第8話

 腹に反射して心臓を揺らすこの音は、花火の音だろうか。

 目を開けると、意外にもそこは夜空の下ではなかった。木製の天井、ここは屋内。いや違う。体を起こせば、ここが東屋であることが分かった。自分は、東屋の中のベンチに寝かされていたのだ。


「ゆらちゃん! 目、覚めた? 具合はどう?」


 ベンチの横でしゃがんでいたらしいすみれ先輩が、私の額に左手を当てて熱を確認してくる。右手にはペットボトルの経口補水液があった。これを渡されて、少しずつ飲まされる。

 そういえば、私は倒れたのか。二人の告白の現場を見て、ショックを受けて倒れたものだと思っていたが、それは引き金に過ぎず、単に脱水症状だったらしい。精神状態は悪いが、体調はいたって普通だった。おでこに貼ってある冷却シートのおかげだろう。すみれ先輩と杏子先輩に軽く会釈をしたのち、お礼を言った。


「目が覚めたか、覚めましたか……ためぐちで良いか。すみれ、私は先に帰ってるよ。そいつを送ってあげな」杏子先輩は普段はためぐちなのか。彼女は私に近づいてくると、耳元で「まだあなたを認めたわけじゃない。あなたが泣くのは勝手だが、すみれを泣かせるようなことがあれば、覚悟しておくことだ」と言って去っていた。

「ゆらちゃんごめんね。あの子の言うことは気にしなくていいから。むしろ、素晴らしい作品で私を泣かせてほしいくらいだから」


 彼女は微笑みながら、私の手を取っている。

 なぜ杏子先輩は先に帰ったのだろうか。彼女らは、互いに好きあっているのではないのか? 私がさっき見たのは一体?


「もう歩けそうかな。それじゃあ、私たちも帰ろうか」


 そうやって差し出された手には、多少の蕁麻疹が認められた。まさか彼女は、私の水のために苦手な人混みに? 杏子先輩に任せればよかった仕事を、なぜ。私が先ほど聞いたあの告白言葉は、聞き間違いだったのか?


「先輩、さっき私が聞いたのって――」

「ゆらちゃん。明日全部話すから、今日はおやすみなさい。不安なうちは気持ちが悪いかもしれないけど。それでも、明日に話させて。私のエゴを、どうか許して」


 帰り道、すみれ先輩との会話はほとんどなかった。道の確認と、別れの挨拶くらい。

 けれど、彼女の手はしっかりと、私の手をつかんでいた。私が迷子になってしまうのを防ぐためか、逃げ出すことのないようにか、それとも。

 深夜、眠れない私のもとに、一通のメッセージが届いた。


『明日、午後六時半に学校の正門集合ね』


 なぜ、学校なのだろうか。祭りの会場からは離れてしまうが。

 返事をするか考える間もなく、体の疲労のために、私は眠りについた。




 聞こえるのは、腹を揺らす低温ではなく、絶え間なく打ち付ける落水の音。

 今日は、朝から雨だった。

 ニュースでは、この雨は夜まで続くだろうとされており、この町の夏祭りにも言及していた。おそらくは、花火は揚がらないだろうと。

 先輩からの連絡はない。今日は一体、集合できるのだろうか。

 昼。雨脚は強まり、どたどたドタドタ、天井をいくつもの人が歩き回っているかのよう。

 連絡はいまだなく、なぜ予定を中止にしてくれないのかと憤慨する。あなたは、杏子先輩と好き合っているのだろう? ならばなぜ、私を学校なんかに呼び出すのだ!

 夕方。ついに連絡がきたと思えば、『来てね』の一言。雨の勢いは過ぎて、今はしとしと降っている。

 行きたくない、先輩と会いたくない。けれど、会いたい。どうあがいても、私の心はすみれ先輩にとらわれたままで、心臓も文字も、私の生きるための証が、彼女を求めている。


 今まで書いてきた、すみれ先輩に見せたことのない恋愛小説、『階段の踊り場でブレスレットを交換する。』。未だ結末にたどり着いておらず、登場人物の二人は告白さえしていない。

 原稿用紙を手に取り、続きを書こうとする。しかし彼らは険悪となり、別の道を歩もうとする。やめてくれ! あなた方には罪はないのに、なぜ私の心の傷でその恋の行方を決められよう!

