第2話

 コーヒーを淹れながら、テレビのニュースに耳を傾ける。一人で食事をするときにはテレビをつける癖があった。耳と目が寂しくなるからかもしれない。

「今朝午前六時頃、開園前の上野動物園・東園で、『ゴリラ・トラの住む森』からニシローランドゴリラのメスが一頭、倒れた木を伝って脱走するという事件が発生しました。動物園側は訓練通り、麻酔銃を装備した部隊を出動させる予定です。ゴリラの捕獲が確認されるまで、園は封鎖すると発表しています……」

 春先から度々取り沙汰されている『熱川バナナワニ園の膨張』といい、近頃は動物関連の事件事故が多いような気がする。しかも上野と言えばここから数駅のところにある。物騒な世の中だ。異常気象が関係しているのだろうか。

『ピンポーン』

 サンドイッチを一口かじったところで、家のチャイムが鳴る。アポイントメントなしで我が家のチャイムを鳴らすような友人はいない。というかそもそも友人があまりいない。ということは何かの配送だろうか? 今日の午前に指定した荷物は無いと思うが……

『ピンポーン』

 居留守を決め込もうかと思ったが、もしかしたら彼女かもしれないという思いが捨てられず、腰を上げる。こんな雨の日曜日に、彼女が訪れるはずはないのに。

「おはようございます。突然の訪問をお許しください。本来であれば、お電話なりメールなりできちんとアポイントメントをとってから訪れるべきだったとは承知しております。ただ、いかんせん自由に外出のできない身の上でして……」

 扉の向こうには、一頭のメスゴリラがたたずんでいた。雨に濡れそぼった黒い毛がべったりと身体に貼りついている。

「もしかして、上野から歩いて来たんですか?」

 我が家のテレビと示し合わせたかのようなタイミングに驚き、口を突いて出たのはそんな質問だった。

「ええ。あなた方がナックルウォークと呼ぶ歩き方で。園内でトレーニングをしていたつもりではあったのですが、なかなかくたびれました」

 僕は目の前のゴリラが雨の中、東京の街中をドスドス歩く姿を想像する。太くたくましい両腕を前に突き出し、前進する。街を混乱に陥れることにはならなかったのだろうか。

「大丈夫。人目にはつかぬよう配慮しました。とはいえ、追われる身ではありますので、入れていただけると有難いのですが……」

「あ、ええ。気が付かずどうもすみません」

 少し躊躇したのは、そのゴリラの性別のせいだろうか。僕は身体をかわしてその巨体を招き入れる。スリッパでも出そうかと思ったが、どう考えてもサイズが合わないのでやめておいた。

「こちらこそ、図々しくてすみません。図々しいついでに、何か拭くものを貸していただけませんか?」

 僕はよく乾いたバスタオルを手渡す。それは我が家でいちばん大きいバスタオルなのだが、体重一〇〇キロはあるであろうニシローランドゴリラの手に渡ると、手ぬぐいのように見える。

「どうぞ浴室を使ってください。ちょっと狭いですが」

「では遠慮なく」

 ゴリラは浴室で自身の毛を濡らす雨水をすっかり拭い去り、凄まじい握力でもってバスタオルを絞る。洗濯機顔負けの脱水能力である。

「いやぁ、生き返ったようです」

 アパートの床をミシミシときしませながら、ゴリラはリビングに現れる。黒い体毛はパリッと乾いて、先ほどよりも体が膨らんで見える。

「申し遅れました。私はハルと申します。カタカナで、ハル」

「僕は……」

「もちろん存じ上げておりますとも。私の方から押しかけたのですから。誰でも良かったのではありません」

 ニシローランドゴリラのハルさんは僕が名乗るのを遮った。何年か前に一度、上野動物園を訪れたことはあるが、もちろんこちらは名札も付けていなかったし、柵の向こうに朗々と名乗りを上げたりもしなかったはずだ。それなのに彼女は僕の名を知っていると言う。

「おや、朝食の最中でしたか。つくづくタイミングが悪く申し訳ない。どうぞ私のことは気にせず、お食事を続けてください」

 食卓に置かれたサンドイッチとコーヒーが目に留まったようだ。

「でも、何かご用事があったのでは……?」

「いずれにせよ、長い話になります。それに、コーヒーが冷めてしまう」

 僕がテーブルの前に戻り、食事を再開するのと同時に、部屋を震わす轟音がグゥ、と響く。それはハルさんの腹部から発生していた。さすがに気が付かなかったフリをするには無理があった。

「よければ、食べますか? お口に合うかわからないけれど」

 僕は作ったばかりのチキンサンドを差し出す。ゴリラは何を食べるのだったか? すぐに思い浮かんだのは黄色いバナナだが、それは偏見が過ぎる気がした。

「よろしいのですか? あなたの分が少なくなってしまう」

「それは構わないんです。あまりお腹も減っていないし」

「お腹も減っていないのに、日曜日の朝に早起きをしてサンドイッチをこしらえたのですか?」

 もっともな疑問だった。

「そういう習慣になっているんです。日曜日の朝には早起きしてサンドイッチをこしらえる……」

「……まるで、『儀式』のように?」

 それは僕の頭に浮かんだフレーズだったはずだが、口に出したのは目の前のゴリラだった。

「あなたはまるで儀式のように、日曜日の朝に二人分のサンドイッチを作る。もちろん今日私が訪れることなど知る由もないはずですから、これは本来どなたか別の方のためのものだ」

