事故が多発する町
黒焦豆茶
【前編】事故が多発する町
この町では、奇妙なほどに事故が多発していた。車同士の衝突、歩行者の飛び出し、家屋の火災、さらには突如崩れる建物――あらゆる「偶然の悲劇」が、まるでこの町だけを狙っているかのように繰り返されていた。町の人口は年々減少し、その原因のほとんどが「事故死」とされている。
この状況を不気味だと感じる人は少なくないが、外部の人間がこの町を訪れることはほとんどない。町の外れに位置する寂れたガソリンスタンドで働く男・佐藤はこう語る。
「この町を訪れる人間は、ほとんどが好奇心でやって来るが、すぐに出て行くよ。雰囲気が悪いってさ。まるで町そのものが死を呼んでいるみたいだ、ってね」
実際、町に入った人々の多くは、漠然とした不安感に襲われるという。何か見えない力がこの町全体を支配しているかのような、そんな感覚だ。町の外れにそびえる工場の煙突は、いつも鈍い灰色の煙を吐き出し、それが曇天の空に溶け込んでいく。その景色は、町全体に重くのしかかる不吉な影のようだった。
だが、この異様な状況にもかかわらず、町には一つの「奇妙な現象」があった。それは、殺人事件が一切起きないということだった。
「この町に来てから、殺人犯の仕事はすっかり減ったよ」
町内に唯一残った小さな警察署の刑事・西田は、半ば冗談交じりに同僚にそう話していた。確かに、過去10年間、町で起きた殺人事件の数はゼロ。だが、その代わりに、事故死者数は全国平均の10倍を超える。
警察署の廊下には、所狭しと貼られた「事故報告書」が並んでいた。転倒事故、感電死、落下物による頭部外傷……枚挙に暇がない。署長である古谷は、それらを整理しながら苦笑した。
「これじゃあ、俺たちは警察じゃなくて事故処理班だな。犯罪捜査なんて仕事はもうなくなっちまった」
西田は肩をすくめながら言った。
「いや、ある意味いいことなんじゃないですか? 殺人が減るなんて、世間的には喜ぶべきことですよ」
「喜べるかよ。人が死ぬ理由が事故だろうが何だろうが、俺たちの仕事が減るわけじゃないだろ」
署長は煙草に火をつけ、天井を見上げた。その顔には、どこか虚無的な表情が浮かんでいる。結局、住人たちも警察も、この町の「異常」を受け入れ、それを日常として生きるしかないのだ。
町の住人たちは、この異常な状況に慣れてしまっていた。事故に巻き込まれることが日常であり、誰もが「自分がいつ死んでもおかしくない」と悟っていたのだ。それは決して平静を保っているという意味ではなく、むしろ「どうせ抗えないのだから受け入れるしかない」という、諦念にも似た感覚だった。
その結果、町には独特な倫理観が根付いていた。たとえば、住人同士の争いや対立はほとんどない。意見の違いで口論に発展しそうになっても、誰かがこう言って抑える。
「無駄なことはやめよう。どうせ俺たち全員、いつか事故で死ぬんだから」
実際、この言葉は町では通用する理屈だった。町の外からやってきた人間が何か問題を持ち込もうとすると、住人たちは一様に無関心な態度を取る。喧嘩やトラブルが起きる前に、どちらかが身を引いてしまうのだ。それは町全体が「明日死ぬかもしれない」という前提のもとで成り立っている、奇妙な秩序だった。
ある日の昼下がり、商店街の八百屋で、常連客の主婦たちが何気ない会話をしていた。
「昨日、隣の家の屋根が落ちたんですって。誰も怪我しなかったみたいだけど、あの家、先月も火事騒ぎがあったばかりなのよ」
「本当? あそこの奥さん、前にも転んで骨折してたわよね」
「そうそう。でも、あの旦那さん、口うるさい人だったじゃない? 事故が起きるようになってから、すっかり大人しくなったって聞いたわ」
町では、この手の話が日常的に交わされている。事故が多発する町では、「いつどこで、どんな事故が起きるか」が、住人たちの一番の関心事になっているのだ。特に老人たちは、事故のニュースを聞くたびに顔をしかめながらも、「明日は我が身だ」と笑う。死が身近にあるからこそ、彼らは妙に穏やかだった。
「ここでは人が簡単に死ぬ。でも、それ以上に平和なのよ」
そう語るのは、町の住人である60代の主婦・山口佳代子だ。彼女の夫と娘も数年前に交通事故で亡くなっている。普通ならば悲しみに暮れ、町を去ることだろう。しかし佳代子は、この町を離れるつもりはないと言う。
「他の町で生きるのも怖いわ。ここでは事故が当たり前だから、逆に気が楽なのよ。他人に恨みを抱くなんて馬鹿らしい。どうせ、恨んだところで、その人もすぐにいなくなるかもしれないんだから」
町に住む人々は、全員が「死」を身近に感じながら生きていた。だが、それが皮肉にも住人たちの間に「共存の精神」を芽生えさせていた。人間関係の軋轢や憎悪が、事故の多発によってかき消されていく――そんな不可解な現象が、町を包み込んでいるのだ。
しかし、それが本当に「平和」と言えるのかどうか、疑問を抱く者もいた。町の郊外に住む元教師の男性・井上はこう語る。
