【新版】『パミロア記』第46章14節「シャロシュと少年」/加筆版
須賀雅木
第1話 シャロシュと少年
遠い、遠い昔。神の国が広がっていた時代。
あるところに、女神と少年がいました。
神の国に「愛」は必要ありませんでした。人の心を惑わして壊し、破滅に導くからです。
彼らは愚かでした。彼らの間には「愛」があったからです。人々はそれを蔑みました。それを否定しました。
それはあまりにも幸福で、甘く、優しく、美しい時間でした。
――――
偉大なる大神の子、快楽に溺れる愚かな次女・シャロシュは、享楽の限りを尽くし、欲望の赴くままに堕落した日々を送っていた。
その日は酒場に赴き、そこに居た者と頻り交わった。酒場を追い出されたがそれだけでは物足りず、下賤な者共を自らの御殿に連れ帰ろうと、彼らを引き連れて歩いていた。
未だに醒めぬ酔いの中、ふとシャロシュは建物の影に目を留めた。ふらつく足でそこに近づくと、薄汚れた少年が倒れていた。
「あら、あまり美しくない顔ね。瞳の色も宵闇より真っ黒で、目の下に星がある子供」
徐にその首根っこを掴み、顔を覗き込む。力ない真っ黒の瞳が、シャロシュの真っ赤な瞳と目が合った。
シャロシュは美しいものが好きだった。いつもならきっと、そんな薄汚く醜い存在を気に留める筈もないし、目についても素通りしていた筈だ。
それがどうしてか、目を奪われてしまった。その理由はよく分からなかったのだが――何を思ったか、その薄汚い少年を連れ帰ることに決めた。
御殿を前にして帰るよう告げられ、妻のいる男はみっともなく情交を乞い願い、酒蔵の男は約束が違うと彼女を非難した。縋り付く門兵の青年から逃れ、シャロシュは御殿の自室に少年を連れ込んだ。
「ねえお前、名は何と言うの?」
自室の床にへたり込んでいる少年に、シャロシュは問う。少年は答えない。心が抜け落ちたみたいに虚ろな瞳を見て、彼女は目を細めて口角を上げた。
「答えるまで問うわね。名は何と言う?」
「……」
「ねえ名は? 名は? 名は? 名は?」
「…………ヤオル」
目を見開いて、ぐっと顔を近づける。そうして繰り返し問うていると、流石に耐えかねた少年がぽつりと言葉を零した。それを聞いて満足した様に笑みを浮かべると、まずシャロシュは彼の身の回りを整えさせた。
下僕共に言って湯浴みをさせ、適当な服を用意させた。ヤオルは何も答えなかった。
シャロシュは自分と同じ豪勢な食事を与えたが、ヤオルは一つとして口にしなかった。
「不思議、子供って満たされたら心を開くものじゃあないの?」
その様子を眺めて、シャロシュは悩まし気に首を傾げた。それはまるで、愛玩動物の飼い方を知らない者が、手当たり次第の愛を与えている様だった。
シャロシュの歓待は一晩中続いた。少年は何も言わないまま、シャロシュもヤオルも一睡もせずに夜が明けてしまった。
何の反応も示さない少年に埒が明かず、シャロシュは困り果てる――彼女は快楽に溺れる愚かな女神だからだ。欲望を抑える術を知らない彼女は、ひとまず自室に少年を残して御殿から出掛けた。
何もなしに自室に閉じ込めるのも可哀想なので、書物とパラフォット*の盤を少年の目の前に置いた。反応が無いのを見て背を向けると、彼女は自室から出て行った。
この堕落した女は、いつものように情欲のままに遊び歩き、いつものように夜更けに御殿に戻る。ただ、その日の彼女は一人も御殿に連れ込むことは無かった。
ヤオルは相変わらず、出された食事に口をつけていなかった。相変わらず、部屋の隅で膝を抱えていたが、いくつかの書物に手をつけた跡があった。手のつけられていない皿の果実をつまんでいると、ふと部屋の隅から腹のなる音が聞こえてきた。
