木漏れ日の下の約束
それは偶然の出会いだった。
普段の私なら、他の患者に話しかけたりはしない。私より後に入院してきた人々は、どんなに仲良くなろうと私より先に退院していき、二度と会うことはないからだ。
しかし外来患者だという彼は違った。
車椅子で院内を散歩していた私に声をかけたその男性は、癌で余命宣告されたばかりなのだと朗らかに話していた。
病人だという自覚がないというより、残された時をどう使ってやろうとわくわくしているような、そんな変な人だった。
◆
どうしても一日一度は病室の外へ散歩しに行くこと、と主治医から言い含められていた。
だから私は用もないのに毎日車椅子を走らせては、病院の中庭を一周して部屋に戻るという何の益もない行為を日課としていたのだ。
しかしある昼下がり、その日の中庭はどうも様子が違った。どこからともなく、何だかいい匂いがする。何だろう。醤油か何かの芳しい香りが、清涼な中庭の風に乗って鼻先に届く。
匂いを辿り、車椅子を走らせる。その大元では中庭のベンチで男性が鎮座していた。五十代くらいだろうか。
顔に刻まれた皺が頑固そうで少し話しかけるのを躊躇っていると、私に気づいたらしい彼は声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、ここの患者さん?」
「……そう」
生返事をしながら、自然と目は男性が手に抱える紙箱に吸い寄せられる。テイクアウト用の紙製容器だろう、ケーキを運ぶやつ。しかし甘味とは思えないいい匂いはここからしていた。
視線に気づいた彼は、笑って箱を開けてみせた。
「ああこれ、食べるかい」
「これは――手羽先?」
「そう。俺、中華屋なんだ。これ、焼き手羽」
差し出されたきつね色の手羽先を、抗うことなく受け取る。こんがりと焼けたそれは、木漏れ日の下でほかほかと湯気を上げている。普段なら、こんな見ず知らずの人から差し入れられた食べ物なんて物騒で口になんてしないだろう。
でもその時はなぜか断るという選択肢が消え失せるほど、目の前の焼き手羽は魅力的に映ったのだ。堪らず一口、人目もあるのに齧り付いた。
その味は――口内に迸る肉汁と溢れる旨みは背筋を駆け抜け、脳を揺さぶり、快楽物質とともに身体中を巡った。一言で言えば、衝撃だった。
すかさずもう一口。ぱりっと弾ける香ばしい皮に包まれた肉を食むと糸を引くようにほろほろと骨から離れ、甘い脂を伴って口に滑り込む。名も知らぬスパイスが鼻を抜け、咀嚼するごとに刺激を放って柔らかい肉を引き立てた。
ああ、ああ……この感動を、何と表現したら良いのだろう。震えていても、両手は手羽先を口に運び続ける。
長い長い入院生活、そこで出される食事といえば申し訳程度の薄味が残り、嚥下しやすいように軟らかく仕上げられた味気ないものばかりだ。私も長年、そういった物ばかりを口にしてきた。
だからこそ、彼が持参したという焼き手羽は言わば劇薬のようだった。食べても食べても次が欲しくなる。
結局、気づいた時には私は両手をべとべとにして、後には手羽先の骨の山が入った箱と、困惑と安堵が入り交じった笑みの男性だけが残った。
「お嬢ちゃん……うちの焼き手羽そんなに気に入った? また作ってきてあげようか」
私は平静を装って小さく頷いたけれど、すぐに可笑しくなって噴き出した。だって、手のひらだけじゃなくて唇もグロスを塗りたくったみたいに鶏の脂で照りを放っていたから。
誰に話しかけるでもなく、ただやわらかく差す木漏れ日の中をゆっくりと流し歩くだけの、そんな味気ない散歩は――この日を境に百八十度変わった。
◆
それから週に一度程のペースで、私とその男性――神田さんは会うようになった。患者と面会客、ではなく入院患者と外来患者として。
親子以上に年の離れた私を退屈させないようにか、彼はいつも出前を持参してくれた。主治医に隠れて食べる中華料理の数々は本当にどれも絶品だった。
どちらも饒舌とは言い難かったけれど、思わずお互いに身の上を話すくらいには仲良くなったのだから、私は彼との時間を楽しいと感じていたのかもしれない。今思い出しても不思議な人だ。
神田さんには二人の息子がいるのだと話していた。彼に似て自由に生きる長男と、店を継ぐことしか考えていない頭の固い次男。二人の愛息子を遺して逝くことだけが心残りなのだそうだ、とも。
もう少ししか時間が無いという彼は、それでも寂しさを感じさせない笑顔で小指を差し出した。
「勝負しないか、俺と」
「何よ……それ」
「俺が死んでも、あいつらはお嬢ちゃんをひとりにしたりしない。きっと生きる意味になってみせる。……そうなる資格があるかどうか、お嬢ちゃんに試してほしいんだ」
「……どういうこと?」
「俺の息子たちがお嬢ちゃんの心に寄り添える人間になれたら、どうかあいつらを守ってやってほしいんだ。……いなくなった俺の代わりに」
「虫が良すぎるお願いじゃない? 私が意地悪して遠ざけるかもしれないわよ? 私が絆される保証なんて……」
「あるさ。それくらい信じてやれなくて、親父なんかやっていけねぇよ。あいつらはきっと、俺の代わりにお嬢ちゃんを気にかけてやれる」
胸を張ってそう言い切った彼の目はまっすぐだったのに、その時私は何と答えたのか思い出せずにいる。突然の申し出が、眩しすぎたのかもしれない。
その言葉がそのまま彼の遺言になるだなんて思わなかった。
けれど遺言は遺言のままじゃなくて、私にとっての予言になり――予言はその通りになった。
中華屋を継いだ彼の息子たちは、私のどんな願いも叶えてくれた。
意地悪な注文もたくさんしたと思う。それでも兄弟は時間通りに出前を持ってきては、食べるところを見守って帰っていく。それはひとりぼっちの入院生活に差した、一筋の木漏れ日のようなあたたかい時間だった。
味はまだまだ荒削りだけれど、後味のそこここに父親の面影を感じてほっとしていた時に――中華屋兄弟の弟は言った。
「俺が太るメニュー作ってやるよ。いつかちゃんと歩いて店まで来れるように」
その衒いのない言葉にあの日約束した神田さんの姿が重なった。
力強い言葉がどれほど私の心を救ったか、貴方は知らないでしょうね。耳まで赤くした貴方が病室を去った後、私がどんな顔をしていたかなんて。
だから――私も約束を守ることにしたの。
神田さん、あの木漏れ日の中庭で貴方に伝えられなかった返事を、今から伝えに行くから。
開け放った病室に空っぽのベッドを残して、私は秘めた想いを抱えて車椅子を走らせた。
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