第2話 呼び声はどこから
「
自室のベッドに寝転んでうとうとしていた俺は、階下からの母親の呼び声で目を覚ます。
窓の外はすでに真っ暗。携帯電話で確認すると、時刻は20時を過ぎていた。学校から帰って3時間もたっている。
「雄弥! 聞こえないの!?」
寝ぼけて朦朧としていた意識は、母親からの2度目の呼びかけで完全に覚醒する。
「わーったよ、行くから!」
母親の用件は分かっている。俺はベッドの脇に置いていた通学カバンから1枚の紙を取り出し、部屋を出て、階段を降りリビングに入る。
「呼んだらすぐ来なさい。私も暇じゃないのよ」
そこにいた母親はスーツ姿のままだった。どうやらたった今会社から帰ってきたらしい。部屋に入ってきた俺の方を見向きもせず、髪を整えたり鞄の中を整理したりしている。
「……ちょっと寝てたんだよ。今日は早かったんだな」
「またすぐ戻るわよ。人手が足りなくてね。それより早く見せなさい。返ってきたんでしょう?」
母親は相当疲れているらしく、その口調はかなりの苛立ちを含んでいる。俺は右手に持っていた紙を広げ、その母親の背中に向けて差し出した。
それは、先月の全国統一模試の個票だった。母親は振り返り、奪うように受け取る。鞄から取り出した縁の細い丸眼鏡を掛け、睨め付けるように個票を眺める。
「……呆れたわ。よくもまあこんな無様な結果しか出せないくせに、昼寝なんかする余裕があるわね」
2分余りで眼を通しきったのちそう吐き捨てた母親は、眼鏡にかかっていた自身の前髪を前髪を鬱陶しそうに払った。
瞳の中には失望すらも浮かんでおらず、それはもはや軽蔑の域だった。
「あなた、いつまで能天気に時間を浪費するつもり? 大学行く気無いの?」
「…………無ぇワケ…………じゃねぇよ」
「ならなぜ点数が前回と大して変わっていないの? ねぇ。なんでなの? あなたここ半年くらいずっと部屋に籠ってたから、てっきり勉強してるのかと思ってたけど……違ったのね? ゲームも漫画も全部取り上げたはずなのに……隠し持ってるモノがあるのかしら?」
「ち……違ぇよ!! ちゃんと勉強してたよ!! 遊んでなんかいねぇよ!!」
「結果を出せっつってんのよ!! そんなの誰が信じると思う!? お母さんはね、あんたがお兄ちゃんと比べてどれっだけ出来が悪くても、信じよう信じようって思ってきたのよ!! いつかは私たちの期待に応えてくれるって、そう思うように頑張ってきたのよ!? ……でも、あなたには通じなかったみたいね……!! ねぇ雄弥……あなた、何回親を裏切れば気が済むの……ッ!? この恥知らず……ッ!!」
「……な、な……」
実の親子じゃなくてもあんまりな物言いに眼の前が真っ暗になったその時、俺の背後にあるリビングの扉が開いた。
「うるさいぞ。何を騒いでいる」
父親だった。両眼の下には濃いクマをつくり、かなりやつれた様子であった。
「あら、あなたも帰ってきたの」
「専務に少しでも休めと言われてな。お前はまた戻るんだろう?」
母親は個票をテーブルの上に投げ捨てるように置き、何事もなかったかのように父親と話し始める。父親に至っては俺のことなど眼中にもなかった。視線すら交わそうとせず、俺の真横を素通りする。
「……ああそうだ、テレビを見てみろ」
父親はテーブルの上にあったリモコンを取るとリビングの角にあるテレビをつけ、ニュースのチャンネルを開いた。
『ーー都内に住む浅野美緒さん、32歳の行方が、2日前から分からなくなっています。浅野さんは国内最大手の医療器具メーカー、黒井コーポレーションに勤めており、ここ2ヶ月で同社の社員が行方不明になる事件が23件起きています。警察は、今回のものを含めた一連の事件を同一犯によるものとみなし捜査を進めていますが、依然、手がかりは掴めていませんーー』