「やっぱりお腹が空いているんじゃないの?」
「……お前はどうしておれを拾ったんだ」
訝し気にこちらを見つめるシャロシュに、空腹に耐えかねたのか、漸くヤオルが口を開いた。仄暗い瞳が美しい女神の姿を映す。瞳に映る自分の姿に満足そうに微笑むと、シャロシュは果実の皿を差し出した。
「さあ? 子供と一緒に居たら楽しいかもって思ったのよ」
「本当に愚鈍な女……」
「あら! 漸く口を開いたと思ったら、酷い口の利き方!」
ヤオルは諦めたような顔で、シャロシュの顔色を窺いながら、恐る恐る皿の上の葡萄を一粒口にした。どうせこの女は馬鹿なので、無理に我慢をするより、与えられたものは受け取ってしまう方が得だと思ったからである。
やっと食べ物を口にした少年を見つめながら、自分も葡萄を一粒口に放り込む。強い酸味に目を細めながら、ぼんやりと天井を眺めた。
「……あ! そういえば、ヤオルの親はどうしたの? 家は何処かしら。気が済んだら返してあげる」
「……親も家もない。おれの顔は不都合だから、おれの目は不都合だから、一緒にいると不都合なんだ」
「へー。こんな満ち満ちた世に、親が子を捨てるなんて酷い話、可哀想ね」
シャロシュは真っ赤な林檎を一つ手に取って、大口で齧り付く。彼女の他人事のような態度に、ヤオルは苛立ちを覚えた。
美しく生まれ、豊かに恵まれた人間は、どんな乱れた行いをしようと恵まれたままなのに、不都合な姿に生まれただけで疎まれ捨てられる世が、満ち満ちている筈がないと思った。
これからこの女の慰みものにされるのだと思うと、ヤオルは腹が立って仕方がなかった。傷つけてやりたいとすら思ったが、偉大なる大神の子を傷つけることは不可能であった。逃げ出してやろうとも思ったが、逃げ出したところで行く当てもなく、消えることも出来ないまま彷徨うだけである。
「私はもう眠るから、ヤオルも眠りましょう。さあ、ここに」
シャロシュの自室には寝台が一つしかなかった。紫色の大きな寝台に横たわり、シャロシュは手招きをする。娼婦の様に厭らしく、だらしのない姿であった。ヤオルは酷く不快だったが、しつこく呼び寄せられるので、泣く泣く従った。
その晩、ヤオルが慰みものにされることは無かった。寝台の上で、シャロシュはただ眠っているだけであったし、ヤオルもただ眠るしかなかった。
*パラフォット:マス目の引かれた盤と宝石や果実の種子を磨いたものを使用して行う遊びだったとされている。
――――
「ねえ、肉と魚どっちが好きか分からなくってぇ」
覚めたヤオルに、シャロシュは下僕に焼いた魚と肉を差し出させた。肉を受け取ると、シャロシュはここぞとばかりに悉く「何が好きか」と聞いてくる。楽しそうに顔を近づけて、答えるまで聞いてくる。
あまりにも面倒だったので、「本を読むのが好き」とだけ答えると、彼女が遊びに出掛けた後の自室に多くの本が山積みに積まれて置いてあった。
これは自分を喜ばせようとしているのではない。喜ばせて懐かせて、彼女はそれが楽しいのだと思い、ヤオルは何とも言えない気持ちになった。
その日のシャロシュもいつもの如く淫行を繰り広げ、手始めに市場で引っ掛けた男たちと路地裏で事に及び、立ち寄った娼館で女たちと戯れた。一日中快楽を求めて遊び惚けたが、誰一人として御殿に連れ帰ることは無かった。
シャロシュが自室に戻ると、ヤオルは本を読んでいた。ヤオルと食事を摂りながら、シャロシュは彼の読み終わった本を手に取った。
「植物の本を多く読んでいるのね。植物が好きなの?」
「別にそんなに好きじゃない」
「魚の本も多く読んでいるのね。じゃあ魚が好きなの?」
「別に……」
「じゃあ何で読んだの?」
「……めんどくさ……」
