第4話
彼女の名は真夏と言った。八月生まれの真夏。燦燦と輝く暑そうな名前だけれども、意外にも東北地方の出身。中学生と間違われるくらい背が小さい。会社の後輩で、何かの縁で同じ企画に関わることになって知り合った。いつの間にか懐に入り込んでいて、好かれているというよりは、小動物に懐かれているという感じがしていた。いつから交際が始まったと言っていいのか、僕にはよくわからない。
昨年の十一月四日。僕らは上野駅で待ち合わせをして、上野東京ラインに乗り込む。最近見たテレビ番組のこととか、会社の愚痴とか、湯河原にあるラーメン屋のこととか、社内ではそういう話をしていた。話すことが無くなると、それぞれにスマートフォンを取り出し、旅の下調べをした。約一か月前に彼女が熱川にあるホテルを予約して、僕が熱海駅近くでレンタカーを予約した。それ以外はノープランである。
熱海駅に到着して記念撮影の自撮りをした後、まずは腹ごしらえということになった。アジフライを食べたいという僕の意見は見事採用され、グルメサイトを頼りに店へ向かう。坂道を行ったり来たりして、到着まで無駄に時間がかかった。途中でレンタカー受け取り時刻に間に合わないことに気が付いて、レンタカー会社に電話をした覚えがある。どちらが電話をかけるかジャンケンして、僕が負けたのだ。
海を見渡せる広々とした海のお食事処。僕らはアジフライとアジのお刺身が両方楽しめる贅沢な定食をチョイス。ノンアルコールビールで乾杯。本物のビールが恋しくなるが、これから運転をしなければならない。
食後は熱海の街をしばし散策する。当然熱海にも旅館・ホテル・温泉は数多あるわけだが、真夏はここを宿泊地として選択しなかった。曰く「それじゃあ普通過ぎる」ということらしい。とはいえ熱海は熱海で見どころがたくさんあるから、それは見たいと言う。
熱海サンビーチの方へ降りていき、『金色夜叉』を読んだことは無いけれども、寛一・お宮の像の前で記念撮影。そのあたりから僕は、レンタカーを取りに行く時刻を気にし始めていた。先ほど電話で一時間ばかり遅れると伝えたが、そろそろその一時間が経過しようとしているのである。ところが真夏は天真爛漫な笑顔とともに「熱海プリンが食べたい」などと宣う。牛乳瓶のような容器に入った近頃の名物スイーツだそうな。駅前の一号店へ向かうが大行列を目の当たりにして断念。ネットで調べた二号店へ向かう。こちらの列は比較的短い。それでも多少のタイムロスをしてプリンを二つ購入し、レンタカーをピックアップしに行く。真夏は「早く食べたい」と今にも開封しそうだったが、「ドライブして海でも眺めながら食べるといい」と説得して急がせる。
車種は何だったか、あまり車に関心がないので名前を思い出せない。日産の白いオートマチック車だったことは記憶している。僕が運転席に座り、真夏が助手席に。カーナビゲーションシステムによると、熱海から熱川まで順調にいけば一時間と少し。あまり寄り道をするとホテルに着く前に日が暮れてしまいそうだ。
国道135号を南へ。海沿いの、眺めの良いコースである。僕も彼女も、海の見える土地にはなじみがなかったから、それだけで気分はいささか高揚する。真夏は自身のスマートフォンで海に合う音楽を鳴らす。すると自然に夏の歌ばかりになる。十一月だというのに。
熱海から熱川までの間で、途中車を止めたのは三回だと記憶している。一度は熱海網代のコンビニエンスストアでトイレ休憩。蛇のように長くうねった雲が三浦半島の方へ伸びていた。伊東を過ぎたあたりで少し海から離れる。川奈の100円ショップで二度目の休憩。彼女が何かを買っていたようないなかったような。ここはイマイチ記憶がない。その後、大室山や城ヶ崎海岸への分岐が現れるが、真夏は興味を示さなかった。僕の方は多少興味があったが、何も言わなかった。あまり運転に慣れているとも言えなかったので、暗くなる前に宿に到着してしまいたい思いがあった。そのあたりでスーパーマーケットに立ち寄ったのが三回目の下車。酒やスナック類の買い出しをする。学生時代に戻ったようで、これが楽しい。旅先でカロリーを気にするなんて馬鹿げているので、互いに好きなものを籠へ放り込む。
