第4話 ラカリズ村3 ラナ・ミルツ


 水面との境界がどこにあるのかがわからない。

 水底は一向にやってこなかった。

 深く暗い水中にオスカーは引きずり込まれていく。

 放っておけばこのままどこまでも足元の映らない水の中に落下し続ける。

 そんな恐怖がオスカーの心を支配し始めた。


 それから暫くしてオスカーは非常に綺麗な、巨大な水の塊に遭遇する。

 球体の形をしており、暗い水の中でその巨大な水の塊は、一際青く輝きを放っていた。

 闇を晴らすようなその輝きへと手を伸ばそうとして、しかし慣れない水中では自由などきくはずもなくオスカーは溺水する。


 苦しい。

 頭の中がその言葉一つに埋め尽くされていく。

 その時どこからともなくラナの声が脳裏に響いた。


「……オスカー、わたしなにもできなくて本当にごめん……!」


 オスカーの意識は浮上した。


「……こ、こは?」


 頭上に、ラカリズ森の見知った景色が広がっていた。

 オスカーは驚愕を顔に宿した。

 ラナの顔が見下ろしてきていたからだ


「……よかった。オスカー、目を覚ました?」


 彼女の青い瞳から涙が零れ落ちてくる。


「……状況が分からねえんだが……?」


 オスカーは困った顔を浮かべた。


「とりあえず泣くの止めろよな、ラナ……」


「うん。ぐすッ」


 鼻をすすりながらラナは微笑んだ。

 オスカーは照れくさくなった。

 だがそんな陽気な気持ちもすぐになくなってしまう。

 まるで己の体が重たい石になったかのようにオスカーの肉体は動かなくなっていた。

 全身から汗が止めどなく噴き出してきていた。


「大丈夫? 体が動かせないとかじゃないよね?」


 ラナが不安そうに顔を覗き込んでくる。

 オスカーはしかめ面でつぶやいた。


「……この疲労感、魔力が枯渇こかつしてやがんだ。あのクソ婆、纏ってた雰囲気が普通じゃなかったが、やっぱり悪い魔導師だったか……」


「クソババア? それに悪い魔導師って前に私がオスカーに読み聞かせたあのおとぎ話に出てくる悪い魔導師?」


「違げえ。現実に存在してやがる悪い魔導師だ」


 困惑するラナを見て、オスカーは淡々と答えた。


「ラナ。お前、俺が倒れてからどれくらいの時間が経ったかわかるか?」


「そんなのわからないけど、でもね、お昼は過ぎてそうかも? ……お腹減ってきたもん」


 オスカーは苦笑する。


「悪いが俺はこの通り動けねえんだ。だからお前が俺の代わりに今から話す内容を村長にでも伝えてきてくれよ」


「え? オスカーから村長さんになにか話すことなんてあるの? そんなこと頼まれるの、今までで初めてだよ……? というか動けないってほんとに大丈夫!?」


 ラナが慌てふためいた。


「いいから聞けって。ラカリズ森に悪い魔導師が侵入した可能性がある。たぶん森ん中でなんかやばいことをやらかすつもりだ。解放人パーティーが、グランツの家に泊ってるはずだからそっちにも伝えといてくれると助かる」


 状況が呑み込めていないのか、混乱し続けるラナ。


「わ、悪い魔導師って? おとぎ話に出てくるような?」


「もうそれでいい。とにかく俺がこうなってんのは全部その悪い魔導師のせいなんだよ」


 合点がてんがいったのかラナは真剣な表情になった。


「なんとなくだけど状況はわかってきたかも……!」


「うおっと?」


 その時になってオスカーは自分が、ラナの膝の上に寝かしつけられていたことにようやく気がついた。

 ラナの手によって彼女の膝上にあったオスカーの頭部が、草の根茂る森の地面にゆっくりと降ろされる。


「ふーぬぬぬー!」


 それからラナは、地面に横たわるオスカーの体の向きをうつ伏せに変えた。

 その拍子に口内に土が入り込み、オスカーは唾を吐き出した。


「……はあ……、なあお前、俺の話聞いてたか?」


「うん」

 

 オスカーの腹の下に潜り込んできながらラナが答えた。


「だったらなんで俺を運ぼうとしてやがる?」


「おとぎ話に出てくるような悪い魔導師がこの森の中にいるんでしょ? オスカーのこと置いてけないじゃん」


「あのなあ、これでも俺だって体がでかくなってきてんだぞ? 畑仕事とからやらねえお前が一人で運べるわけないから止めとけ?」


「ふーぬぬぬ! そろそろオスカー、十二歳だよね? ふーぬぬぬー! 今度はなにプレゼントしよっかな!」


 オスカーのことを自分の身体で背負い込み体重に押しつぶされそうになりながら、それでもラナは必死に足を進めていく。


「いらねえ! お前のプレゼントとか、どうせおままごとの夫役だとか、魔力蛍の話の読み合わせだとか、困ってる人間を救いだす騎士ごっこだとかとにかく自分のやりたいことばっかだろうが?」


