと、そしたら誰かにぶつかったんだっけか?」頭を二、三度振ると「いけね、こうしちゃいられない」とエレベーターの操作ボタンに駆け寄った。

---げ、電源が回復してない! 久太郎は青ざめた。なにしろ、公平が登って行った支社長室は、50階まで階段を上がらねばならないのだ。

 すると、久太郎の背後で「キャッ」という悲鳴にも似た女の声が上がった。

 振り向いてみると、薄暗がりに美紗子の姿が見えた。

「み、美紗子さん!」

「え?」美紗子は薄闇の中で裸に近い久太郎を睨みつけた。「ちょっと、アナタ、そんな格好で何やってんの! どさくさに紛れて、妙なこと考えてるなら許さないわよ」

「違う、違う! 僕はさっきまでオムニパイ百周年モデルの中に入っていた者なんです」

「はぁ? だったら、さっさとオムニパイに戻りなさいよ。いくら暗いからってパンツ一枚でウロウロされちゃ困るのよ」

「いや、そんなことより公平が、公平が大変なことになってるんだ! 一刻も早く支社長室に行かないと、もしかしたら……」

 言い終わらないうちに美紗子が久太郎に近寄った。

「それを先に言いなさいよ! あなた、公平の友達なの?」美紗子は早口でまくしたてながらエレベータの上昇ボタンを鋭くプッシュ。

「あ、それ動いてないです。誰かがダウンさせたんだと思う」久太郎が口を出した。

「そ、そんなはずないわ。セキュリティが別系統なんだし……」IDカードを何度かスロットに試したものの、反応はない。「ああ、もう! なんとか反応しなさいよ!」焦りに焦った彼女は操作盤を思い切り叩き始めていた。

「そうだ! 美紗子さん、そのタブレット! タブレット貸してください!」

 返答も聞かずに久太郎が美紗子の手からタブレットを取り上げると、あっという間に電源系統に侵入。美紗子に「社員コード、打ち込んで下さい」とタブレットを差し出した。

「ちょ、ちょっとあなた、見ず知らずのパンツだけの男に私がそんなこと教えると思うの?」

 それでも、言葉とは裏腹に美紗子はおずおずとコードを打ち込んだ。久太郎の手際と、切羽詰まった様子に気圧されたのかもしれない。

 そして、久太郎が最後のコマンドを打ち込むとエレベータの操作盤に光が灯った。

「さ、行きましょう!」

 久太郎に促されるまでもなく、美紗子はエレベーターに飛び乗った。


 同じ頃、鳥居は全速力でイコンの展示ブースへ駆け戻っていた。すると、真っ暗闇の中でも、展示台のそばで警備員が慌てふためいているのが目に飛び込んできた。息急き切って駆けつけると、展示台のロックが無残に壊されており、イコンは跡形もなく消え去っていた。

「くっそぉ、ひと足遅かったか! ヤツめ、まんまと盗みやがった」

 歯ぎしりまじりで言い捨てると、鳥居はすぐさま携帯電話を取り出した。

「キンパイ(緊急手配)だ! 管機、管区動員かけてホシが飛ぶ前になんとしてでも確保されたし!」

 電話の向こうで連絡を受けた警視庁第一方面本部はすぐさま各局に伝令、容疑者確保に向け相当数の警察官が行動に移った。

 キビキビと緊急配備を要請する鳥居に、普段のモタついた様子は微塵もない。それもそのはず、鳥居の正体は警視庁公安部外事第二課の刑事で、オムニ・エレメンツへの潜入捜査中だったのだ。

 ようやく会場内の非常灯がともり始めると、暗闇に慣れていた鳥居は目を細めた。目を慣らそうと遠くを見つめると、あろうことか美紗子が裸の男と向き合って声を上げているのが見えた。

「やや! 暗闇に乗じての狼藉、許さんぞ!」声をはりあげると、鳥居警部補はエレベーターホールへ向けて一目散に駆け始めていた。


 非常灯がともったせいか、パニックめいていた客たちの動きは落ち着きを取り戻し始めた。スタッフの誘導も手伝って、出口へと歩く列にオムニパイ百周年モデルが混じっていても、目を向ける者は誰一人いなかった。が、ぎこちなく歩くオムニパイに近づけば、毒づく未亜の声が聞こえたかもしれない。

