第7話 田中君と朱葉原さん
――とん、とん、とん。
誰もいない廊下でその音はよく響いて、朱葉原さんの耳にも届いたのだろう。彼女も足音の聞こえる方向に目が向いていた。
「早いな。もう来る奴もいるのか」
彼女がそう呟いた後、すぐに目線を教室に戻し歩き出した。僕も足音を気にせずに彼女の後ろについていくと、
「あ? あ……おーい。朱莉じゃん」
見覚えのある男声が背中からかけられた。
僕がゆっくりと振り返ると、彼はすぐそこまで走ってきていて、全体像が明らかになっていく。
坊主頭、鋭くて吊り目がちな瞳、身長百八十はある体躯。間違いない、田中くんだった。
どきり、と心臓が鳴る。
ジャージ姿の田中くんは、僕には目もくれずに朱葉原さんに話しかけると、彼女はさらっと応える。
「ん? あぁ…
「朱莉こそ早くね。いつもこんな早くねぇよな?」
「ちょっと、今日は用事があったんだよ」
すると、流れるまま二人は僕を置き去りに雑談に花を咲かせ始めた。
……二人って仲良かったんだ。
その風景を遠目で見ながら、ずしんと重いものが心にのしかかる。一気に朱葉原さんが遠い存在だってことを知ってしまうような、なんだか裏切られたような……とりあえず情けないことは確かだ。
いや、そりゃそうか。田中君も朱葉原さんも交流の輪が広いし、同じクラスメイトだ。互いに知らないわけがない。運動部で気が合うだろうし、仲がいいなんて道理でしかない。
ふーむ、空気だなぁ。今の僕。
田中くんはどうやら、僕だということには気づいていないらしい(そもそも、僕がいることに気づいてないかもしれない)。
しかし、これはチャンスだ。今のうちにこの気まずすぎる場所から逃げよう……
二人が話を始めると、僕はそろりそろりと教室の方向へと忍足で向かう。
「用事って?」
「マキマキにハンカチを返そうと思って」
「マキマキ……?」
「そっちにいるやつ」
瞬間、二人の視線が僕に注がれる。僕は忍足で動かしていた足をびくり、と瞬間接着する。
田中くんが僕を目を細めて見る。
僕はだらだら、と汗が体中から流れるのを感じていた。
き、気まずすぎる……
田中くんとはクラス替え初期以降、話さなくなったから何を話せばいいのか……
まぁ、話さなくなったというより話せなくなったんだけど。昔、たくさん話しかけて疎遠になった相手だからこそ、何を今更話せばいいのかわからない。
僕を忘れたということはないだろうけれど……いや、なんか僕のことを忘れていてくれないものか。そうしたら、まだ対応も楽なのに……
僕はだらだらと汗を流し続け、脳内で模範解答を探すためにインパルスを駆け巡らせる。
しかし、僕の脳が結論を導き出すよりも先に、田中くんの瞳が細まる。
「……ふっ」
そして、少し嘲ったように僕を見たあと、すぐに元の表情に戻った。
「ハンカチね」
田中くんはそれだけ言って、僕には何も言及することなく、朱葉原さんに視線を戻す。
……なんか、笑われた?
なんとなく笑われたような気配を感じたが、何かの勘違いだろうか。
違和感を感じながらも、僕は何も言われなかったことに心底ホッとした。
すると、田中くんが口を開く。
もちろん、相手は僕ではなく朱葉原さんだ。
「人から借りたってことは……お前自分の分持ってなかったのか? あーだから今、手が濡れてんのか」
「ワタシはハンカチなんて学校に持ってこないからな」
「男に女子力で負けてるじゃん」
「うるせぇ」
田中は揶揄うように笑う。
どうやら、朱葉原さんと田中くんは仲が良いらしい。教室では話すところを見たことがあまりなかったから意外だ。
これまた、運動部のつながりというやつだろうか。
「えっーと、確か牧田だっけ?」
僕が考え事をしていると、なんと田中くんから話しかけられた。心臓がひどく衝撃を受ける。
「あっ……えっ……」
いきなりのことに口から言葉が出てこない。
違います。真砂木です……とも言えるはずもなく。
「あっ……まぁ、そんな感じです」
僕が目線を合わせることはせず、地面を見ながら答える。
すると、田中くんはそのことは気にせずに話を続ける。
「大変だよな、朱莉ってめちゃくちゃ大雑把じゃん? 女とは思えねぇーつうか」
「え……あっ、はい」
「おい、本人が目の前にいるんだが」
朱葉原さんは不服そうに苦言を呈するも、田中くんは笑って続きを話す。
「ほら今まさにだけどさ、手を洗っても拭いたりしないからなー。それに、靴のかかとは踏み潰してぐちゃぐちゃ。ストローは噛み潰すし。本当に女か?って思うのしょっちゅうよ」
「はぁ……」
なんだか……よく知ってるんだな。朱葉原さんのこと。
田中くんは長々と、自分の知っている朱葉原さんのどれだけガサツかを説明した。
そして、朱葉原さんが不機嫌な表情になりつつあったところで、田中くんは総括する。
「彼氏も苦労するだろうなぁ……これはマジで」
「へぇ……」
なんだろう、この俺の方が「朱葉原朱莉」を知っている的な……それにさっきの敵意といい……
(――ハッ!)
