不屈のマザー・グース

柊 太郎

第1話

 『ングゥ・スァン(ngu xuẩn)』、“彼ら"がダグに付けた渾名。

 その意味するところは、日本語で言えば『馬鹿』、英語で言えば"idiot"、まあそんなところだ。

 ここはベトナム民主共和国、ホァ・ロー収容所、米軍兵士たちの間では『ハノイ・ヒルトン』として悪名を馳せた場所。

 ダグことダグラス・ヘンドリックス合衆国海軍二等兵曹は、そこに収容されている捕虜の一人だった。

 そして“彼ら”とはすなわち、この収容所の看守たちだった。

 時は1967年、共産主義国家であるベトナム民主共和国いわゆる北ベトナムと、民主主義国家であるベトナム共和国いわゆる南ベトナムは、元々一つだった国を二つに割っての戦争の真っ最中であり、ダグの祖国であるアメリカ合衆国は南ベトナムに肩入れする形でこの戦争に参加していた。


 ダグは合衆国中西部、イリノイ州の、コーンベルトと呼ばれる地帯に属する小さな町で生まれ育った。

 日がな一日、車に乗って、走れども走れども見渡す限りのトウモロコシ畑が続く、そんな場所だ。

 人よりもちょっと記憶力が良い以外は、勉強も運動もそこそこ、それ以外はとりたてて得意なことも、なりたい職業もなし、そんな少年だったダグが、生まれた場所よりも少し広い世界を見てみたいと望んだら、軍隊に入る、というのが一番手っ取り早い方法だった。

 少し考えた末に、高校を卒業したダグは海軍の扉を叩いた。少し広い世界を見てみたい、という望みを一番確実に叶えてくれそうな気がしたからだ。

 海軍を選んだ理由は他にもあった。

 折しもアジアの片隅で始まった戦争に、合衆国は本格的に足を踏み入れつつあった。

 空軍に入ってもパイロットはまあ無理だろうし、地上勤務では国の外に出られるかどうかも分からない。

 一方で陸軍の兵隊にでもなろうものなら、ベトナムの泥の中を這いずり回る羽目になりそうだ、それはそれでぞっとしなかった。

 まあ同じベトナムへ送られるにしても、船の上ならまだマシだよな、彼はそう考えた。

 

 新兵訓練と艦船乗務員としての専門訓練を経て、ダグはボストン級ミサイル巡洋艦、USSキャンベラの乗務員となった。

 キャンベラは65年に一度ベトナムへ展開し、空母の護衛と艦砲による地上支援を行い、本国へ帰還していた。

 そして1967年、ダグの乗り込んだ巡洋艦キャンベラは、おおかたの予想通りに、再びベトナムでの任務に就いた。


 ディキシー・ステーション、巡洋艦キャンベラが遊弋ゆうよくする海域は、合衆国海軍の兵士たちにそう呼ばれていた。

 より北に位置するヤンキー・ステーションが、北ベトナム領土への爆撃、いわゆる北爆を行う空母打撃群の為の場所であったのに対し、南のディキシー・ステーションは南ベトナム領内で作戦を行う合衆国陸軍へ、航空支援を行う空母ための場所だった。

 かっての南北戦争の、北軍兵士ヤンキー南軍兵士ディキシーに引っ掛けた命名だった。

(ヤンキー・ステーションなんて名前、南部の連中のやる気を削いだりしないのかな?)

 ダグはそんな事を考えつつ、艦上の勤務を日々こなしていった。


 そして1967年4月6日の早朝、まだ夜も完全には開けやらぬ南シナ海、ディキシー・ステーション。

 そこに浮かぶ巡洋艦キャンベラの甲板上にダグはいた。

 まもなく南ベトナム領内の友軍を支援するため、複数の艦による大規模な艦砲射撃がまもなく開始される予定だった。

 ダグは直接それを見てみたいと思い、看板まで出てきたのだ。

 不意に彼のすぐ近くの5インチ砲が、無警告で発砲をおこない、ダグはその爆風で海面へと投げ出された。


 海のない場所で生まれ育ったにもかかわらず、ダグは泳ぎが得意だった。

 ライフジャケットは着けていなかったものの、彼は泳ぎながら落ち着いてズボンを脱ぎ、両方の裾を縛ると大きくあおって中に空気を入れ、簡易的な救命具とした。

 そしてそのまま、ダグは数時間ほど海に浮かんで漂っていた。

 何度か叫んではみたものの、その後始まった艦砲射撃の大音量の中では、ダグの叫び声が誰かの耳に届くことは無かった。

 船の舷側をよじ登ろうにも、手を掛けられそうな場所など無い、それにあまり船体の周りをうろうろしていれば、スクリューに巻き込まれるかもしれなかった。

 船から少しだけ離れた場所で、そのまま浮かんでいるつもりが、海流のせいかダグの体は徐々にキャンベラから離れて行き、やがて遥かに離れた場所まで漂って来てしまった。

「このまま魚の餌になるのかな……」

 半ばやけくそな気分で、ダグは歌いだした。

 幼い頃から口癖のように、事あるごとに口ずさんでいる歌、マザー・グースの『ゆかいな牧場』だ。

「マクドナルド爺さんは農場を持ってる、イーアイ・イーアイ・オー……」

 半ば諦めかけたダグが、歌いながら浮かんでいる所に、小さな木造の船が近づいて来た。

 それはベトナムの漁船だった。


 ベトナム人の漁師は至って親切だった。

 ダグを船に引き上げて、港に戻ると家まで連れて帰り、濡れたダグの服を乾かし、それを待つ間に熱いベトナム風うどんフォーすら出してくれた。

 ただひとつの問題は、その漁師の家が北ベトナム領内にあった事だ。

 漁師自身の通報か、それとも近隣の住民の通報か、いずれにせよ、濡れた服が乾くのを待っていたダグの所に北ベトナムの兵士がやってきた。

 フォーをすすりながらダグは言う。

「食べ終わるまで、待ってもらっても良いかな?」

 ダグの希望は聞き入れられなかった。


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