「なんて暑いのよ! そりゃパンツ一枚にもなりたくなるわ」

 公平のDJプレイ直後に照明が落ちるや否や、未亜はイコンの展示台へと全速力で駆けた。この日のために、キャンモニを模したウェアラブルコンピュータに暗視モニターも装備していたのだ。案の定、鳥居の姿はなく素人じみた警備員が展示台の周りであたふたとしているだけだった。これに当て身を食らわし昏倒させると、展示台の下に隠しておいたレーザーカッターを取り出した。

 はじめは電子ロックを特殊なデバイスで解錠するつもりでいたが、停電している時間が読みづらかったため、不安定な解錠アプリに代えてロックを切断するレーザーに切り替えた。カットにも時間を要するが、非常灯が点灯するまでには完了できると踏んだのだ。が、読み違えたのはカットの際にロックの破片が火花のように飛び散ったことだ。停電で慌てているとはいえ、周囲に客がいるところでの読み違いに「ぬかった」と歯噛みした。仕方なく手のひらをかざし、火花を目立たぬようにしたものの、これが熱いのなんの。手のひらは火傷を負い、しかもヒョウ柄の跡がついたことに二重のショックを覚えていた。

 一辺が10センチにも満たないイコンを額縁ごと分捕ると、今度はエレベーターホールへと駆け戻った。未亜のかけていたキャンモニが、オムニパイの行き先をトレースしていたのだ。気配を殺してオムニパイの背後から近づくと、力任せに引き倒す。中で気を失っていた久太郎を引きずり出し、素早く着ぐるみの中に滑り込んだのだった。

 正面玄関はすでに混乱のピークを過ぎていて、オムニパイは見咎められることなく客待ちのタクシーに乗り込むことができた。普段は乗り場もオムニの監視下に置かれているが、停電に見せかけてセキュリティ系統を破壊してあった。このシーンが記録に残ることはない。

「羽田空港、第2ターミナルまでお願いね!」着ぐるみの中から未亜のくぐもった声。

「は、羽田?」ミラー越しに戸惑った声を上げたものの、運転手はすぐさまギヤを入れた。

 タクシーが霞が関から首都高に乗ると、未亜は苦心してオムニパイから抜け出した。

「プハー、暑かったー」汗をぬぐい、メイクを直そうとコンパクトを覗いて笑みがこぼれた。

---そうそう、最初はこのメガネが気になったんだっけ。鏡に映るキャンモニ姿に頬が緩む。

 公平と出会った当初は、まさかあんな間柄になるとは思わなかった。正体不明の怪しげな広告屋、仕事の邪魔になるようだったらすぐに消そうとさえ考えた。そもそも、チャラチャラと軽薄で口が達者な男はタイプではなかったのだ。だが、話してみれば仲間思いで、芯の通った男ぶりに見る目が変わった。仕事の流儀として誰かの助けを請うことはついぞなかったが---この男なら、との思いが芽生えるのにそう時間はかからなかった。

「え? エクスポで停電させる? そりゃ困る。こっちはDJやらなきゃならないんだ。せめてそれが終わるまでどうにかなんないかなぁ」

 マチルダへの復讐としてエクスポを失敗に終わらせたい、そう頼んだ時のうろたえようは滑稽にも思えたが、今思えばセクシーな顔にも見えた。DJライブでのトリックを聞いた時には舌を巻いた。なにより、子豚のような寝顔といびきさえ今となっては愛おしい。

---あいつのおかげで、思ったより楽しく仕事ができたな。

 国際指名手配犯、黒102号は満足げに頷き、束の間のまどろみに身を委ねていった。


 支社長室では口から泡を吹いて倒れこんでいる桧原の傍にマチルダが寄り添っていた。

「ねぇ、トオル、お願いだから目を覚まして。トオル、トオルちゃん」嗚咽交じりの声をあげているマチルダには邪気は微塵もなく、そこにはうろたえ、取り乱した女がいるだけだった。

「あいつが言ったことなんか信じちゃだめよ。私は……トオルだけを愛しているの。ねぇ、トオル、目を覚まして。お願いだから……」涙の筋が自慢のアイメイクを無残に崩しても、構うことなくマチルダは桧原に寄り添い、囁き続けている。