「昔、この町には活気があった。子供たちは外で遊び回り、大人たちは祭りの準備に忙しかった。でも、今はどうだ? 人々はみんな、事故を恐れながら生きている。静かすぎる平和なんて、ただの停滞に過ぎないよ」
井上はかつて、学校で子供たちに「命の大切さ」を教えていた。しかし、この町に異変が起き始めてから、生徒たちは将来の夢を語ることをやめてしまったという。
「子供たちが『どうせ大人になれないから』と言って夢を諦めるようになったんだよ。それを見て、教師として何を教えればいいのかわからなくなった」
町が事故に支配されるようになってから、人々の中から未来への希望や情熱が消え失せていった。それでもなお、住人たちは町を離れない。彼らにとって、この場所が唯一「居場所」と感じられる場所だからだ。
町の静けさは一種の平和とも言えるが、それは同時に、誰も声を上げず、何も変えられない停滞の象徴でもあった。事故が多発することで争いが減り、結果的に平穏が訪れる――そんな皮肉に満ちた町の日常が、今日も淡々と続いている。
そんな町に、ある日、一人の男が訪れた。男の名は高橋良太。彼はフリーのジャーナリストで、この町の異様な事故率を取材しようとやってきた。
「何かが間違っている。この町には、ただの偶然では説明できない“何か”がある」
高橋は、そう直感していた。町についての情報を集める過程で、彼はこの場所の異様な噂に興味を引かれていた。住民の多くが事故で亡くなる一方で、犯罪、特に殺人事件がほとんど起きないという事実。それは、ただの統計的な偶然を超えていると彼は感じていた。
町の入り口に差し掛かった瞬間、高橋は不思議な感覚に包まれた。薄曇りの空、湿った空気、かすかに漂う焦げたような匂い――どれも見た目には何の変哲もないはずなのに、どこか不気味だった。人通りはほとんどなく、ちらほらと見える住人たちの顔は皆、無表情で疲れているように見えた。
「おい、新顔だな」
町に入ってすぐ、高橋はガソリンスタンドで働く中年の男性に声をかけられた。その男――佐藤は、暇そうにタバコを吸いながら高橋を観察していた。
「取材で来たのか?」
高橋が頷くと、佐藤は肩をすくめた。
「好きにすればいいが、何も期待するなよ。この町のことなんか、誰も教えてくれやしないさ」
「どうしてですか? 町の事故率が異常だってことは、外部の人間でも知ってます。内部の人ならもっと知ってるでしょう?」
佐藤は軽く鼻で笑った。
「知らないほうが幸せってこともある。あんたも、長居するのはやめとけ。この町に深く関わると、ロクなことにならない」
忠告のような言葉を残して、佐藤はスタンドの裏手に引っ込んでしまった。その態度が、かえって高橋の好奇心を煽る結果となった。
町を歩くうちに、高橋は違和感を覚えた。住人たちは誰もが忙しそうに見えるわけでもないのに、彼に目を向けようとしない。挨拶をしても返事はそっけなく、どこかよそ者を拒絶するような空気が漂っていた。
「……これは、ただの過疎地とは違うな」
高橋はそう呟きながら、町をさらに歩き回った。だが、どこへ行っても同じような景色が続く。古びた商店街、錆びた看板、人気のない公園。どの場所も、時間が止まっているかのような静けさに包まれていた。
やがて彼は、小さな喫茶店に入った。そこで出会ったのが、60代の主婦・山口佳代子だった。彼女は一人でコーヒーを飲みながら窓の外を眺めていた。
「ここは初めて?」
佳代子が声をかけてきたのは、彼がカメラを持っているのを見たからだろう。高橋は笑顔を作りながら、軽く頭を下げた。
「ええ。取材で来ました。町のことを知りたくて」
その言葉に、佳代子は微かに眉をひそめた。
「取材ね……まあ、好きにすればいいけど、この町は外の人にはわからないことが多いわよ」
「だからこそ知りたいんです。この町で事故が多発する理由とか、住人の方がそれをどう受け止めているのかとか」
佳代子は少し考え込むようにしてから、こう答えた。
「理由なんてないわ。ただの運命よ。私たちはそれを受け入れて生きてるだけ」
「受け入れる? 死の危険がすぐそばにあるのに?」
佳代子は笑った。それは明るいものではなく、どこか達観したような笑みだった。
「死ぬのは怖いけど、それ以上に怖いのは、他人を憎むことよ。この町では、事故のおかげでみんな争わなくなったの。死が平等に訪れる場所では、無駄なことを考える必要がないのよ」
その言葉に、高橋は衝撃を受けた。彼女の言う「事故のおかげ」という言葉が、妙に引っかかった。平和が事故によって保たれる――そんな矛盾が成り立つのだろうか?
その後、高橋は町内をさらに調べ続けたが、住人たちの多くが佳代子と同じようなことを口にするのを聞いた。どれだけ悲惨な事故があっても、それについて怒る人や誰かを責める人はいない。ただ、「仕方ない」と言って受け入れるだけ。
「どうしてここまで従順なんだ……?」
高橋の胸には不気味な疑問が渦巻いていた。事故が単なる偶然の積み重ねだと考えるには、住人たちの態度はあまりにも不自然だった。
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