 苦しい。私の望んだ恋愛を書くたびに、登場人物が憎くなる。もうこの続きを、書くことはできない。書けるのは絶望だけ。

 ベッドの下から、今まで書いた話を引っ張り出す。重なった紙の束は、そう簡単にちぎれるものではなく、ましてや私の非力では破くなど不可能に近い。

 しわが付き、表面に近い紙のいくつかが少しだけ破れる。親指が痛い。力を入れると、紙を支える指が圧迫されて痛い。私とすみれ先輩の、通ってきた軌跡ともいえる紙を破るのが、とても痛い! 心臓がねじれ、脳が溶け、胃はひっくり返り、腸は踊る。頼むからどうか、この傷ついた心を直してほしい。傷跡さえ残さず、きれいさっぱりと!

 紙の一部がビリっと大きな音を立てて破けたと同時に、電話が鳴った。無機質な電子音を鳴らすそれは、すみれ先輩の名前を表示していた。


「……もしもし」

「ゆらちゃん、もう六時半だよ。私、待ってるから」


 一方的に電話が切られる。

 外を見れば、雨は上がっていた。


 ひとたび外に出ると、肌を濡らすかのような大気が、体を冷たくする。

 それでも祭りに向かう人々の群れは賑やかで、そして今日、あの群れの中に私はいない。

 方向音痴に自信のある私だが、学校の場所くらいはわかる。

 歩きなれた道。沈んだ太陽は地平線をオレンジ色に染めて、その余力を示している。

 閑静な住宅街、それは道路と歩道の境界線がないコンクリートの道。水たまりを避けて、大きく左右に移動させられる。これが鬱陶しいので、えいやと水たまりに足をつけると、次は靴が常に鬱陶しい感触となった。

 なんだか、気分は晴れないがテンションは高い。すみれ先輩に会える喜びと、彼女に会いたくない気持ちがぶつかっているためだ。

 電線から垂れた水が、頭の頂点を濡らして、じっとりとした生垣からは生き物が顔を覗かせている。

 フェンスは返々に水を従えていて、それに背負ったバッグを預けて、すみれ先輩が待っていた。


「ゆらちゃん、来てくれたんだね」

「遅れて、ごめんなさい」


 先輩は、叱るでもなく茶化すでもなく。ただ一言、ついてきてと。

 足やお尻を濡らしながら、正門を乗り越えて夜の学校に侵入する。先輩がカギを使って玄関ドアを開けると、暗い校舎の中に入れるようになった。

 心臓の音がまるで、昨日花火に打ち鳴らされたときみたいにうるさい。これは、初めて侵入という犯罪をしているためか、それとも、すみれ先輩に何を言われるのか、不安と焦燥の入り混じった気持ちでいるためか。

 先輩は階段を上り始めた。どこへ行くのだろうか。

 一階上がると一年生の教室が。もう一階上がると二年生の教室が。さらに一階上がると、三年生の教室だ。先輩は、そのまま階段を上り続けようとした。この先にあるのは、屋上。もしくは、


「着いたよ、ゆらちゃん。ここで君が、私に告白してくれたんだよね」


 もしくは、踊り場。

 あの日、私がブレスレットを交換してほしいと、すみれ先輩に言った場所。


「なん、で。どうして、ここに?」

「ゆらちゃん。君に、私の感情を聞いてほしいの。君を不安にさせてしまったから、その償いとして。私のすべてをさらけ出すよ」


 先輩は、両手で私の手を握って、正面に立っている。

 目をつぶったまま両手を合わせる姿は、祈りにも、謝罪にも見える。


「ゆらちゃん、私は君を愛している。そして、杏子のことも愛している。紅葉という、私の学友のことも愛しているし、先生たちのことも、同学年の子たちも。会ったことがあって、それが私の愛する人々に危害を加えない人なら、私は彼らを愛してしまう」

「……私は、そんな他のみんなと同じでありたい訳じゃないんです。あなたの、一番になりたい! あなたに、恋をしたいし、あなたに、私だけを愛してほしい!」

「ごめんね、ゆらちゃん。君だけを愛することはできない」


 目から、雨が降る。ぽつりぽつりと、低頻度に。降り始める。

 すみれ先輩が、目を開けていた。真剣なまなざしと、優し気に緩められた頬。柔らかい彼女の指が、私の涙を拭きとろうとする。思わず、目を細めたとき。


「でもね、私が恋しているのは、君だけ」


 彼女の潤った唇が、私のそれに触れた。

 柔らかくて、温かい彼女の唇が離れる。

 心臓が高鳴り、私の唇が去った熱を求めようとした。ダメだ、追おうとするな! だって、私が求めているのは、恋だけじゃない。すみれ先輩のすべての愛が欲しいと、願っていたはずなのに!