「はぁ、はぁ……えへへ、わたしはオスカーが、去年わたしの誕生日に見せてくれた魔力蛍嬉しかったけどなあ」


「紛いものだけどな」


「……でも、わたしにとっては本物だったし!」


「いつか本当の本物、探してきてやるよ」


「ほんと!?」


「その代わり今は俺を置いて、村まで一人で走れ」


「ぜったい嫌!」


 ラナが声を上げた。


「ねえ、はぁ、進んでる、はぁ、ほら、はぁ、見て、ちょっとずつ、前に進んでるよ、はぁはぁ」


 ため息をつくオスカー。


「置いてけっつてんだろ。お前が思ってるより全然進んでねえし、時間の無駄だ」


「……ぜったいに嫌」


「言っとくけどな? お前が一人で村まで戻ってから、助けを呼んできてくれりゃそれでいいんだぞ? その方が俺だって簡単に戻れる」


 ラナが足を止めた。


「はぁ……はぁ、嘘だよね? さっき、わたしね、オスカーが倒れたこと村の人たちに知らせに行ったんだよ? でもね、誰もついて来てくれなかった。だから私が最後までオスカーのこと助ける」


 薄暗がりに包まれた草木に、空から陽射しが落ちてきている。


「ごめんね」


 ラナがつぶやいた。

 ぶっきらぼうにオスカーが返す。


「なんで謝んだよ? 村の連中が俺を助けないことにお前は関係ないだろ?」


「あるよ! だってオスカーのお父さん、昔、軽い気持ちでこの森に入ったわたしのことを守るために魔物に殺されちゃったんだよ……!?」


 息を切らせながら怒鳴り返してくるラナ。


「オスカーのお父さんが生きてたら、今だって助けに来てくれてたはずだもん」


「泣くなよ」


「泣いてなんかない」


 ラナが歩みを再開する。

 一向に変わらない森の景色にオスカーは嫌そうな顔を浮かべ、ラナの金髪を見下ろす。


 ――こうなったこいつを説得するのは無理だ。なにせこの村に暮らしてるにも関わらず俺にずっと話かけてくる筋金入りの馬鹿だからだ。となると俺が自分で地に足をつけて歩いて村まで戻るしかねえ。だが体はまだ動きそうにない。たぶんだが、あん時あの悪い魔導師のクソ婆は俺の額の傷口から自分の魔力を流入させやがったんだ。目が覚めた時に汗が大量に吹き出てやがったのも俺の持つ魔力があの婆の魔力に抵抗した結果、異変として体に現れた症状だった……。つまり枯渇した魔力が回復しさえすれば、自分の足でまた歩けるようになるはず。


 目を細め、オスカーは吐息を漏らす。


「ラナ、お前いい加減にしやがれよ? このままじゃ悪い魔導師がここへ戻ってきちまったら、俺たち二人とも揃って終わりだぜ?」


「はぁ、はぁ、それってオスカー、一人だけの方が逃げられないってことでしょ?」


 オスカーは苛立ちながら言葉を返す。


「……親父のことだけどな? あれから何年経ったと思ってやがる? 何度も言ってるが親父は解放人だったんだ。そしてあの日も解放人としての務めを果たして亡くなった。だからそもそもの話、親父の死にお前はなに一つ関係ねえんだよ」


「……さっきね、オスカー……気を失ってた時にね。お父さんのことずっと寝言で呼んでたんだよ……? 何年経っても許されることじゃない」


「嘘つけよ?」


 ラナはなにも答えなかった。

 オスカーは何度も深呼吸した。

 己の両手足の指の開閉を何度も繰り返す。


「ラナ、止まれ!」


「嫌だ。ぜったい見捨てない」


「そうじゃなくて、俺はもう自分で歩ける」


「え? ほんと!?」


 途端、ラナがオスカーの体重に潰れた。


 オスカーはよろめきながら立ち上がる。


「ふらついてるけど、ほんとに大丈夫?」


 再び地に立った泥だらけのラナが心配げに見つめてきた。


「お、まえは、じ、分の心配でもしてやがれ……」


 オスカーは樹木の立ち並ぶ緑の中へ目を向ける。

 一歩ずつラカリズ村目指して歩き始めた。

 ラナがオスカーの肩を支えた。


「ねえ、顔真っ青だよ?」


「体調が、悪いだけだ……あの悪い魔導師の口ぶりからして、ぜえ、俺のこと殺そうとしてやがったんだろ」


「こ、殺すって……」


「だから急げ……あの野郎、ラカリズ村にもなんかするようなこと口走って、はあ、やがったんだよ」


「う、うん……」


 二人で寄り添って歩く。

 やがて森と村の境界に辿り着く。白昼の陽射しが強まった。

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