食事の間中、シャロシュの問答は続いた。彼女はとにかく、「何が好きか」という問いを只管投げつける。いい加減嫌になってきたのか、ヤオルは苦い顔をした。
「そんなに聞いて何が楽しいんだよ。楽しくないだろ、子供を拾ったって、何も楽しくなかっただろ」
シャロシュの差し出す本を払い除けて、ヤオルは刺々しく言葉を投げつけた。早くこの女に嫌になって欲しかった。放っておいてほしかった。
「いいえ、楽しいわよ。私に魅了されないもの、貴方」
残念ながら、彼の意図とは反対に、シャロシュはきょとんとして、そして楽しそうに声を弾ませた。
「私って美しくて、皆私の事を好き筈なの。だから私を好きじゃないヤオルは面白いし、貴方が何に魅了されるか考えると楽しいの」
「変な女……」
「あは! また酷い口の利き方! 私、大神の娘なのにね」
シャロシュは口を大きく開けて下品に笑う。ヤオルは無性にむかむかするのを感じた。いくら他人が指摘しようと、シャロシュは自らの品位のない行いを省みる様子が見られない。自分が大神の子であることを言い訳にして、笑っているのである。実に馬鹿馬鹿しく、頭の悪い女であった。
その晩もまた、シャロシュはヤオルに同衾を要求した。ヤオルは仕方なく同意した。
「そういえば、子供には寝物語をしてあげなくちゃ」
少年の肩に手を回し、嫌悪感を露わにする彼の顔を見ながらシャロシュは少し考える。
思いつく訳がない。快楽にのみ従って遊び惚けてきたシャロシュが寝物語に適した話など知っているわけがないのである。
「ああ、私、何も知らないんだったわ」
「……だろうと思った」
また自らを省みる様子もなく楽しそうに笑うシャロシュを見て、ヤオルは眉を顰めた。呆れたように溜息を吐いて、ベッドの側に落ちていた本を一冊拾って寝所に戻った。
「仕方ないからおれが教えてやるよ」
どうせならこの女を上手いこと利用してやろう。ヤオルはそう思って歴史の本を開く。この苛立ちも、大神の娘にものを教えてやったという事実で多少は晴れるだろう。
ヤオルが本を読み聞かせるのを、シャロシュは横たわって聞いていた。時折「どういうこと?」「もっと詳しく」と割り込む彼女に丁寧に話をしていたが、最後まで読み終わるより先に、シャロシュはすっかり眠ってしまった。
子供が大人に本を読み聞かせ寝かしつけるなんて、正しき普通の形とは正反対だ。静かな寝室に、女神の大きな寝息だけが響いている。少年はまた溜息を吐く。
シャロシュの他人のことを顧みない姿に、ヤオルは呆れ、一つ一つ反抗し指摘する気を失くしてしまった。
「今日は何の話が聞けるのかしら?」
それから、毎夜寝物語をするのがヤオルの日課になった。歴史の話を、草花の話を、動物の話を、石の話を、虫の話をした。彼女がそれを最後まで聞いていることは殆どなく、程無くして大きな寝息が聞こえてくるのだった。
「ヤオル、毎晩貴方が面白い話をしてくれるから、褒美を取らせましょう。いつまでもkの部屋に閉じ込めているのは可哀想だから、貴方の部屋を用意するわ」
「……それで毎晩、ここで同衾させて寝物語をするんだろ? それじゃあ何も意味がないから要らない」
「あらそう? じゃあ別でご褒美を考えなくちゃあ」
シャロシュは毎日、楽しそうに笑ってコロコロと表情を変える。ヤオルはそれを、ずっと仏頂面で見るだけだった。
初めに御殿に来た時に比べ清められた身体を、良くなった顔色と肉付きを、時折感情を見せる黒い瞳を見て、シャロシュは満足げに目を細めた。
その他に、ヤオルは時折シャロシュのパラフォットの誘いに乗るようになった。彼女を完膚なきまでに叩きのめして笑ってやろうと思ったのだ。