 彼女の頰を伝って大粒の涙が一滴、桧原の額に滴り落ちると、唇のあたりがピクリと動いた。

「あっ、トオル! 目を覚まして、トオル!」桧原の肩を抱き、揺り起こそうと必死の形相を浮かべるマチルダ。

 その背後で乱暴にドアが開いた。

 とっさに振り向いたマチルダが目にしたのは美紗子と、マーケティングスタッフの鳥居とかいう中年男、そして下着姿の見知らぬ男の三人だった。

 飛び込んでくるなり、裸に近い男は「コウちゃん! しっかりしろ!」と公平に駆け寄り、首元を心配そうに支え始めた。鳥居は「こ、これは」とつぶやくなり、すぐさま携帯電話を取り出していた。場違いなほど冷静だったのは美紗子だ。「支社長、事情を説明していただけませんか」

 マチルダは涙に濡れた目元をしっかりと見開き「アナタにそれを聞く権利はない。申し開きはテキサス本社でするわ」毅然として言い放った。

「いいや、あなたは大変なことをしでかしたようだ。テキサスへ戻る前に、東京の警察でたっぷり事情を聞かせていただきますよ」鳥居がマチルダの前に立ちはだかった。

 その刹那、マチルダのもとで桧原が「ウーン」とうなり声をあげ、唐突に目を覚ました。

「ト、トオル、よかった! 目を覚ましてくれたのね、よかった、本当によかった。アイラブユー」

 横たわった桧原を強く抱きしめると、マチルダは熱い口づけをした。

 この際、誰にも聞こえない小声でもって公平が「キモっ」とつぶやいていた。

 

 公平が目を覚ました6時間後、アメリカはユタ州にあるNSA(国家安全保障局)のデータベースにひとつの映像データが加わった。世界中の監視カメラから情報収集を行っているNSAにとっては日常的な業務でもあり、この時点では誰ひとり注意を払うものはいなかった。だが、NSAと秘密裏に技術連携していたオムニ・エレメンツ社には、ひとりだけこの映像に興味を持つ者がいた。

 カメラは香港国際空港の貨物ターミナル、一般の乗客はめったに見かけないエリアにある女性用化粧室の様子をとらえていた。アジア系の女性、画像分析によれば身長およそ150センチメートルの彼女が、鏡の前で小さなコンパクトを取り出した。その中から薄い紙のようなものを取り出し、照明に当てて丹念に確かめはじめた。すると、いくらもしないうちに彼女は紙を丸めてゴミ箱へと放り投げた。去り際に蹴りあげられたゴミ箱は、金属製にもかかわらず大きなへこみができていた。

 モニターの前で一部始終を見終えた美紗子は、両の拳を握りしめ小さく快哉を叫んだ。


 エキスポ終了後、オムニ・エレメンツ社は国際的な企業買収に伴う特別背任などのタイトルで連日ニュースのトップを飾った。が、一週間も経たずにピークは過ぎ、瞬く間にあらゆるメディアからオムニの名は消えていった。

  キャリオニアの専務、桧原は懲戒免職の処分を科せられ、その後に業務上背任で訴えられた。マチルダと共謀し、株価操作を企図した行為は買収後の保身を目論んでのことと見られているが、本人の供述は公開されていない。また、マチルダは警視庁に身柄を拘束されたのも束の間、すぐさまアメリカ司法当局へと引き渡されていた。取り調べに対し完全な黙秘を貫き通し、鳥居の真相究明という目論見は無残な結末を迎えたものの、マチルダは本国でキャリオニアの買収にまつわる違法行為だけでなく、その他疑わしい行為についても追及が重なり、現在も収監施設に拘束され続けている。

 また、匿名の通報によってキャリオニアは社内の関連資料を提出するだけでは済まないでいた。通報によれば、事件の発生前から映像記録が残されているとされ、首脳部はキャンモニによって得られた記録一切の提出を余儀なくされた。

 当然、公平と久太郎も取り調べを受けたものの、ハッキングと不法侵入は不問に付された。鳥居によって忖度されたのか、ふたりの行為は桧原による強要と見なされたのだ。それでも、ふたりが受けた衝撃は大きく、とりわけ久太郎は取り調べの直後で発熱し入院。鳥居の配慮で警察病院の隔離された病室が用意され、見舞客は親族のみに限られた。驚くべきことに、警護をどう避けてきたのか美紗子が見舞いに現れたという。

