No Name

穂村ミシイ

第一部 

プロローグ

 始まりは一本のドラマだった。

 

 のちに伝説と呼ばれたそれは、最高視聴50%を超え、海外で続編映画が制作されると世界全土を巻き込んで大ヒットを記録した。このドラマを世界にまで押し上げたのはたった一人の女優の存在があったからだと、皆が口を揃えて言う。


 その美貌は老若男女構わず籠絡させ、その演技は人類の至宝とまで謳われた。


 彼女はなんにでもなれた。


 白衣纏えばマザー・テレサと違わぬ聖人に。

 銃を持てば冷徹無慈悲な狂人に。


 年齢、性別すら超えて役に生きる彼女は、世界に羽を広げ魅了してみせる。


 『生きた伝説、天才女優』とは彼女の為の言葉だと誰もが認める中、当の本人は東京のタワーマンションの屋上に立っていた。


「人形になれ。」


 右手に酒瓶、左手に台本。

 寒さで赤く染まった裸足。


 覚束ない足取りは月の出ない真夜中でもゆっくりとマンションの先端に向かっていく。


「人形になれ、感情を殺せ、私は役者。」


 順風満帆の仕事の裏で彼女の心は疲弊しきっていた。精神安定剤、睡眠薬、痛み止め、あらゆる薬の過剰摂取。それから酒が手放せない。


 彼女は憑依するタイプの役者。


 それ故に現実味を帯びた演技が高い評価を得ていたのだが、彼女は役に入りすぎる。


 演じてきた役は徐々に彼女と言う一人の人間を崩壊させ始めていた。


 もう、自分がどんな性格だったのかも思い出せないほどに。

 

 それでも仕事は五年先まで埋まっている。

 次々と新しい役が決まっていく。


 皆が見ている。

 期待している。

 次は何を演じるのか、と。

 

――いつの頃か、全てが吐き気に変わった。


「駒に徹しろ、何も考えるな。」


 三歳から子役として業界入りした彼女は、大人から教え込まれた言葉の数々を洗脳するみたく復唱していた。


 持っていた台本で顔を覆い瞳を閉じると、大きなため息に近い深呼吸を一つ。

 

 印字したてのインクと晩冬の香りに誘われ瞳を開いた時、そこにはもう彼女はいなかった。


『アンタの人生、私がめちゃくちゃにしてあげる。』


 声に色が乗った。

 彼女は今、役の中にいる。


 さっきまで覚束なかった足取りは自信ある悪女さながら。


 ピンと伸びた背筋、浮いた踵。

 コツコツとヒールの音が幻聴する。

 ガラスの靴を履きこなしたようなウォーキングはそこらのモデルの比ではない。


 酒と台本は花束でも放るみたくそこらに放り投げた。彼女の指先は誰もいない筈の空を見下し指差す。


『だって、その方が面白いじゃない。』


 傲慢、高貴、支配。

 そんな言葉が似合う大人の女性が、そこにいた。


『私に会えて嬉しいでしょ?』


 一人芝居の幕開けだ。


 派手なドレスに身を包んだ女が金持ちの男から大胆にも財産、地位、名誉の全て巻き上げる、そんな芝居。


 無機質な屋上は舞台に。

 闇は彼女だけを輝かせるために。

 小雨は紙吹雪を送れない神からの賛辞。


 彼女が演じればそこが舞台となる。

 完璧だ、流石は天才女優。彼女の演技を一目見れば誰だって言うだろう。


 だが、たった一人それを否定する者がいた。


「違う……っ。」


 それは彼女自信。


「違う、そうじゃない。まだ足りないっ!」


 彼女は役に入りすぎる。


「ネムは、こんな女性じゃ、ない。」


 ネムとは、彼女が次に演じる女詐欺師の名前だった。


「もっと高飛車。もっと我が儘。もっと――」


 ネムは彼女の為だけに書き下ろされた役。

 何にでもなれる天才女優が、誰でも欺ける最強の女詐欺師を演じたら革命が起きる。そんな期待から産まれた役だったが、彼女はこの役を演じきれずにいた。

 

 その理由は本人が一番分かっていたのだから救えない。

 

「ネムは、本能だけで生きている。心から自由な女性。」


 自由。

 その言葉は彼女にとって重すぎる。


「自由って、なによ…………。」


 天才女優は三歳から奴隷だった。

 物心つく頃には仕事に縛られ、遊び相手は同世代の子供ではなく台本。


 周りにはいつも金に目を光らせる大人がいた。その結果、出来上がったのは丹精込めて作られた愛らしいお人形。

 