しかし彼女は思いの外強く、完膚なきまでに叩きのめすどころか、ヤオルは勝ち星を挙げることすら出来なかった。今度はムキになった彼が勝負を要求するのを、シャロシュが笑って受け入れるのだった。
ある日のパラフォットは、ここまでで一番緊迫した接戦になった。盤上の駒を見て頭を捻らせるヤオルを、にやにやとシャロシュが眺めている。吸い込まれそうな赤い瞳が、人々を魅了し堕落させる赤い瞳が、ヤオルの姿を映す。
「……おれを慰みものにしないのか」
「? どうしたの唐突に」
「そういうつもりでもなきゃあ、子供なんか攫わないだろ」
「まあ人聞きの悪い! 攫ってないわ!」
ヤオルの言葉に、シャロシュは目を見開いて仰け反り、彼を指差して反論した。これはヤオルの策略であった。彼女の動揺を誘い、彼女の手を狂わせようという算段である。
この頃のヤオルは最早どんな手を使っても勝とうと必死になっていた。小賢しい手を使ってでも、彼女にパラフォットで勝ちたかった。
「それに、慰みものにする必要もないわ! 言ったでしょう、子供と一緒に居たら楽しいかもって思ったの」
「そんなの本当の理由じゃ……」
「思った通り! 不思議ね、ヤオルと居ると何故か満たされているんだもの」
眩しいくらいの笑顔に、ヤオルは目を細めた。相変わらず、同じ訳の分からない言葉ばかり繰り返すのだ。呆れて溜息が出るのに、その言葉は直視できない強い光の様で、胸の奥がきりきり痛んだ。
ヤオルの目論見は外れた。結局、ヤオルはパラフォットでシャロシュに負けた。
「……おれ、パラフォットよりツオィド*の方が好きだから」
「じゃあツオィドの盤を用意しましょう」
ぶすっと膨れて、不機嫌そうにヤオルは言い訳をする。みっともない姿を彼女は何とも思っていない様子で笑い飛ばすので、少年はかえって自分が醜く感じ、寝所の枕に顔を埋めた。
夕餉の後、よくシャロシュとヤオルはツオィドをした。そして夜が更けると、シャロシュは決まってヤオルの寝物語や読み聞かせを聞いた。決まって最後まで聞く前に眠りに落ちた。だらしなく眠りこけるシャロシュの顔を見ながら、ヤオルは毎晩眠りについた。
相変わらず、夜が明けるとシャロシュは毎日御殿の外を遊び歩き、ハープ使いの少女と、牛飼いの青年と、木こりの老人と、気の向くままに交わった。しかし、陽が沈み始めると、遊びを切り上げて御殿に戻るようになった。
「もう帰ってしまうの」と踊り子の女が問い、「もう一回」と仕立て屋の青年が懇願すると、シャロシュは起き上がりながら「ヤオルと夕餉の時間なの、早く帰らなくちゃ」と答えた。
「これは何?」
「……見ればわかるだろ、果物」
ヤオルは下僕に頼み、果実と蜜を用意した。そして、切った果実を皿に盛り付けさせた。蜜の入った銀の筒を持っていると、後ろから現れたシャロシュの金色の柔らかい髪が頬に触れた。
「新鮮な果実なのに、このまま食べないのは勿体ないわ」
「……蜜を掛けて食べたこともないのかよ、お前」
「あっ! あー何てこと……」
瑞々しい果実に黄金色の蜜を垂らすと、頭の後ろからシャロシュの情けない悲鳴が聞こえてきて、ヤオルは眉間に皺を寄せる。
蜜を纏った真っ赤な林檎を一切れ摘まむと、シャロシュの口に押し込んだ。
「あら! 本当だわ、美味しい!」
「こんなの常識だよ」
「食べ物なんて美味しければ何でも良いと思っていたけれど、もっと美味しくなるのね」
食べ物に蜜を使用すると、香りが増し味が変わるのである。林檎はより味わい深く、青葡萄はよりみずみずしく、檸檬はより香りが良くなる。魚を蜜に漬けてから焼くと生臭さが減り食べ易く、肉を蜜に漬けてから焼くとより柔らかくなる。
ヤオルがこれを知ったのは、実は最近であった。ヤオルは蜜など食べたことが無く、存在すら知らなかった。