 一方、公平は取り調べを終えると、キャリオニアから退職した。無論、会社からは警視庁の判断同様、一切の処罰もなく、また、事情を知った部署の連中がこぞって慰留に努めたものの、公平の辞意が翻ることはなかった。それでも、出社最終日に音響営業部が全員で見送った際、公平は下げた頭を長い間あげることができなかったという。


「アンタもほとほとツイてないわね」

 太い指でつままれたグラスが公平の前に置かれた。野口によって注がれたグレイグースがバカラのオールドファッションを満たしていた。

「いっそのこと、久太郎ちゃんと一緒にシカゴ? テキサスだっけ、行っちゃえばよかったのに」

 公平は口元に小さな笑みを浮かべて返事に代えた。

「フム、たしかにあこぎな買収にきたオムニにスカウトされるってのは微妙かもしれないわね。けど、断るのは簡単だけど、受けるのは相当な葛藤があったはず。当然、アンタならわかってることでしょうけどね」

 久太郎は見舞いに来た美紗子の意外なオファーに驚いたそうだ。テキサス本社の研究員としてリクルートしたいという美紗子に、久太郎は最初にべもなく断ったが、キャリオニアに居残ることにも躊躇していたに違いない。それでなくとも人見知りする久太郎に、事件後の好奇の視線にさらされることがどれだけ苦痛かを考えたら、野口の言う「相当な葛藤」も的を射ているだろう。結局、美紗子のオファーを受け、しばらく前にテキサスへと旅立って行ったのだ。

「ていうか、アンタだってプロポーズじみたこと言われたんでしょ。歓送会の時、久ちゃんが酔っ払って教えてくれたわよ。あの、ハーフ美人さん、ベトナム? シンガポールだっけ、支社長に抜擢されたってニュース、フォーチュンのサイトに出てたわよ。まったく、アンタも見る目がないというか、星めぐりが悪いというか、困ったものね」

 事件後、オムニ・エレメンツ極東支社はキャリオニアの買収を中止しただけでなく、東京のラボを大幅に縮小した。日本国内で先行きの見通しが立たないことによる「事実上の撤退」とみなされていたが、公式発表によれば極東支社はシンガポールへの「移転」とされていた。また、美紗子がその支社長に任じられたのも野口がネットで目にした通りだ。

 以前はテキサス本社でマネージャーに昇進だと聞いていたが、公平はシンガポールへの赴任がエクスポ・スキャンダルによる懲罰的な措置でないことを祈っていた。

「ていうかさ、オムニはオムニでやましいところあるんじゃないかしら。だって、お宝のイコンが盗まれたこと公表してないでしょ。どっかで裏取引でもしてるんじゃ……あ、そうそう、ウチのお客で警察庁のお偉いさんがいるんだけどさ、オムニで潜入捜査してた刑事さんね、インターポールに出向するんだって」

 鳥居の顔を思い出し、公平の眉が動いた。なにしろ、一時は「イコン泥棒」の共犯と疑われ、徹底的な取り調べを受けたのだ。鳥居は「はじめこそミラーボール奪回という目的のために潜入した公平が、未亜とねんごろになったことで泥棒の片棒を担いだ」と筋を描いていたが、皮肉なことに桧原の「ありえない」という供述と、匿名の通報によって提出されたキャンモニの記録が疑いを晴らしてくれたのだ。

「でも、おかしいじゃない。アンタがイコン泥棒の疑いをかけられたってのに、オムニどころか警察も盗まれたこと発表しないってどーゆーこと? もしかして1億ドルのお宝がなくなるとオムニの経営が傾くほどのダメージってこと? だとしたら、武田信玄みたく『死して三年はそれを隠せ』的なニュアンス? 三年経ったところで『盗まれてました!』的な?」

 相づちに代えて、公平は眉根を寄せて憂い顔を浮かべてみせた。

「おそらくは……、いや絶対にオムニの事情なんでしょうね。脱税バレるから被害届出せないとかさぁ。ウチの客でもしょっちゅういるし。犯人取り逃がしたのにインターポール出向、ちょっとした栄転ってのは口止めってことかもしれないわね」公平が頭に描いたことを野口が言葉にしていた。