「うそ……! またうちの社員……!?」
「ああ……。いったいどうなっているんだ。犯人どころか、消えた者の足跡すら全く見つけられていないらしいし……」
「……今朝、うちの部署の樋口さんが退職届を出してきたばかりなのよ」
「なに、またか……! くそっ、怖がって辞める社員も増える一方だし、かと言って会社の業務を止めるわけにもいかん……! 1人1人の負担ばかりが、どんどんデカくなっていく……!」
深刻な雰囲気で話す両親をよそに、俺はリビングを出た。部屋に戻り、制服を着替える。無地の白シャツに、黒いズボン。革のベルトを腰に巻き、藍色のパーカーを羽織る。そしてまた階段を降り、玄関から静かに外へ出た。
ーー俺が自分の要領の悪さを自覚し始めたのは幼稚園の頃から。以後、小・中・高校とずーっと、俺の心から周囲に対する劣等感が拭えた日は1度も無い。
運動会。かけっこはいつもビリ、組体操では脚をひっぱる。
音楽会。俺だけ音程が合わない。練習では俺のせいでクラス全員がやり直しをくらう。
テスト。平均点が下がるのはもちろん俺のせい。お情けの追試をくらいすぎて、先生には頭が上がらない。
遊びもだ。鬼ごっこにかくれんぼ、テレビゲームに至るまで。小学生の時に友達から、「お前と遊ぶのつまんない」と言われた時はさすがに落ち込んだ。
にもかかわらず、俺は変に負けず嫌いだった。
何かで誰かに負けた時は、体力を削り睡眠を削り、リベンジのための努力に膨大な時間を費やす。どんなことでも惜しまない。しかし結局ーー俺は、いつも勝つことができないのだ。
俺が1のことに手を焼く隙に、他の人間は30のことを片付けている。ハナから勝負になっていない。
「……ちッ」
舌を打ち、白いため息をひとつつく。11月の頭とはいえ、もう夜はすっかり冷え込む時期である。俺は上にパーカー1枚しか着てこなかったことを後悔した。
夜の住宅街をただボーッとしながら歩く。基本下を向き、時々ふと顔を上げる。空は少し曇っていたが、そこに浮かぶ満月はとても綺麗だった。
「……肉まんみてぇ」
月を見て下らないことをぼそりと呟く。その時、腹がぐぅと音を立てた。
「そういや、晩飯食ってなかったなぁ」
携帯は忘れてきたが、財布は持っている。俺は小腹を満たすため、駅前のコンビニに行くことにした。
時刻は21時。駅前は、仕事終わりの人たちで溢れかえっている。俺は人と人の間をすり抜け、駅の入り口のすぐ隣にあるコンビニに到着。
店の自動ドアをくぐろうとした時、だった。
『…………イ…………』
かすかだが、声が聞こえた。俺は店の入る寸前で立ち止まり、後ろを振り返る。だがそこはスーツを着た人々の群れが流れるように闊歩しているだけで、特に気になることも無かった。
気のせいなのか。
『…………ゴ……イ…………』
いや、再び聞こえてきた。か細くはあるが、頭がキンキンする響きを持つ声。何を言っているかは分からない、だが聞き間違いや気のせいじゃない。
でもおかしい。俺以外の人たちが、誰も気づいている様子がない。視界に入っている者だけでも軽く50人はいそうだが、誰1人としてそれらしい反応を示していないのだ。
『…………ゴ…………』
まただ。だが変わらず、俺以外は誰も気にしていない。
……そんなアホな。気づかないのか? こんなにはっきり聞こえているのに。
俺はコンビニには入らず、声のする方角に向かって歩き出した。よく分からない。説明はできない。だが確実に、何かおかしなことが起きている。怖くはあるが、それを上回る好奇心。腹の虫の処理は後回しだ。
『…………イ…………』
道中、何人もの人とすれ違う。だが依然として、声に気づいた素振りを見せる者はいない。
どういうことなんだ。……俺だけ? 俺にだけ、聞こえている? そうなのか……!?