僕は察した。
わかったぞ……田中くんこそ朱葉原さんの彼氏なんだ……
彼氏でもない男が彼女と仲良くして、彼氏である田中くんは嫉妬してたんだ。そして、さっきの演説は一種の威嚇。
――こいつは俺のだから、お前は近づくな。
そう言う意味が込められていたに違いない。
それにさっきの悪口とも言える言葉選び。気のおける仲だからこそだろう。なるほど、納得した。
「恋人」ならば、お互いのことをよく知っているだろうし、悪口も冗談として消化されるのだろう。
僕は「恋人」も「友達」すらできたことないから推測だけれども、そういう悪口が冗談として捉えられる仲はとても羨ましい。
田中くんが朱葉原さんと恋人関係だったなんて、なんか複雑だけど、まぁ……おかしい組み合わせでもないよな。
すると、田中くんは朱葉原さんのスカートを指差した。
「てか、朱莉スカート濡れてんじゃん。もしかして、濡れた手をスカートで拭こうとしてたん?」
「いや、これは」
「マジでそーゆーところが、朱莉の悪いとこだわ。ガサツすぎ」
その瞬間、朱葉原さんの額がピクリと嫌な歪みを見せた。
僕の脳内で危険信号が鳴り響く。これ以上進めば、命はない。そう教えてくれるアラームががんがんと鳴る。
「……健勝こそ、ハンカチなんて持ってこねぇだろ。いつも、ズボンで拭いてんじゃん」
「俺は男じゃん。でも、朱莉は女だから変だろって話」
「は? なんだそれ」
朱葉原さんの声の調子が冷たくなり、視線が鋭くなった。ただでさえ冷たい廊下が更に冷えたような気がした。
しかし、これに田中くんは余裕の表情。これが「恋人」の通常運転なのだろうか。だとしたら、凄い肝っ玉だ。
でも、勘弁してくれぇ。僕はそんな肝っ玉持ち合わせてないから、しんどすぎるんだよ・・・この空気。
そろそろ、田中くんも何かしらのフォローをした方がいいと思うのだけど、彼は止まりそうにない。
それほどまでに、僕と朱葉原さんが話してるのが気に食わなかったのか。田中くんは意外と独占欲が強いんだな。あぁ、逃げ出したい。
「いや別にさ、ちょっとガサツくらいならいいんだよ? そこに男も女もないから。けど、朱莉はそれが度を越してるって言うか」
彼は止まらない。僕の冷や汗も止まらない。
陽キャの二人に挟まれてるだけですでに僕は瀕死なんだ。その二人が喧嘩なんて始めてしまったら、もう僕は死んでしまう。
犬猿の仲の恋愛コンビというのは、ラブコメで少なからずよく見る。しかし、リアルで見るのは初めてだ。これを見守るほかの人たちの気まずさというか、気持ちがわかった気がする。
こーゆー系の喧嘩は大抵双方の勘違いとか、プライドがどうちゃらで発生する。今回の例で当てはめれば、田中くんの独占欲と嫉妬が原因だろう。
素直に「他の男と喋ってるのがむかついた」といえばいいものを、きっとプライドが邪魔をして言えないのだ。乱暴な物言いで朱葉原さんをけなすしかできない。
これでは、悪循環だ。
「ガサツガサツって……なんでお前に」
朱葉原さんが田中くんから一歩近づいたところで、僕は二人の間に入った。
「――でも。そ、そういうところが可愛い……ですよね!」
「え」
朱葉原さんの素っ頓狂な声が耳に入る。
僕は怒りに染まった彼女の顔を、元の笑顔に戻すために、フォローの言葉を次々と紡ぎ出す。
「まぁ……人にもいろんな人がいますし。男らしい女の子ってこと可愛いで、でふよ!」
僕は目を瞑りながら、頭の中に思い浮かんだポジティブな言葉を全て取り込み、舌に乗せる。
田中君は朱葉原さんに言いたいことはこんなひどいことじゃないんだ。そう、彼はツンデレ、本音では僕の言っていることに共感しているに違いない。
しかし後ろを振り向くと、なぜか田中くんは不快を露わにして、僕を睨んでいた。
「お前……何言ってんだ?」
「え……」
彼の顔を見て、僕は一瞬でやらかしたことを自覚した。
場を収めようと必死だったが……他の人の彼女を「可愛い」って、それはだいぶ禁句なのでは?