「確かにそうですが、構わないんです。今日、彼女が来ることはありませんから」

 僕がそう言うと、ハルさんはうなずいてサンドイッチを手に取る。断面をよく観察してから上品に口元へ運ぶ。

「美味しい。実に美味しい」

 ハルさんは夢中になってチキンのサンドイッチを完食した。作った者として、悪い気はしない。

「ふだんはどんなものを食べているんです?」

「動物園では、糖質低めの野菜を一日約三〇品目と脂肪ゼロのヨーグルトなどが飼育員から与えられます。個人的にはセロリがお気に入りです」

 僕は基本的に人見知りをするタイプだけれども、ハルさんとはごく自然に話すことができた。ゴリラだから『人』見知りは適用されないのかもしれなかった。

「さて、それでは本題なのですが」

 僕がコーヒーを飲み干したのを確認してから、ハルさんは居住まいをただす。

「あなたには私を、バナナワニ園へ連れていってほしいのです」

「バナナワニ園って、あの?」

「そうです。かつては熱川バナナワニ園であった、あのバナナワニ園です」

 春先から度々ニュースで目にするが、熱川バナナワニ園は徐々にその勢力を拡大している。いまや伊豆半島一帯がバナナワニ園となっているというのは周知の事実である。そんなことは上野にいるゴリラだって知っていた。

「このままだと、熱川バナナワニ園が伊豆バナナワニ園になったように、静岡バナナワニ園、東海バナナワニ園、中部バナナワニ園……と、いずれ日本がバナナワニ園に支配されてしまう。そうなると、もはやバナナワニ国です」

 日本がバナナワニ園の支配下になって、具体的にどんなデメリットが生じうるのか、僕にはわからない。わからないが、ハルさんは大変深刻な顔をしているので、神妙な空気を維持することに決めた。僕は流されやすい性格なのだ。

「バナナワニ園の膨張を食い止めるには、熱川にあるバナナ穴に私自らが入って、そこでバナナ熱に浮かされたバナナワニと、一対一で戦う必要があるのです」

 ハルさんは力説する。黒く大きな手で机をバンと叩き、僕とコーヒーカップが数ミリ浮かび上がる。

「どうして、あなたが?」

「どうして上野動物園のニシローランドゴリラが、日本の……あるいは世界の危機のために立ち上がらなければならないのか、そう聞いているのですね?」

 少し声のトーンが下がる。抑揚のつけ方が上手なゴリラである。人間の僕も見習うべきだろう。僕がうなずくと、彼女は続ける。

「それは正直なところ、私にもわかりません。あるいはジャングル生まれジャングル育ちのオスゴリラの方がふさわしいかもしれない。私だってそう思います。しかしそれは仕方がないことなのです」

 僕は一匹のワニと対峙する一頭のゴリラを想像する。

「バナナワニと戦うのがゴリラであることの必然性からしてわからないのですが」

「バナナと言えばゴリラでしょう。何をおっしゃる」

 僕は先ほどそれを偏見だと思ったが、ゴリラ自身が公然と認めてしまっているようだった。

「わかりました。バナナと言えばゴリラ。僕は全国の動物園事情をよく知らないけれど、おそらくは最もバナナワニ園にアクセスしやすいのが上野動物園のゴリラだったのでしょう」

 僕と彼女がかつて伊豆半島を訪れた時、上野東京ラインという路線を利用した覚えがある。上野は伊豆とつながっている。

「ゴホン」

そこでハルさんは一度咳払いをする。

「あなたには、熱川への道案内をお願いしたいのです。行ったことがおありでしょう?」

「ええ、まぁ。たしかに熱川まで行ったことはありますが、実のところ熱川バナナワニ園には入場しなかったんです」

 熱川への行き方を知っている人間は他にもたくさんいるし、行ったことのある人だって、僕の他にいるだろう。どうして僕が? という考えが、どうしたって浮かんでしまう。一生懸命に熱弁をふるうメスのニシゴリラを前にすると、とてもそうはっきりと他人事のようには言えないけれど。

「存じ上げておりますとも。むしろそこがポイントなのです。『あなた方』は熱川まで行ったけれど、バナナワニ園には足を踏み入れなかった。それがそもそものはじまりなのです」

「そもそものはじまり……?」

 ハルさんはたしかに『あなた方』と言った。一人旅の可能性だってあるはずなのに……。このゴリラは、すでに何かを知っている。

「そうです。あなたが一人の女性とともに熱川を訪れたことを、私は知っています」

 地の文を見透かしたようなことを言う。

「僕と彼女が伊豆旅行をして、熱川には行ったけれども熱川バナナワニ園に入らなかったことが、すべてのはじまりなのですか?」

「その通り」

 ハルさんは人差し指をピンと立てる。

「あなたの言う『彼女』は、ある日突然消えてしまった。それからというもの、バナナワニ園は膨張を続けている」

「それは……」

 時期的にはたしかに一致するが、その二つの事象の間に何らかの因果関係があろうとは、ちっとも考えが及ばなかった。

「これはあなたにとって、少しばかり辛いことかもしれないけれども、思い出してほしいのです。それこそある種の『儀式』として……ちょっと失礼」

 ハルさんはドスドスと寝室へ向かい、ベッドのシーツを引っぺがしてマントのように羽織り、自らの毛むくじゃらの肌を隠した。

「朝食も済んだことですし、出発です。儀式は列車の中で執り行うことにしましょう」

 その恰好で公共交通機関に乗るんですか? と聞きかけたが、やめた。自信満々なハルさんの士気を下げることになりかねない。なるようになるだろう。不思議と自分が同行することに抵抗はなかった。どうやらこれは他人事ではないようなのだった。

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