ヤオルは御殿の書庫にある本をたくさん読み、身につけた知識を活かすことを好んだ。彼はある日、本を読んで料理をしたいと言い出した。シャロシュは自分の欲求に抗わない女である為、ヤオルがするなら自分もやりたいと言った。
羊肉を磨り潰しコカルツォ*の葉を千切ったものを混ぜ、唐辛子を練り込んだものを、魚の骨を沈めた湯に入れて煮る。人々はどの食材も適当に焼くか煮るかして食べていた為、このように手の込んだものを作るのは珍しかった。
「……なんてこと、美味しすぎて、今までこれを食べていなかった日々を後悔してしまうわ」
「……本当だ、美味しい」
「こんなに美味しいのなら、毎日ヤオルが作ればいいのに」
「絶対嫌。料理は愉しいけど、毎日やるのは面倒だ」
銀の皿によそった羊肉を口にして、シャロシュは余りの美味しさに頬を押さえ、目を輝かせた。ヤオルも珍しく一口二口と止まることなく口に運ぶ。
幸せそうに目を閉じて寄り掛かってくる女神を押し返して、彼はぶっきらぼうに突き放す。くすくすと笑うシャロシュにむかついて、品もなくがつがつと羊肉にがっついてしまった。
お次に、シャロシュの作った料理に口を付ける。シャロシュが作ったのは、彼女が好きなものを手あたり次第鍋に入れて煮込んだものだ。
ドロドロになったスープを一口啜って、ヤオルは表情を歪めた。
「まっ……ずい! こんなにまずいものは初めて食べた!」
「えー、そうかしら。美味しいけれど」
「こんなのを美味しいって言ってる奴に、毎日食事を用意させられて堪るか! ははっ、」それにしても、本当にまずい……」
悲鳴にも似た潰れた声を出しながら、ヤオルはそのまま床に倒れ込んだ。調理した本人が、不満そうに頬を膨らしながら器に口を付けて一気に飲み干しているのを見て、目を見開いてひっくり返った。
その飯は本当にまずかった。甘いものと辛いもの、塩辛いものと苦いものが滅茶苦茶に混ざっていて、凡そ人が口にするものの味ではなかった。冬に昆虫の眠る柔らかな土の味に似ていた。
「あはは、本当にまずい……信じられないくらい……まずすぎる!」
ヤオルはもう一口を口にして、笑いながら怒った。
*ツオィド:現代の双六に似た盤上遊戯とされている。穴の空いた瓶に宝石を9個入れ、それを振って出た宝石によって駒を進める。
*コカルツォ:現代のシソの祖先にあたる植物。風味が強く、魚や肉類の臭みを消す効果がある。
――――
「これは何をしていたの?」
「花集め*だけど。庭の花弁を集めてきた」
ある日、シャロシュが御殿に戻ると、ヤオルは部屋に花弁を広げていた。赤い花弁を一枚踏みながら、彼女が聞くとヤオルは淡々と答えた。
「これはポインセチアね。私もやりたいわ」
シャロシュは徐に白い花弁を集め、獣の形を作り始めた。とにかく沢山花弁を集めて、とにかく大きな獣を作ろうと花弁を広げる。
「これは熊だな」
「違うわ、白くて可愛い猫よ」
「太くて逞しいから熊だろ」
「違うわよ、ほら、可愛いでしょう。可愛くて大きい猫がいいのよ!」
「これのどこから可愛さを読み取るんだよ」
シャロシュは珍しく不満そうに眉を顰めた。暫く同じようなやり取りを繰り返した後、ヤオルは段々馬鹿らしくなってきた為、彼女の意見に屈してやった。
漸く機嫌を直して笑顔になったシャロシュに、ヤオルはいつものように溜息を吐く。大人なのに子供みたいで、子供の自分が慰めなければならない。つくづく馬鹿で愚かな女神だと思った。
御殿の窓からは、美しい庭が広がっている。窓から吹き込む風に、ヤオルが顔を出してみると、眼下にはそよそよと美しく揺れる草花たちが躍っていた。
「今日は庭で遊んでみようかしら」