熱川のホテルに着くころには、海の色が橙に変わっていた。彼女を先に下ろしてチェックインしてもらい、僕は駐車場にレンタカーを停めてから合流する。「露天風呂から海が見えるんだって。暗くなる前に行かなくっちゃ」真夏は言う。「ビリヤードもやりたい」その笑顔を見れば慣れないドライブをした疲れも吹き飛ぶというものだ。
随分奮発して良い部屋を予約してもらったのだが、部屋の感想もそこそこに屋上の露天風呂へ向かう。混浴ではないので、しばし一人の時間を嗜む。泉質がどうだったか忘れてしまったが、たしかに絶景であった。熱い湯に身を沈めると、夕日に照らされた海と温泉が一つになる。海を見飽きると風呂の淵の方へ行って熱川の街を見下ろす。熱い川という名の通り、あちこちから湯気が上がっている。湯気の向こうに伊豆熱川駅のホーム。ポツポツと見える人影はこれからどこかへ帰るのだろうか。
風呂から上がって部屋に戻ると、くつろぐ間もなく夕食の時刻である。備え付けの浴衣を纏い、スリッパをペタペタ鳴らしながら所定のフロアへ赴く。部屋番号を告げると個室に通されて、懐石料理がふるまわれる。牛ステーキの陶板焼き、マグロや鯛の刺身、伊勢海老やアワビのボイル、その他、写真を見直しても料理名が分からない上品な小皿の数々。「新婚旅行ですか?」と仲居さんがいらんことを言う。僕はあいまいに笑って誤魔化す。「私たち、ブラック企業の同僚なんです。今日は息抜きに」真夏はそんなことを言ってビールを追加発注していた。伊豆の地ビール『碧い海』である。僕らは地ビールに目がないのだ。「馬鹿みたいな会社で馬鹿みたいに働いているのは、この日のためだったんですねぇ」「まぁまぁまぁ」「どうもどうもどうも」ビールを注ぎ合う。なかなか調子が良い。真夏は仲居さんの目を盗んで、自分の食べられないものを僕の方の皿へそっと移籍させる。僕は大概何でも好き嫌いなく食べられるが、彼女は偏食である。野菜類は基本的に苦手だし、魚介類も選り好みをする。肉は牛でも豚でも鶏でもオーケー。そんな彼女を子どもっぽいとは思うものの、一方でそんな姿を見せるのは僕に心を開いている証拠だと考えると吝かではない。アワビがこちらにやって来たことも僥倖である。
ほろ酔い気分で夕食を終えると、彼女は僕の手を引いてロビーへ行く。そこでビリヤード台を予約する。「ちょうど空いておりますよ」とフロントスタッフはにっこり笑って簡単な手続きを済ませる。脇の廊下を抜けてビリヤード場へ。誰もいない貸し切りである。「ビリヤードやったことあるの?」「ないけど、だからやってみたいの」僕もほとんどやったことは無く、棒で玉を突いて穴へ落とすゲームだということしか知らない。「番号が書いてあるから、やっぱり順番に落としていくのよ」彼女は①と刻印されたバナナ色の球を指して言った。
下手くそなりに楽しんで、ようやく部屋に引き上げる。和室と洋室を兼ね備えた立派なお部屋である。洋室のソファに座って、テレビでお気に入りの旅番組を流し、賞味期限の過ぎてしまった熱海プリンを食べる。道中のスーパーで仕入れたチューハイとスナックで二次会を始める。二日酔いになってしまっては、せっかくの旅が台無しだ。そういう気持ちはあったので、ほろ酔いくらいで止めておく。気が付くと僕らはそれぞれにベッドへもぐりこんでいた。
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