「あっ、……ごっごごめんなさい。僕が可愛いなんて言っちゃダメですよね。ごめんなさい不躾でした」
「はぁ?」
僕は田中君たちから距離を取り、田中君に向って頭を下げる。しかし、彼の怒りは収まっておらず、声にはいまだにイライラが住み着いている。
「お前……」
田中君が僕に近づいてくる。おわった。
その時。
「おい、健勝。良いのか、もう五分はここにいるぞ」
「え」
朱葉原さんがそう言うと、田中君はジャージのポケットからスマホを取り出して、時間を確認する。
「やべ。山本に怒られる……っ!」
田中君は僕をまた睨んだ後、すぐさま教室の方へ走りぬけた。きっと、本来の目的は教室での忘れ物だったのだろう。
難を逃れたことに胸をなでおろしつつ、僕は鶴の一声をくれた朱葉原さんを見る。
「はぁ……めんどくせぇ」
お礼をしようと思ったが、彼女は虫の居所が悪いらしく顔を歪めていたので、声をかけることができなかった。
さっきまでのさわやかな空気はどこへやら。重たい沈黙が二人の間で流れる。
タスケテ。
重たい沈黙に耐え兼ねていると、僕は朱葉原さんの手から雫が落ちていることに気がついた。さっき、田中君にさんざんいじられていたやつだ。
「あ、朱葉原さん……」
僕は重たい空気を払拭するためにお礼の言葉代わりに、ハンカチを朱葉原さんに向かって差し出すことにした。
すると、朱葉原さんは僕を見る表情がこわばっていて、どこか気まずそうな・・・感じがした。
もしかしなくても、彼氏がいる前で「かわいい」とか抜かした僕に対して軽蔑しているのだろう。・・・ほんとうにシニタイ。
僕はハンカチは受け取ってもらえないだろうと、下げようとしたがその前に彼女にひったくるようにして取られた。
「……ありがと」
朱葉原さんは僕の顔を見ないまま感謝をつぶやくと、朱葉原さんは差し出されたハンカチで濡れた手を拭う。
よ、よかった。受け取ってもらえないレベルで軽蔑されてるものかと・・・朱葉原さんが優しくて良かった。
・・・しかし、これからは対応を間違えないようにしないと。簡単に女の子に「かわいい」とか言ったら、取り返しがつかなくなる。
「ふん・・・ワタシだって別にハンカチで拭けるし」
ガサツ、と言われたことを気にしているらしい。
田中君が嫉妬(たぶん)で言ってしまった言葉だからあまり気にしなくてもいいと思うけどなぁ。
僕は胸中でそう思っていると、朱葉原さんはイライラがまた吹き返したのか、顔をこわばらせていた。
「はい! かえ」
「え」
そしてそのまま、ハンカチを僕の胸に押し付けるように返すと、彼女の力が強く、僕は受け取れ切れずに廊下にハンカチを落としてしまう。
「あっ! わりぃ!!」
朱葉原さんはすぐに屈んで地面に着いた個所を裏につまんで持ち上げる。
そして、ハンカチを僕につきだしたので、僕は受けとろうと両手をお皿の形にして待つと、きれいにたたまれたハンカチが両手に置かれた。
前を見ると、申しわけなさそうに朱葉原さんが眉を下げていた。
「ごめんな、ちゃんと見てなかった」
「別に・・・い、良いですよ。拭いた後で、ですし・・・」
「いやでも、これから使うだろ?」
「まぁ・・・それは」
そういうと、朱葉原さんはしゅん、と落ち込んだ。
重い空気をどうにかしようしたのに、結局また重くなってしまった・・・
僕は落ち込んでいる朱葉原さんをどうにかして励まそうと、あたふたと考えるもいい作戦が思いつかない。
とりあえず、えっと・・・
「そ、その・・・ぼ・・・僕もハンカチ持ってこなかったときはズボンで拭いてるんで、すよ。き、気にしないでください」
すると、朱葉原さんは落ち込んだ眉を上げて、僕を上目遣い(朱葉原さんの方が身長が大きいので見上げられているが)で見た。
「持っていかないことあるのか」
「えっと・・・は、はい。面倒くさくて」
というか、昨日はたまたま持っていただけで、持ってきてないことの方が多い。
ハンカチを持ってこないことが「ガサツ」ならば、僕も朱葉原さんと同じくらいガサツだ。
「は、ハンカチなんて・・・みんな、めんどくさいですよ・・・ね?」
僕が何気なくそう言うと、朱葉原さんは目を見開いて硬直した。
あ、あれ? なんか変なこといったかな?
しばらくすると、朱葉原さんは不敵な笑顔を僕に向けて、見上げて言う。
「お前・・・可愛いな」
「え」
お次は僕が硬直した。
「そんな照れんなよ」
朱葉原さんはすっかり元の調子に戻って、にこやかに笑った。その笑顔は艶めかしくて、でも後光がさしてるみたいに神々しかった。
僕は照れていることを肯定するように、視線を逸らすことしかできなかった。
「ありがとな」
朱葉原さんもう一度、僕にそう言うと教室へと歩き出した。
♪♪♪
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