彼女がそう言うので、朝から庭に出て遊んだ。庭の手入れは下僕に任せていた為、シャロシュは庭に咲く花の名前すら知らなかった。ヤオルは白い花を摘んでちまちまと編み始めた。
「これは何の花?」
「ユアニスティス*。シャロシュの顔は綺麗だから、ユアニスティスの花が似合うんじゃないか」
「あら! あら! 顔を褒めてくれるのね! この間まで酷い口の利き方だったのに」
「……お前の顔が綺麗なのは客観的な事実だろ」
ヤオルはユアニスティスにシロツメクサを合わせて花冠を編み、ぽんとシャロシュの頭に乗せた。そして次は、黄色の花を摘んだ。
「ねえ、私も花冠を作りたいのだけど」
「花冠の作り方くらい誰でも知ってるだろ」
「あははは、知ってたかもしれないけれど、忘れたわ!」
大口を開けて笑う女神に、少年はいつものように呆れて溜息を吐いた。仕方ないので、ヤオルはシャロシュの隣に座って花冠を編み始めた。
シャロシュはヤオルが編むのを見ながら、花冠を編んだ。好きな花を好きなように合わせて編んだ。鮮やかな紅い花と青い花、黄色い花に白い花、桃色の花を編んでいくと、派手なばかりで品の無い花冠が出来上がった。
「できたわ!」
「下品な冠だな……」
「ううーん、でもまだ少し物足りないかしら」
シャロシュは完成した花冠を自慢げに頭上に掲げた後、再び悩まし気に表情を曇らせる。つくづくこの女は欲望に際限がなく、下品な女神だった。
シャロシュは庭を歩き回り、留まっていたウキンチョウに目を留めると、羽を一枚貰い、花冠に差した。
「これでこそ完璧よ!」
「なんて派手で品の無い花冠だ……」
「はい、ヤオルにあげる。ヤオルは質素で素朴だから、派手な方がバランスが取れて似合うわ!」
否応なしに派手な花冠を頭に乗せられて、ヤオルは困ったように笑った。まるでふしだらで下品な存在に成り下がってしまったような気がした。
それがあまり嫌ではなかった。胸の中がむず痒くて、ヤオルは一文字に結んだ口をもごもごさせた。
水場で水遊びをした後、ルブリェンタ*をしたり、木に登って遊んだり、陽が沈むまで遊んだ。子供のヤオルはすっかり疲れた為、読み聞かせをしながらうつらうつらし、初めてシャロシュより先に寝入って、昼まで起きなかった。
この日、数十年ぶりに、シャロシュは外へ遊びに出なかった。
シャロシュの外遊びの時間は、どんどん短くなった。短くなったとはいえ、殆ど毎日外遊びに出掛けては満足するまで相手をとっかえひっかえした。そしてふとヤオルを思い出し、切り上げて御殿に戻った。
ヤオルが御殿へ住まうようになって幾月か経った頃、初めてシャロシュとヤオルは御殿の外へ遊びに出掛けた。アルエラの丘で鳥と戯れたり、名も知らぬ野草を摘んで食べたり、花の蜜の味比べをした。
御殿にいる時は、パラフォットやツオィド、テュロ*をした。時折料理も行った。また、ヤオルは下僕に対しても気づかいをし、シャロシュが留守の間は床の掃除を行うなどした。
床磨きをした日は、シャロシュが自分もやりたいと言い出した。シャロシュは床磨きが楽しかった為、夜通し床掃除をしようとした時は、ヤオルが「流石にもう眠たいからやめて」と言うまで続いた。
その日は、シャロシュとヤオルがまた御殿の外へ遊びに出た日だった。寝台の上で、シャロシュは疲れた様子のヤオルの頭を膝の上に乗せ、母親の真似事の様に髪を撫でた。
「ヤオルの顔をあまり美しくないと言ったけど、貴方は睫毛が長いし、唇の形も可愛らしいわ。黒い瞳も私の姿をとてもよく映すし、良く見るととても可愛くて、綺麗な顔ね」
何を思ったか、ふとシャロシュはそう呟いた。金色の柔らかい髪がヤオルの顔に落ちてくるので、指で払い除ける。
ヤオルの黒い瞳の中には、嬉しそうに笑うシャロシュがいた。シャロシュの赤い美しい瞳の中には、柔らかく微笑むヤオルがいた。