「ところで、年越しもリージョンでDJやるつもりなの? ニコライがまたキングホテルでイヤーエンドパーティやるらしくて、アンタに回してほしいそうよ」

 キャリオニアを辞めた後、公平は再びDJに戻っていた。と言っても自発的な復帰ではない。しばらく家に引きこもり、塞ぐでもなく遊び呆けるでもなく過ごしていると、野口が無理やり西麻布の小さなバー「リージョン」でのDJをブッキングしてくれたのだった。

「リージョンのタカはさぁ、真面目だけど欲がないっつーか、商売上手じゃないのよね。でっかいスピーカー置くのはいいけど、もうちょっといいお酒置かないと太い客も寄りつかないっつーの。アタシ、タカに会うたび言ってるの、ウチからお客も回してんだからせめて舶来のシャンパンくらい置いてくれって。でないと、こっちの面目なくなくなくなくなくなくない?」

「ダヨネー」すかさず公平がリアクションすると、互いに笑みを交わした。それが頃合いだと、腕元のエクスプローラーに目をやると「そろそろタカさんのお店にいきますね」と席を立った。リージョンで回す夜は、表敬も兼ねて必ず野口の店に立ち寄っていた公平だったが、本音は「リージョンではうまいウォッカにありつけない」からだった。

 リージョンは西麻布の交差点に面したビルの地下にあった。どこにでもあるようなバーだったが、好立地なためか週末ともなればカウンターもテーブルもそれなりに埋まっていた。だが、野口の店とは違って狭いうえに天井も低かったため、公平は閉塞感に苛まれることが幾度もあった。一方で、閉塞感は客の長居を防ぐことにもなり、回転率には貢献していた。それゆえ、安い酒を飲ませていても売り上げは「週末にDJを雇えるほど」のことはあったようだ。

 カウンターの端に設けられたブースに立つと、公平は手際よく曲を鳴らし始めた。口開けはカウンターに陣取った常連の好みを反映してボビー・ハンフリーの「ユーメイクミーフィールソーグッド」70年代のライトなソウルナンバーで肩慣らしだ。気に入ってくれたのだろう、カウンターの客からだとタカがグラスを差し出した。透明な液体こそ入っているが、公平は期待せずに飲み干した。予想通り、喉が焼けるような刺激しかなかったものの、客は満足げにうなずいてくれている。

 続くジェームズ・D・ホールの「アイワナゲットイントゥユー」はさらに軽いAORだったが、

---なに、キーさえ揃えておけばこの時代はベースが勝手にグルーブを作ってくれる。と、公平はリズムに合わせて首を振っていた。続いてユニバーサルトゥゲザネスバンド「エイントゴナクライ」をドロップすると、客だけでなくタカさえ体を揺らし始めていた。

 だが、アゲ始めるには時間が早い。間奏のドラムセクションでショートカットするとアヴェリ・ジョンソンの「ソングフォーユー」のピアノソロをカットイン。雰囲気は一気にウェットへと傾く。気ままに選んでいるようでも、心地の良さは客の顔に表れている。

---ふむ。夜はこうでなくちゃな。公平もまた、自己満足と知りながらも得意げな顔を浮かべていた。

 そうして気分よく回し続けること数時間。店を閉める時間が迫った頃、その女性客はやってきた。

 常連でもなく、待ち合わせでもなさそうだ。公平から離れたスツールに腰掛け、酒が届くとかすかにグラスを掲げて見せた。

 ここで、閉店前ラストの曲をかける時刻に。公平はA-haの「テイクオンミー」アンプラグドをセレクト。オリジナルのアップテンポとは打って変わってスローなバラードに編曲されたもので、テクニクスのバックホーンスピーカーが店の空気を優しく震わせた。

 曲はライブ録音だったため、最後には聴衆の拍手や歓声まで録音されていた。が、それがフェードアウトするのを待たずに女性客は消えていた。気づいた公平はバツが悪そうに小さく肩をすくめていた。

 店がクローズして、公平はギャラを受け取ると、地上へ向かう階段を一気に駆け上がっていった。地上に出た瞬間、真冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、開放感を全身で味わった。狭苦しいリージョンでのDJが終わった後のいつしか身についたルーティンでもあり、また、これから起こることへの心の準備といってもよかっただろう。

 息を整えて交差点に目を向けると、先ほどの女性客がガードレールにもたれかかり、まっすぐ公平を見据えていた。

「久しぶり! 美紗子さん。いや、未亜スクリャービナって呼んだ方がいいかな」

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