 誰もが一度は夢にする銀幕のステージも、立ってみれば銀なんて艶やかな色をしていないことを知る。


 あるのは誰かの血と汗と異常な執着が産んだ禍々しい沼。そんな沼を華麗に泳ぎ切るのが俳優という狂人達だ。


 彼女もその一人だった。

 国民の娯楽の為の犠牲、それが当たり前だと教えられて生きてきた。


 だから分からない。

 ネムにある自由が。


「そんなもの、幻想、でしょ……。」


 天気は彼女に呼応して小雨から大雨に変わった。彼女の頬を通る雫は雨なのか涙なのか。


「自由。誰の束縛も受けず思うままに振る舞う様。」


 彼女は自由の意味を口に出して鼻で笑った。

 

 そんなもの、この世界には存在しない。

 ネムよりも富を築いている。

 名声だって世界中に轟いている。

 なのに…………


 ――自由なんて、どこにもない。


 今だって、マンションの下にはマスコミが屯している。あと三時間もすれば新しい現場へ移動しなければいけない。天才女優の名に相応しい態度を求められる。


 ――自由なんてどこにもないじゃないっ!

 

 誰の束縛も受けず思うままに振る舞える、そんな世界が本当にあるのなら、


「私は、生まれる世界を間違えたんだ。」


 彼女がポツリと吐いた本音は天に響いたらしい。大雨は雷を呼び、雷鳴が東京中に轟く。


『アハハハッ。私は何者にも縛られない。』


 ネムを演じる彼女は狂った様に笑いながら、セリフを吐く。

 

 そんな世界は存在しないと知りながら。縛られ、もう自分一人では指の一つも動かせないお人形の分際で。


『行き先も何もかも全部、私が決めるわ。』


 行く先は茨の道。

 傷つき、擦り切れたら捨てられる。

 最後は名前すら思い出して貰えない存在になるのが関の山。


 それでも……。


『私がアンタの全部を使ってあげる。』


 それでも立ち止まる事は許されない。

 役者は幕が降りるその瞬間まで、勝手に舞台を降りる事は出来ないのだから。


『アハハハ、アハハハハハハッ!』


 これはどっちの笑いだったのだろう。

 心から笑っているネムか。

 心を忘れ壊れた人形か。


 一つ確かなのは、世界は今、彼女を中心としていた。


「アハハハハハハハハハハハッ…………」


 彼女が望まなくとも、

 世界は、

 神は、

 国民は、

 彼女を見ている。


「………………もう、誰か、私を」


 彼女は確かに愛されていた。

 狂気的なまでに。


「…………………………殺してよ。」


 祈る形に手を絡めた彼女の頭上、黒雲は光った。次の瞬間、今年一番の雷が一つのマンションに落ちたらしい。


 雷鳴は泣いている様だったと誰かが言った。


 この自然現象で東京の半分が停電したが、流石は日本の首都、東京。数分後には復旧されていた。


 ただ、一つ。

 予想外はあった。


 死者が出たんだ。

 それも日本が誇る唯一無二の存在。

 

 2022年1月24日

 天才と呼ばれた一人の女優が死んだ……。



 ◆◆◆

 


 ――その世界の文明は既に崩壊していた。


 一度は豪華絢爛に花開いた人間が創り出した文明は、人間の傲慢さに沈み、残ったのは荒廃した世界だけ。それでもしがみつく人間は闇の中の仄暗い光に集る蛾と同じ。廃墟をねぐらに、過去の栄光に縋り付く。


 もうとっくの昔に壊れている。

 救えない。

 聖人は既に他界を選んで世界を去った。

 こんな世界で最も活気のある場所。


 これが一番笑えない現実。

 

 ネオンサイン輝く『地下隔離犯罪都市ウロボロン』だ。


 天を仰げば土塊。

 頭を垂れれば死骸の山。

 太陽は登らず衛生と正義と秩序が風化し、欲望と堕落だけが残ったこの都市は犯罪を犯した人間の最終流刑地。

 

 行きはよいよい帰りは首無し、そんな場所。

 手のつけられない犯罪者とその子孫が大半で構成され、血の絶えない楽園と化していた。

 

 どこでも住めば都と言うがここは住めば終わり。

 堕落に始まり快楽、借金、内蔵売って、最後は肉の塊行きの高速新幹線状態。

 

『ウロボロンで生きて行きたきゃ金を出せ』


 それがここでの合言葉。

 そうさ、ここが一番過去の栄光が残っている。


 本当に笑えない。


 こんなクソみたい都市、ウロボロンで笑みを振り撒く娘が一人。


「お初にお目にかかります。」


 違法に違法を重ねて一般的となった建築物の一つにその娘はいた。

 

 闇にパッと大きく咲く緋色。

 赤髪を高い位置で一つに結び、黄金のビー玉瞳で満面に笑う娘は綺麗なお辞儀をして見せた。


「お集まり頂き、誠にありがとうございます。」


 それは貴族のよう。

 まさに泥中の蓮とは彼女の事。

 犯罪、欲望、混乱が渦めく違法都市に似つかわしくないが、彼女は縛られる事を知らない。


「私は、ネムと申します。」


 そこに、かつて天才と呼ばれた女優がいた。

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