第2話 ラカリズ村1 11歳
オスカー・エメラルデ、十一歳の朝は叔父のグランツが勢いよく放った平手打ちから始まった。
寝ぐせのついたオスカーの緑髪が、そのごつい手によって掴み上げられ引っ張られる。
そうしてベッドから落とされると、ようやくオスカーは冷えた床板の上で事態を把握した。
――っいってえし夢じゃねえな、これ……?
うつろな様子でオスカーが見上げた目線の先には、苛立った様子のグランツの顔があった。
グランツはその目の
「やっと起きたか……。いいかオスカー、足らないお前の脳みそに今から私の言葉を叩き込みなさい。深夜、一組の
と喋っていたグランツがふと視線を一点に向けた。
次の瞬間、グランツは激情し何度もオスカーの頭部を踏みつけた。
「ッい――!?」
オスカーは力なく床板に打ち付けられた。
「……掃除はきちんとしろとあれほど言っているというのに、なぜわからないのか。埃がまだ残っているじゃないか。本当に姉さんと違って出来の悪い子供だな……全く……」
グランツの愚痴が零れる。
オスカーは床を舐め取った。
――解放人がうちに泊まるからその間、出てけってことをグランツ叔父は言ってやがるんだ。むざむざ従わされるのもムカつくが考えようによっちゃ悪くはねえ状況か。
オスカーがゆっくりと立ち上がる。
自室の外が騒がしくなった。聞き覚えない人間の声が耳に届き始めた。
「物音がしたけどなにかあったんだろうか?」
「待ってください。勝手に人の家の中を歩き回ると悪いですよ?」
「……そんなことは分かってるけどさ。気にならないかい?」
閉じている扉がある方向へグランツが顔を向けた。
彼はランタンを手に飛び跳ねるように足を動かし扉を開くと、廊下に顔だけを出した。
「な、なんでもありませんよ! いやあ少し部屋の中が散らかってましてねー! もう一つの部屋のほうは大丈夫なんですが、こっちの部屋の準備は今整えているところなんです。その間は少々居間のほうでお待ちくださいね!」
そのグランツのお願いを聞いて、複数人分の足音がオスカーの自室から遠ざかって行く。
物音を聴いていたオスカーは
勢いよく窓が開いた。
寒気が室内に入り込んで来る。
部屋の中はより冷え込んだ。
グランツがオスカーの体を抱え上げた。
「数日は戻ってこないでくれ。分かったな?」
と、
彼はオスカーのことを室内から窓の外に放り投げた。
屋外に投げ出されたオスカーは土の上に落っこちた。
しかし、すぐに立ち上がった。
オスカーは外気の冷たさに身震いする。
ボロい寝間着の上から身体を両手でさすり、素足をその場で何度も足踏みした。
オスカーの眠気混ざりの視界に薄暗闇が残る空が映っていた。
朝焼けが徐々に混ざり始めている。
鳥の鳴き声が甲高く響き渡る。
村の近くにはラカリズの森が広がっている。
その為空気は澄んでいたし、この辺りの早朝や夜間は冷え込むのだ。
「っち」
ランタンの火に浮かび上がるグランツの
急いでこの場を離れなければ数日後、この時のことでグランツから殴られることになるだろう。
頭部を手でさすりながらオスカーは当てもなく歩き出した。
「はあ……打ちどころ悪くて死んだりしてな。……くそ、ふざけやがってグランツの野郎め……」
青あざができた衣服の下をさすりながらオスカーは愚痴を零す。
日常的な肉体労働から来る
「ま……だがおかげで手伝いがさぼれる。絶好の修行日和ってやつだ」
オスカーは不敵に笑った。
鳥の糞が、土の道の上に落ちていた。
糞を思いっきり素足で踏みつぶす。
足裏にくっついてきた。
空を見上げると数羽の鳥が羽ばたいている。
オスカーが居候しているグランツ叔父の家は、ラカリズ村の出入り口付近にあった。
数羽の鳥は村の外に広がっている大きな世界を目指して進んでいた。あの先の大地には森や草原がどこまでも続いている。
やがて街道と呼ばれる道や、繁栄した町などの上空をあの鳥たちは旅をするに違いない。
そしてそれはオスカーが生まれてきてから一度も目にしたことがない景色だ。
オスカーは鳥たちの後ろ姿を瞳で追いかけていた。
太陽の姿が目に入りこんだ。
瞬く間に朝日が夜を晴らしていく。
空の青色と、太陽の赤色が混ざり合う複雑な空模様が頭上に広がった。
オスカーは村の奥へと向かって足を進めた。
女性二人が小声で話しこんでいる様子が目線の先にあった。
二人はオスカーをじろじろと眺め見て、陰口を叩きながら蔑むように笑っていた。
オスカーは正面を向いたまま歩いた。
このまま突き当りまで進んで行けば、ラカリズ森と人の生活圏との境界にぶつかる。
ラカリズ森から流れて来る一本筋の川により、村は真っ二つに分けられていた。
道中に橋をかけることによって一つの村として繋がっていた。
川を挟んで東側には村長屋敷がある少しだけ盛り上がった土地が混ざっている。
川の西側をそのままオスカーは進んで行く。
遠くの道の先に見えたラカリズ森の緑が、村の家屋のてっぺんよりも高い位置まで伸びていた。
一昔前、この村では森の中から出現する魔物の怒りを、人間の生贄を差し出すことで沈めていたらしい。
その際には、川を挟んで生贄区とそうではない区が分けられ村人の中から生贄となる者が選定されていた。
今では村は橋で繋がっており魔物も討伐され生贄が選ばれることもなくなった。
もしも現在でもその風習が行われていたとしたら真っ先に自身は生贄に選ばれていたことだろう、とオスカーは苦笑する。
だからやっぱり俺は運がいいんだ、とオスカーは思った。
だがその時、石ころが頭部に向かって飛来してきたのだった。
オスカーはそれを避けたが、しかし鳥の糞を踏みそうになり体勢を崩した。
その結果、遅れて到来した二つ目の石ころに顔を打たれた。
川の向こう岸から「おっしゃあーラッキー! 今日の俺はついてるかもなー!」
「いいや、俺の一発目があったからこそ命中したんだろ!」
「なくても当たったさ!」
そんな村の大人たちの声が聞こえてきた。彼らは田畑へ向かっている道中のようだ。
声はオスカーを標的として捉えた。
「おいオスカーッ! おめえの顔みてっと気分が悪くなるッッ! てめえみたいな忌子はとっと消え失せちまえェッッ!!」
ぶつかった石に切られたオスカーの額から血液がしたたり落ちていた。
唇から口内に侵入した血をっぺと吐き捨ててオスカーは顔を
――あのクソ野郎共の相手をいちいちしてみやがれ……? 考えただけで時間の無駄がすぎる。取るべきは無視一択だ。
どうでも良さそうにオスカーは緑に覆い隠されたラカリズ森に向かって足を踏み出す。が、やはり我慢ならんと
オスカーは川の向こうへ届くような大声を張り上げる。
「親切心から教えてやっけどなあ! アンタの奥さんの悪口言ってやがったぞ! アンタの隣の奴がな!」
その声を聞き取った男たちが互いに顔を見合わせた。
したり顔でオスカーは追撃を叫ぶ。
「うちの妻に比べてあいつの奥さんは駄目な奴だってよお!」
瞬間、川の向こうで男たちが仲間割れをし始めた。
「っけ」
オスカーは彼らへ背を向け足を踏み出した。
――毎回俺のこと痛めつけてきやがんだ。たまにくらい痛い目みやがれってんだ。馬鹿野郎どもめ。
「いッてえって!?」
気が付くと言い争っていた男たちが川の向こうから再び仲良くオスカーへ石を投げ始めていた。
「ちくしょうッ、嘘だって気づかれたか!?」
オスカーは足の動きを早め、森を目指して全力で逃走を開始する。
――くそ、くそ、くそ。俺には
真っすぐと前方を見据えながら走り続けた。
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