『…………メン…………』
歩けば歩くほど声は大きくなっていく。どうやら方向は合っているらしい。ビル街を離れ、古い団地を通る。橋を渡り、川沿いを行く。団地を抜けて、田んぼ道。
かれこれ40分ほど進み、辿り着いたのは深い竹藪。
街からかなり遠いところまで来てしまったので、周囲に街灯といった灯りの類もほぼない。暗すぎるせいで竹藪は全体の輪郭しか見えず、それはまるで針山のようだった。
藪の中は完全な闇。何も考えずにここまで来てしまった俺だが、これには流石に戸惑った。しかしーー
『…………ゴ……サイ…………』
不快な声は間違いなくこの竹藪の中から聞こえてくる。確認せずにいられるか。俺は藪に足を踏み入れた。
冬も近づき、湿度が低くなっている。そのため竹藪の中の地面は乾燥しており、意外にも歩きやすかった。虫もほぼいない。今が夏でなかったのはラッキーだった。
暗すぎて1センチ先も視認できなくても歩くことはやめない。ナメクジに近いスピードではあるが、確実に藪の奥へと進んでいく。
『……ゴめ……サイ……』
いよいよ声が鮮明になる。近い、すぐそこだ。
『……ごメん……なさい……』
え? 今、なんてーー
『……ごめんなさい……』
「どわっ!!」
俺はすっ転び、鼻を地面にぶつけた。地面から頭の先っぽを覗かせていたタケノコに足を突っかけてしまったのだ。
「いぃっでぇ〜!! くそォ!!」
両手で鼻を押さえ、俺は地面にうずくまる。手が生暖かい。鼻血が出たようだ。地面にも赤い雫が数滴、落ちているのが見える。ちくしょう、今日はとことんイヤな日ーー
「……え?」
瞬間、俺は我に帰った。
赤い、だと? この竹藪の真っ暗闇の中で、赤いだと? 俺が、色を認識できているだと?
俺はおそるおそる顔を上げ、それと同時に愕然とした。
そう。周囲が明るかったのだ。ほんの3秒前までは10センチ先すらも見通せなかったのが、今では自分の腕毛まではっきりと認識できる。
光が届いている。なら光源はどこだ。そう思った俺が首を左に向けるとーー
「……な……!?」
いよいよ異常という他なかった。俺が今いるのは少しひらけた場所、竹が生えていない空間である。そこの空中、地面からおよそ 1メートルの位置に、直径80センチほどの光の球が静止していた。
そこから発せられている光はかなり強い。普通ならこれほどの光を直視するなど不可能であり、眼すらも開けられないはずだ。だがなぜか、全く眩しさを感じなかった。
「どう……なってんだ……!?」
俺は足りない頭をフル回転させ、考える。鼻血はまだぽたぽたと垂れているが、そんなことを気にする余裕はなかった。
これは電球か? でもケーブルらしきものがない。
なんで浮いてるんだ? スタンドもないし、吊り下げるための糸なんかも見えない。
頭を抱えていた俺だが、ここでもうひとつの奇妙な事態に気づく。
「……そういや……声が聞こえねぇ……」
改めて耳をじっとすましてみる。やはりこんなところまで俺を連れてきたあの声が、さっぱり聞こえなくなっていた。
「でも……声を辿っていたら、ここに着いたんだ……。そしてこの光の球……」
2つを無関係だとするほうが不自然。俺はそういう結論に至った。
どうするか。光の球は舐め回すように見たが、結局なーんにも分からない。声も聞こえなくなってしまった。と、なれば……。
触ってみるか?
「ちょっとだけなら……」
コレが何なのかはサッパリだが、好奇心に抗えない。
俺は右手をおそるおそる、球まであと1センチのところにまで近づける。この時点で、熱や冷気といったものは一切感じられなかった。
ーーしかし。
「へッ!?」
突然俺の右手が、球に向かって引っ張られたのだ。物凄い吸引力で、手は球にぴったりとくっついてしまう。
……否。くっついているわけではなかった。
「な、なんだ!! 腕が……ッ!?」
吸い込まれているのだ。光球の中に、俺の腕が。
腕だけではない。吸い寄せる力はどんどん強くなり、ついに首から下の全てが球の中に飲み込まれてしまった。残った頭も、ジリジリと引っ張られていく。
「な、なんだ!! なんなんだよちくしょう!! なにがーー」
その時だ。
声が聞こえた。あの声だ。頭痛がするほど軋んだ声。吐き気がするほど不快な声。だが先ほどまでとは違い、明確な感情がこもっていた。罪悪感にべっしょりと浸ったような、強い哀しみが。
『ごめんなさい……』
「……え……? お前……」
再び声が聞こえなくなるのと同時に、俺の頭は呑み尽くされてしまった。
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