「シャロシュの顔の方がずっと綺麗なくせに。顔の綺麗な奴にそんなこと言われても、嬉しくないね」
「ふふふ。私はヤオルのことが大好きだから言っているのに」
シャロシュは顔を膨らせたヤオルを胸に抱いて横になった。少年は嫌そうに目を細めるだけで、それを拒むことは無かった。
「ヤオルに沢山寝物語をしてもらったから、私も寝物語が出来るような気がするわ」
「じゃあやってみてよ」
シャロシュの寝物語はとても聞いていられないような拙いものだった。支離滅裂で文脈が無く、酷く退屈な話だった。
拙い寝物語を聞きながら、ヤオルは眠った。
次第とシャロシュが外遊びに行かない日は増えた。そうは言っても、外遊びに行けば手当たり次第に男も女も見境なく交わった。そして、夕餉の時刻が近づくと、楽しそうに御殿へ戻った。
その日は、昼餉を庭で摂ることにした。ヤオルは庭の木に登り、生っている林檎を二つ手に取った。シャロシュは純白の布を広げ、下僕たちに料理を運ばせた。
昼餉を終えると、シャロシュは無性に眠くなった為、ヤオルと木陰で休むことにした。幹に凭れかかると、シャロシュはヤオルを近くに寄せた。
「ああ眠たい……ヤオルもひと眠りしましょう」
「……お前、つくづく怠惰な女だな」
「こんな気持ちの良い日差しの日は、お日様を浴びて昼寝しないほうがお日様に失礼なのよ」
「……まあいいけど」
庭で遊ぶつもりだったヤオルは梯子を外されて立ち尽くしていたが、これもいつものことかと溜息を吐いて、彼女の横に座り込んだ。
白く優しい太陽の光が降り注いでいる。照らされた木々の隙間から、きらきらした木漏れ日が地面に散らばっている。涼やかで柔らかい風が心地良く肌を撫でて、シャロシュは隣に座るヤオルの腰に手を回した。
「ふふ、なんだかんだで素直な良い子ね」
「……失礼なんだろ、太陽に」
「……あはは、大好きよ、ヤオル」
シャロシュは眠たげに、舌足らずにヤオルに言った。心地の良い微睡みに、彼女は目を閉じて大きく息をした。
「……おれもシャロシュが大好きだよ」
微笑んで、ヤオルは囁くように言った。シャロシュはふふ、と小さく息を漏らして、彼に凭れかかって頭を撫でた。
穏やかな風に吹かれて、草花はさわさわと音を奏でている。鳥の声、虫の羽音、そして二人の寝息が、柔らかい風に溶けていった。
*花集め:散った花弁を集め、重ね合わせて形を作る遊び。花弁の濃淡で陰影を表現する。
*ユアニスティス:神代に存在したとされる白い花。太陽光に当たると淡いピンク色が見える。傷みやすく、花弁を強く摘まむと溶けるように崩れ落ちたという。現存しない。
*ルブリェンタ:兎の皮の中に藁を詰めた球を投げ合う遊びとされている。
*テュロ:形と種類の違う様々な宝石を積み上げる遊びであったとされる。指定された宝石を積み上げ、先に倒れた方が負けというルールである。
――――
幸せな日々が続いていた。
満たされた日々が続いていた。
ヤオルと出会って一年が経った頃、シャロシュとヤオルはよく丘に出掛けたり、またある日は花園で遊んだり、御殿で遊んだりして毎日を過ごしていた。シャロシュが外遊びに行く日は更に減った。それをよく思わぬ輩が多くいた。
毎日のようにシャロシュを相手にさせていたのに、子供一人に構いきりになってから相手をしなくなったことに腹を立てる者は少なくなかった。
彼らにとって、子供相手に遊んでいるシャロシュの姿は実に馬鹿馬鹿しく映った。彼らは、自分だけ満たされているシャロシュを許せなかった。
ある者はシャロシュに苛立ち、ある者はシャロシュを恋しく思い、ある者はシャロシュを哀れんだ。しかし皆、ヤオルを邪魔に思う気持ちは同じだった。
「帰ったわー!」
ある日、昼餉の時刻に外遊びから帰ったシャロシュはご機嫌な足取りで部屋に向かった。いつものように静かで、廊下には無機質で冷たい石の床の音だけが響いている。
部屋には静寂が広がっていて、誰もいないようだった。意地悪なヤオルはきっと、私を驚かそうと部屋の何処かに隠れているのだろう。鼻息を荒くして部屋に足を踏み入れると、足に何かがぶつかった。
部屋は酷く散らかっていた。そこら中に散らばった本はページが破られてくしゃくしゃになっている。寝所のシーツはぐちゃぐちゃになって、レースのカーテンは引き千切られていた。
足元からジャリ、と音がした。至る所が泥で汚れていて、赤い血痕がぽたりぽたりと落ちた跡があった。
「ヤオルー、どこかしらー
御殿中を探し回ったが、何処にもいなかった。庭の草木の中にもいなかった。下僕共に聴いても、彼らは答えることが出来なかった。
途方に暮れて座り込んでいると、誰かが御殿を訪れた。皆、顔に見覚えがあった。嘗てシャロシュと関わった者たちだった。
「どういうこと、ヤオルはどこ⁉」
彼らが「子供を埋めた」と話すと、シャロシュはまず呆然として、次に子供の様に泣き喚いた。
シャロシュが外遊びに出掛けている間に、彼女に執心する者たちは御殿に現れ、部屋で本を読んでいたヤオルを襲ったのだ。ヤオルはその小さな身体で逃げ回り抵抗したが、多くの大人たちに敵う筈もなく、屈服させられてしまった。
彼らはヤオルを石で打ち、刃物で傷付け、熱した石で痛めつけた。傷つき憔悴したヤオルは御殿から連れ出され、石棺に入れられ地中深くに埋められた。
「酷い、酷い! どうして傷つけたの⁉ どうして埋めたの! どうしてよ! ヤオルはどこ!」
泣き喚くシャロシュを、彼らは宥めた。「お前が子供なんかに執心するのはおかしい」「お前は享楽の限りを尽くすべきなのだ」と宥めた。
「ヤオルはどこ! 酷い、本当に酷いわ! 返して、ヤオルを返してよ!」
シャロシュが泣き喚き暴れるのを、彼らは慰めた。「あんな子供、このままでもどうせすぐいなくなった」と慰めた。いつものように、シャロシュがそうしてきたように、身体を繋ぎながら慰めた。
「酷い、酷い! 返して、返してよ!」
癇癪を起こしたシャロシュを、彼らは慰めた。ただ交わりながら慰めた。彼女がそうしてきたように、そうあるべき姿で、泣き喚くシャロシュに皆快楽を貪った。
「ええと、それで。何の話だったかしら」
夜が更けた頃、すっかりシャロシュは忘れてしまった。シャロシュはだらしなく床に寝ころびながら、呆けた声で自分を囲む者たちに問うた。誰も何も答えず、皆欲望のままに貪るだけだった。
シャロシュは何度かそう問うたが、誰も何も答えなかった。シャロシュはそれを思い出さなければならなかった。思い出したかったのだが、心のどこかが壊れたみたいに動かなくて、思い出せなかった。
輪郭の無いぼんやりとした記憶を思い出そうとしたのだが、思い出せなかった。でも、思い出せないのならそれは必要のないことよね?
シャロシュは堕落した女だった。壊れてしまったのではなく、元から壊れていたので、仕方なかった。
愚かにも快楽に支配され、何もかも忘れてしまったが、元はと言えば、多くの人々を唆し、享楽に溺れさせた彼女の所業から起こったことだから、仕方のないことであった。
偉大なる大神の子、快楽に溺れる愚かな次女・シャロシュは、享楽の限りを尽くし、欲望の赴くままに堕落した日々を送った。
地下深く、石棺に閉ざされ埋められた少年のことなど、彼女は知らなかった。
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