第2話
ごつごつとした岩肌の目立つ山の中を進む旅人の影があった。
旅人は時折足を止め、岩肌の隙間に生える野草を摘みつつ、山道に息を上げることも、旅装束に汗を滲ませることもなく、ゆっくりと歩み続ける。半刻も歩いただろうか、やがて彼は、蔦の絡む大岩の前に辿り着いた。岩の中ほどから野草の茂る足下にかけて、ぽっかりとした穴が口を開いている。
旅人はそれを暫し眺め、徐に暗がりに一歩を踏み出した。
緩く下る一本道を、入り口からの陽が届かなくなっても構わず歩き続けた旅人は、やがて開けた場所に辿り着いた。
目の前に、湖が広がっている。
地の底は望月の夜程も明るかった。天井までを覆う苔は翠色の光を滲ませ、湖の周りに咲き乱れる掌程の大きさの蓮に似た花が、白く柔らかな光を帯びている。
ぽつり
天井から湖面に水滴が落ち、静々と広がる波紋がゆるりと空気を震わせると、
ことん
かたかた
花々がぶつかり合い、硬質な音を立てる。
鼠の頭蓋。蝙蝠の羽骨。魚の背。何かの牙。微かな光を纏った花は、それぞれが中心に骨に似た小さなものを抱えている。
旅人が腰を屈め、その内の一つに手を伸ばす。と。
「それをどうする心算?」
やや咎めるような響きを含む細い声が、洞内に小さくこだまする。
いつの間にか、女が彼を覗き込んでいた。身に纏う真っ白な水干と青白い肌をぼんやりと闇に溶け込ませ、女は答えを待つように首を傾げる。
旅人が花に伸ばしていた手を止め、身を起こした。
「初めて拝見する花なので、一つ持ち帰ろうかと」
「貴方、明かりも持たずにこんな所に来たの?
「夜目は利く方ですし、毒の
飄々とした答えに、女の声から険が抜ける。
「……おかしな人。まあいいわ、その花は『
黙って話を聞く旅人を気に入ったのか、女は薄っすらと微笑み、
「これはね、この世とあの世を分ける花。この山で死んだもの達の魂の芯に残る未練が咲いた花なのよ。ほら、あれ。貴方にも見える?」
旅人の歩いてきた一本道を滑るように這う一匹のマムシを指した。マムシは真っ直ぐに湖に向かうと、躊躇うことなく水に身を躍らせ器用に泳ぎ始める。やがて対岸に辿り着いたマムシは、行く手の岩壁に開いた、先程の道と同じくらいの幅の穴に消えて行った。
「あれは、もう死んでしまったマムシ。魂だけがここにやって来たの……私と同じね」
その言葉に旅人は驚くこともなく問う。
「この湖は何の為にあるのでしょうか」
女は「さあ」と首を傾げ、
「ただ、この水は未練を忘れさせるのよ……多分」
「多分?」
「私はまだ、この水を飲んだことも触れたこともないもの、本当の所は分からないわ。ただ、そう感じるの。それよりも、ほら、ここを見てて」
女と影の足元で骨花の茎が伸び始め、見る間に蕾をつける。間もなく開いた花の真ん中で、小さな蛇骨がとぐろを巻いていた。
「これが、さっきのマムシから抜けた未練。屹度、あの先の道は長くて大変だから、要らない重しを湖に溶かして置いていくのよ。そうして残ったものが、湖岸に骨花となって咲くの」
「成程。確かに骨というのは重うございますからね」
「そうでしょ。この骨花も、いずれは散って綺麗に消える。せめてそれまで、そっとしておいてあげて欲しいのよ」
旅人は少々口惜しそうにしながらも、女の言葉に頷いた。
「そういうことでございますか。ではあの穴の先は、彼岸に通じているのでしょうか。貴女様は、何故あの先に逝かれないのですか」
女が寂し気に笑う。
「……見ての通り、私は白拍子だった。舞の才なんて無かったから、男に身体を開いて暮らしを立てていたわ」
幼い時分からそうやって暮らしてきたから、不満はあったが疑問を持ったことなどなかった。
「でも、気付いてしまったの……あの方の情けが、私に気付かせてしまった」
その男は白拍子に、真心を教えてしまった。一度暖かな情を知ってしまえば、もう、客など取れなくなった。男共の誘いを断り続ける白拍子の態度に、その内の一人が逆上した。
「結局、男共の一人に拐かされ、この山で殺され埋められたの」
「その客への恨みが、貴女様の未練になっているということでしょうか」
女はゆるりと首を振る。
「どうせ何時かは皆死ぬ。それにあんな暮らしをしていたんだもの、我ながら碌な死に方はしないって思ってたわ。私の未練は……あの方が、まだ私に未練を抱いているってこと」
情を交わした男は白拍子の死を受け入れられず、未だにこの山中を探しているのだ。ぼろぼろになりながら彷徨う男に何度も声を掛け、その身を抱きしめもしたのだが、男には白拍子の声も姿も届かない。
「あの方が私を忘れてくれれば、私も想いを断ち切れるのに……」
湖の水を飲むだけのことが、出来ない。
己を求める男の姿にどうしようもなく夢を見てしまう。これから先も、男が自分だけを想って生きて行けばいい、否、いっそこのまま男を連れて行ってしまおうかと願いそうになる。
白拍子が目を瞑り、唇を噛み締めた。暫くして、ぽつりと。
「ねえ貴方。お願いがあるのだけど」
女は再び唇を噛み締め、ようやく声を絞った。
「この湖の水を、あの方に飲ませてくれないかしら。あの方から、私を消してしまいたいの」
女が縋るような目を旅人に向ける。
「引き受けてくれるなら、私は湖の水を飲んであの穴を越える。そうしたらここに私の骨花が咲くから、貴方はそれを持って行けばいいわ。貴方はこの花が気に入ったのでしょう?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます