骨ガム

根古谷四郎人

第1話 ガムを噛もう

「あ・か・り・ちゃん!」

「あ…稲川先輩。」

 トイレで泣いていた私に、同じ部署の稲川先輩が声を掛けてくれた。

「はい。また備品を切らしちゃって……。整理整頓もなってないって」

「うーん。さとるっちも言い方がきついからねー。本人はさほど怒っていないんだけど。こう、語気が強いんだなー。」

 悟っちというのは私の先輩で教育係の佐野先輩の事だ。私は毎日、この先輩に起こられている。

「飯田さん。この資料まだ出来ていないのですか?締め切りに間に合えばいいではなく、締め切りの少し前に仕上がるように計画的に作業を進めてください。」

  「ここ、違っていますよ。見直ししました?」

  「コピー用紙はここまで減ったら発注。無くなってからでは遅いです。」

  「言われた事はメモを取ってください。僕も何度も言いませんよ。」

「……。」

「まーた泣きそうになってる。よしよし。」

 思い出し泣きをしている私の頭を、稲川先輩が撫でてくれた。教育係には毎日叱られる。他の先輩は自分に仕事を振って来ないし、入った頃はお互い励まし合った同期は自分を見てため息をつく。

「はい。」

「え?」

 ふいに差し出されたものに、私は戸惑った。先輩の手にあったのは、犬がよく噛んでる、骨の形をしたガム。

「大丈夫だよ、人間用の骨ガムだから。ガムを噛むとね、ストレス軽減になるんだよ。集中力とか記憶力も高まるらしいしね。」

「そ、そうなんですか……。」

「でね、このガムは、自分の嫌な思い出を思い浮かべながら噛むと良いんだよ。」

「嫌な思い出を、ですか……?」

「百聞は一見にしかず!あ、でもトイレからは出よっか。」

「そ、そうですね。さすがにトイレで食べ物は……。」

 そこで、二人で給湯室に行き、改めてガムを噛んだ。一口目はすごく苦い。お世辞にも美味しいとは言えないが、先輩がくれたんだからと我慢する。そして、今日叱られた事を思い出しながら噛み続けた。

「……あれ?カレーの味!?」

「お。味が変わって来たねー。」

 稲川先輩がニヤっと笑った。「嫌な思い出を考えれば考えるほど、味は美味しくしかも長続きするんだよ。」

「面白い……!」

 味が変わるにつれ、不思議と嫌な気持ちも小さくなってきた。最初は思い出すのが辛かったのに、段々その痛みが消えていくような。そのかわり、何だか心のエネルギーが満ちてくる気がする。

「何でしょう。なんだか元気が湧いてきました。」

「うん、その意気!」先輩が力こぶを作って笑った。「あ。ガムだけど、食べちゃって大丈夫だからね。―じゃあ、これは私からのエール。辛い事もあると思うけど、頑張って!」

 稲川先輩はそう言って、私にガムの入った缶を渡してくれた。


「橘さん。頼まれていた資料、出来ました。」

「え。お、おおありがとう。」

 驚いた顔で私から資料を受け取る営業の橘さん。無理もない。橘さんは元々これを佐野先輩に頼んでいた。それを「出来るようになる練習です。」と、佐野先輩は私に回した。

「……いいですね。訂正も必要ありません。このまま飯田さんが出してきて下さい。」

「え?」

「作ったのは飯田さんですから。」

 いつもなら私が出す前に佐野さんがチェックして、ミスが見つかって、結局佐野さんが全部作り直して出す、という感じなので、誰も私には資料作成を頼まなくなっていた。それが、一から十まで私が作って、しかもミスが無い。橘さん以上に、私は驚いていた。その後も、佐野先輩からいくつか資料作成が回って来たけど、どれも無事に終わらせることが出来た。

「ガムの力、凄いなぁ……。」

「上手くいったみたいだね!」

 帰りの駅に向かう途中、稲川先輩に声を掛けられた。

「きっとガムのおかげです。先輩、ありがとうございました!」

「いーのいーの。あ、その缶には20個入ってるから、大切に食べてね!」

 20個しかないのか、と思ってしまってから、私は首を振った。なんて贅沢を言ってるの私。そもそもお菓子を缶まるまるもらえる事自体、ありがたいことじゃない。今日帰ってからも食べたかったけど、我慢しよう。仕事でどうしても辛い事があった時だけ食べることにしよう。

「じゃあ、また明日。」

「はい!ありがとうございます!」

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