 目を伏せて、すみれ先輩の拘束から逃れようとする。唇を噛む。ふしだらで、欲望に忠実な唇を噛んだ。


「嫌いです」

「……そっか。ごめんね、ゆらちゃ――」

「こんな単純な言葉遊びで、喜んでしまう私が嫌いです。私だけを愛さなくてもいい。恋をしてくれているのなら、それで満足してしまえる自分が、まるで薄情な気がして嫌いなんです! 好きです、すみれ先輩。本当に、あなたのことが好きなんです……」


 涙がとめどなくあふれて、彼女の胸に寄りかかって泣きじゃくる。

 静かな夜の学校で、階段に反射する女生徒の泣く声。自身の薄情さに気づいてしまい、ぽっかりと空いた穴は大きく、自分の体が軽い。まるで幽霊だ。私はただ単純に、すみれ先輩から恋の情だけ愛されればそれでいい、簡単な幽霊だ!


「ゆらちゃん。私は、君がどれだけ私のことを愛してくれているのかを知っているよ。君が書いている恋愛小説。一度君の家に行ったときに、こっそり読んだんだ」

「え? は?! なんで、だって隠してあったのに!」

「ベッドの下なんて、べたな場所に隠している君が悪いんだよ。」彼女は無邪気な笑顔を見せたのちに、次は柔らかな笑みに戻る。「あの小説は、とても甘かった。恋に落ちた二人の少女は、溺れることなく、大きな障壁もなく、ただ適切な距離を保っている。互いに、相手の心に気づいているのに、その胸の内をさらけ出さない。これは、私に足りなかったことだよね。私が君に、何回好きだって言ったか、数えきれてしまう。ねえ、ゆらちゃん。これを読んでくれるかな」


 彼女は、バッグから数枚の原稿用紙を取り出した。


「私から、君へのラブレター。私は、小説で傷つくことができなかった。でもね、君に好きだと伝えられてないことに、後悔をした。傷ついたんだ。これが、私の気持ちだよ。成長した、私の気持ち」




『私は、高校生にもなって初めて、恋をするということを学んだ。

 それを教えてくれたのは、ゆらちゃんだ。

 別に、気にすることなんてなかった。君の顔はかわいいと思うけど、いつもその顔を隠してばっかりだったから。気づくことができなかった。

 君の小説を見つけられなければ、今だって同じ踊り場にいないだろう』


 私がここに来ることが前提の手紙に、思わず顔をあげてすみれ先輩を見る。

 彼女は微笑むばかりで、別に何かを発声するわけじゃない。この人は、私が絶対に来ると信じて、この手紙を書いたのだ。


『私には、大切な家族や幼馴染がいる。ましてや、その幼馴染に昨日告白されたりもした。とても嬉しかったけど、胸が弾むことはなかった。彼女は私の家族であって、そこに恋愛の存在するようなものではなかった。

 君という他人をつないでくれる恋愛の情。この赤い糸が初めて縫い付けられたとき、私の中で恋が芽生えた。これはもう、簡単に折れることのない樹木にまで成長して、花を咲かしている。

 この花をずっと楽しむのもいいけど、実らせてあげなければ可哀そうだと思った。それは、もう一本の木が見えたから。それは美しい花を咲かせたけど、もうすぐで枯れてしまいそうで。それでも、雨風に耐えて、いまだ生き続けている』


 遠くで花火が鳴っている。私の心臓が鼓動している。

 この体を揺らす振動が、どちらのせいであるかなんて、わかりきっている!


「『ゆらちゃん、君のことが好きだ。この恋を実らせてくれるのなら、どうかこのブレスレットを受け取ってください』」

「……っ、はい!」


 ブレスレットを受け取った瞬間、轟音がなった。

 まばゆい光は、金属調のブレスレットを虹色に染めた。

 花火が咲いて散る。そして残ったのは、ブレスレットの形をした果実が二つだった。

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